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浜離宮✕角野隼斗(9/16オールショパン)

2021年9月16日。10月に開催されるショパン国際ピアノコンクール本大会への出場が決まり、角野隼斗のオールショパンコンサートが行われました。渡航前の最終お披露目になる今公演は、抽選で250名ほどの観客しか見ることができないものでした。そんな貴重なチケットを幸運にも手にすることができたので、感想を残そうと思います。

(興味ないひとにとってどーでもいい自分語りが含まれるので目次で読みたいところだけ読めるようにしておきます。【読み飛ばしOKの自分語り】をスルーして【本編】からどうぞ)

【読み飛ばしOKの自分語り】

この日、16時を過ぎた頃。私は新幹線の中にいた。窓から見える田園風景が遠ざかるのを見て、涙が出そうになる。本当に東京へ向かっているのだという実感が湧いてきた。実家もあり1時間ほどで行ける距離なのに、コ口ナ禍の東京はそれほどまでに遠い、幻の都だ。

当選はFCの優先枠だった。8月の終わりには既にこの幸運を手にしていたのに全く喜べずにいた。そもそも応募が消極的理由によるものだったからだ。

未知の感染症に世界中が怯えた2020年の3月、初めて生の角野隼斗を聴くはずだった公演が中止になった。その後ようやく状況を整理しだした世界が動き出し、12月にはサントリーホールでのリサイタルが決定したが、感染が蔓延している東京が怖いという家族の考えによりチケットを手放した。

そのあと何度も東京公演を見送って、東京に行けない代わりにと無理やり足を伸ばし購入した京都のコンチェルトも手放し、心の持って行き場がなくなっていて、外れれば諦めがつくと思っての応募だった。よって、一般枠の応募はしないと決めていた。

前述したとおり希少な席数。間違いなく外れると思っていたから、当選の通知を見たときは最初なんのことかわからなかった。応募したときは、万が一に当選できたら誰に反対されても行く、などと駆け落ちでもするかのような昭和臭い突っ走りモードになっていたが、いざ当選してみると当然そんなことはできるわけもなく途方に暮れた。

感染者数報告は減りはじめていたものの、依然としてまだまだ逼迫していた時期だった。絶対無理。絶対また手放すことになる。でも行きたい……。もう何度もチケットを手放し続けて、またあの悔しくて悲しい思いをするのかと完全にマイナス思考に陥っていた。

こんな思いをするくらいなら応募などせず、確実に行ける人が当選したほうが良かったはず、99%行けない私なんかが当選しては駄目なものだったとも思った。Twitterには当選できなかった人の嘆きが溢れていて、行けないかもしれないけど当選しました、などとは、とても呟けなかった。

9月の1週目が終わる頃には感染者報告が落ち着きを見せ始め、少しずつ希望が見えてきたが、新学期の学校クラスターなど安心できない要素もまだあった。それでもコンサートの週になり、地元県の病床数にも余裕が。ここでようやく家族に話し了承を得た。行ける。緊急事態宣言は延長になったが2週間前とは明らかに違う。この流れなら行ける。そう思いつつ、やはり懸念は拭えず当日までワクワクとは無縁のまま過ごした。

駅に向かう道でチケットを発券してもまだ安心できなかった。これはコ口ナのせいではなく、子供のことだ。ケガをしたとか突然の嘔吐だとか、もし今そんな電話がかかってきたら私は東京行きを諦めて家に戻ることになる。けれど新幹線に乗ってしまいさえすれば、迷惑は承知で不可抗力的に義父母らに頼ることになる。とにかく早く駅に着きたかった。早く新幹線に乗ってしまいたかった。

それが冒頭の涙の理由。低く覆う雲の隙間から差し込むたくさんの光を見ながら、その天使のハシゴにすがるような気持ちで揺られていた。

新橋からタクシーに乗って会場に着いたとき、大げさじゃなくこんな気持だった。2月に初めて彼の生音を聴く機会に恵まれたが、ソロは初。開場前のビルの扉、この奥に角野隼斗がいる……。そう思ったら、今度は今までとは別の緊張に切り替わった。


【本編】

ホールに入ると想像していた以上の小ささ。チケットは4列目の右通路すぐ。当選しただけでもすごいのに、なんという神席。通路すぐなので視界を遮るものなくステージのピアノが見える。(トップ画は座席から撮影したものです。この距離……!)

開演のアナウンスがあり、いよいよ。と思ったがなかなか始まらない。会場は静まり返っていた。自分の心臓の音が隣の人に聴こえるんじゃないかと思った。きっとそんなに長い時間ではなかったと思う。だけど何十分にも感じられるくらい長い静寂が続いた。

大きな拍手に迎えられ、タキシード姿の角野が柔らかな笑顔で登場した。前日ツイートしていたとおり、ヘアスタイルがショパン風になっていた。元々のウエーブショートを七三分けにしたようなセット。

肖像画を見せたと呟いていたから仕上がりが気になっていたが、スタイリストが今風に折り合いをつけてくれたようでとても似合っていた。角野と親交のあるピアニスト、清塚信也氏の名付けた「ショてぃん」がそこにいた。(※ショパン✕かてぃん)服装もヘアも、本大会仕様だ。

ピアノの前に着席した角野を見て、入場でもらったセットリストを思い出し「エチュード10-1」が始まるのを待った。が、始まったのは聞き覚えのある別の曲だった。

生音の迫力と曲が違うことでびっくりして、信じられない音色にただただ圧倒されていた。弦の音がオーロラのような束になってピアノからこちらに向かってくる。音が見えるとはこのことだと思った。ああ、ずっと彼の音から感じていた構造色の源だ。目眩がするほどまばゆい音。

ピアノを間近で聴いたことは何度もあるが、こんなに複雑な弦の音がするのを聴くのは初めてだった。部屋でギターやコントラバスを聴くときの感覚が近かった。ピアノの音というより弦楽器のそれだと思ったが、響き方はまるで別。もっとたくさんの弦が互いの振動をこすり合わせている。ピアノの弦は200本以上あるから当たり前といえば当たり前か。角野の表情が見たいはずなのに、命が吹き込まれたように体を鳴らすピアノから目が離せなかった。

それが角野隼斗の凄さだというつもりはない。上には上がいるだろうし、品良く弾くならむしろ弦の音は邪魔かもしれない。けれど角野隼斗の左手が繰り出す低音に取り憑かれている私は、この弦の音が何よりも嬉しかった。幾重にもなって鞭のようにしなる音を浴びて、風圧を感じそうな波動に酔いしれた。

(後のMCで「間違えて弾いちゃったノクターン」と判明。後に他のファンの方に「13番(48-1)」と教えてもらった)

続いての曲がプログラム通りの10-1。動画の演奏よりも少し前に進みたがっているような勢いを感じた。動画の上品さも、こっちの元気さも、どちらも好き。伸びやかな左手に右手のアルペジオが乗って弦が響き合い、楽譜にない夢幻の音を奏でる不思議な曲。よく弦を震わすことができる角野にぴったりだと思う。

このショパンの隠した秘密のメッセージ(と勝手に思っている)に最近気付いたことで、前よりもっと好きになった。似た感じで勢いあって夢幻が強く出現しているのは、マウリツィオ・ポリーニの録音かなと思う。

と、ここで高音のまろやかさに気付く。ノクターンの時は弦の音ばかり聴いていたようで、今更。

粒立ちの美しい高音が、柔らかいものに包まれているような音に聴こえた。ホールの音響なのか、ピアノの性格か、角野の技なのか、それとも全てなのか。身も蓋もないことを言ってしまえば、打鍵するフェルト部分の感覚なのかもしれない。丸まって寝ている猫の背中を撫でているような温もりがあった。真珠より乳白色のムーンストーンのような、内側から光るようなイメージ。残響は桐生でも聴いた風鈴のような透き通る音がまた聴けた。

25-10は、中間部の優しいところで遠くから教会の音がした。角野がショパンを弾く時、いろんな曲で教会の音が聴こえる。もともとショパンがキリスト教だからというのはもちろんとして、ハーモニーの中でどの音を聴かせるかの選び方が絶妙なのだと思う。好き。激しい部分(主題?)は少し忙しなく感じて、本番はもっと余裕ありげに洗練させてくるといいなと思った。

スケルツォ1番は、鋭さだけじゃなく、なだらかさが増してさすが弾き慣れているなという感じ。動画よりキメの音(つたわれ)の角も取れて、美しさが増していると感じた。メリハリの良さはそのままに、繋がりが以前より更に綺麗になったと思った。

後半に向かって音色を少しずつ変化させて、繰り返すフレーズがどんどん色を変える。その変化がすごく微妙で、どこでどう変わったか気づかないうちに進行してラストの大爆発まで盛り上がるのが相変わらずかっこいい。甘すぎず優しい慈愛の中間部も、温かみがあってすごく心地よかった。曲に対しての迷いのなさが、ここまでの3曲の中で一番ではないかなと感じた。本番もこの自信をもって貫いて弾けたら最高だと思った。

ここでMCだったと思う。(曲とかMCの順序が曖昧。パンフのセトリを頼って並べているので違っていたらごめんなさい)
今日の曲順が一次、二次、三次、という感じで並べているというようなことを言っていたと思う。

そしてマズルカ風ロンド。これが……ここまでの中で最高だった。スケ1最高! と思ったけどあっさり更新した。

可愛い。愛くるしい、小鳥の楽しげなさえずり、もしくはリスのしなやかな筋肉の躍動。この曲を聴いたら、どうしようもなくファイナルのコンチェルトが聴きたくなった。なんとなく3楽章ぽさあるのかな。PTNAの動画とは全然違うと思った。他の曲でも思ったが、勢いやメリハリを損なうことなく落ち着きが加わっている感じがした。とにかく、とにかく可愛らしいがすぎた。

(9/18追記:FCの限定動画(紀尾井)を聴きなおしても全然違った。テンポ感は同じ感じだったと思うけど、今回のほうがもっとゆとりがあって丁寧な印象。でも生で観た思い出補正の可能性もある笑)

ここでバラ2。予備予選で演奏した中で一番好きな演奏だった曲。これを生で聴けるとは……。さっきまでの可愛らしさから一変した雰囲気に息をのむ。

淡々としているようで静かに火が灯っているような、そういう熱い静けさ。ああ、好きだ。また教会の音。激しいところとの対比は予備予選より穏やかだった気がした。くっきりしているのも好きだし、どちらも良いと思ったけど、審査的にはどっちが良いのだろうというようなことを考えたりもした。だけど、終わりに向かうところの連打とか昇降が本当に大好きで、この部分の解釈は誰がなんと言おうと角野隼斗版が宇宙一好き。

そして華麗なる大円舞曲。ショパン知らなくても聴いたことはあるだろうという有名曲。少し前まで、踊りのワルツと考えると少し早いんじゃないかと思っていた。ところがこれは踊る用というわけではないらしいと知った。もちろん踊りたくなれば踊っても良いのだろう。

角野のワルツも鮮やかなほどに早かった。スピーディーなパートとスローなパートの弾き分けが見事。この曲もマズルカ風ロンドと同じくらい可愛らしくて、そして華麗だった。最後にいくにつれ、ピアノ曲のはずなのにところどころにオーケストラが加わったような音の厚みが出て、とても美しかった。

でも、本当にすごいのはここからだった。休憩を挟んだあとの3曲……。

ソナタ2番。今回の公演中、一番印象に残った曲。

私はショパンのことを語れるほどショパンを知らない。だけど2年ちかく角野隼斗のショパコンにへばりついて少しは分かったこともある。そして生きてきた中で知ったこともある。それは、見えないものがあるということ。見えていると思っているものが、そうではないことがあるということ。

この曲に限らず、ショパンは単純な喜怒哀楽ではない感情表現を曲にしている、と思う。平たくいえば、顔で笑って心で泣いているような見えない感情。だからパッと見では華やかで明るい曲なのに、その奥に翳りがあったり、爽やかそうなのに、炎がくすぶるような熱を感じたりする曲があるのだと思う。

だけど、それをわかるように弾いては結局バレバレなのだ。顔で笑って心で泣いている人は、泣いている心を悟られまいとしているから、簡単に陰をクッキリさせてしまっては、違ってしまうのだと思う。

以前から角野隼斗のショパンは、そこがすごいと、なんとなく感じていた。感情を誇張しない演奏の中にある、微かな翳りや朧げな炎を見つけたいのだ。

曲を作った時期にもよるとは思う、でも大げさに強そうに振る舞う英雄も、悲しいのですと大声で泣く人も、ショパンの曲にはきっとあまりいない気がする。淡々とした無表情に近い笑顔で強い志を胸に秘めていたり、人前でニコニコして誰もいないところで泣いたりする。そういう曲が多いのではないか。

角野隼斗のソナタ2番は、まさにそういう演奏だったと思う。特に3楽章「葬送行進曲」がすごかった。一度目の主題は静かではありつつも葬送行進曲のよくある「お葬式ムード」とは少し離れていた。ここで重くなることを想定する人から「こいつわかってないな」と思われるかもと思った。ところが続く穏やかで優しいはずの中間部にいきなり「無」を聴いた。

突き落とされたような落差があった。まるで逆だと思った。主題が悲しくて、中間部は癒やしのはずだというのが突然崩された。優しいフレーズが魂を弔うように一面の百合を一瞬だけ咲き乱れさせ、優しさのままでそれを真っ黒に消し去った。表面的にはどこも綻んでいない、優しく微笑みかけるような音楽なのに、無音のようだった。

そして二度目の主題が暗くのしかかり、その「無」を押し広げるように、もしくは塞ぐように「無」を重ねた。私は何を聴いて、何を見せられたのだろうか……。その混乱を音にされたような4楽章を聴きながら、出口のない袋の中で飛び回る蝿のような自分だけが「無」の中に取り残された。

空っぽの悲しみだと思った。もはや悲しみという言葉すら残されていない「無」だ。これを角野はどこから持ってきたのかと、帰宅してからずっと考えていた。角野がここまでの絶望を経験したことがあるとは思えなかった。誤解のないように。角野がというよりも、多くの人はこんな絶望を経験すること無く一生を終えると思う。ひとえに想像力なのだろうか。

では何を想像したか。角野にとって全てが無になるような絶望とは何か。そう考えたとき、音楽が鳴っているのに無音に感じた意味がわかったような気がした。この絶望は、世界から音楽が消えた「無」かもしれない。

もちろん私の勝手な想像だ。角野が考えていることではない。けれどこういう想像力を掻き立てられるのが角野隼斗の音楽のすごさであるとも、思う。想像しすぎてしまって、自分でもアホかと思う。勘違い解釈でショパンに苦笑されたらしいシューマンの気持ちが少し理解できる気もする笑。でもそれほどまでに強く惹かれた。このソナタを、必ずワルシャワで弾いてほしい。皆に聴いてほしい。心から思う。

続く幻想ポロネーズはここがどうだったとか、どうすごかったかとかいうのをちゃんと覚えていなくて、レポを書く身として不甲斐ないと思う。だけど、この日に演奏された曲の中で一番ショパンを感じた。というかショパンが憑依したとさえ感じた。私ショパン知らないけど。去年の12月に行われたサントリーホールでのハンガリー狂詩曲(配信のほう)のようだったと書けば、分かる人には伝わるだろうか。

演奏時間的にも、一番集中している頃だったのかもしれない。もしかしたら、ソナタの辺りで既にスイッチが入っていたかも。

スケルツォ3番もそのままの集中力で見事だった。右手のきらめきはシャボン玉の風鈴回廊を風が吹き抜けるようだった。この日の高音の中で一番綺麗な高音だと思った。愛されているピアノが、ピアニストに愛していると応える歌声を聴いた気がした。

とにかくこの3曲のときの角野隼斗が最高だった。本番も直前までどこかでリサイタルしてから会場入りすればいいんじゃないかと思うくらい。ピークの持っていきかた、と前に話していたが、角野隼斗は少し疲れるくらいのところにピークがある気がする。

【アンコール】

MCからはじまり、僕のコンサート初めての方いらっしゃいますか? との声かけに、私の視界(3列目より前)の手が一斉にあがった。後ろは見ていないが、初参加の人が多かったようだった。公演の翌日に出国するとも話していた。「日本最後の夜」と、まるで帰ってこないような言い方をしてしまって照れ笑いしていた。

ここで子犬のワルツ、アレンジ版。ジャズみもありつつ、クラシックコンサート向けなアレンジだったと思う。途中、コンチェルトが混ざった気がした。あと一瞬、大猫とチョコボも顔を見せた気がした。気のせいかもしれない。

そしてラスト、英雄ポロネーズ。私が一番聴きたかった曲。演奏してくれたらいいなと密かに期待していたが、もらったセトリになくて残念に思っていたから、最後の最後で聴けて本当に嬉しかった。(どんだけ角野隼斗の英雄ポロネーズが聴きたい民か、お暇な方はコチラを読んで笑ってやってください)

アンコールらしく、気取らずカジュアルなテンションで上機嫌に弾く音が忘れられない。本番モードの英ポロでは見せない、ミスタッチも気にしないで子供みたいにはしゃぐ、今にもスキップしそうな英雄、角野隼斗の音だった。

だけど私はもう演奏する姿を直視できないほど泣けてしまって、曲中ずっと下を向いて嗚咽を堪えていた。どんな顔して演奏していたかも全然わからない。しかも演奏が終わったときの拍手もできなかった。顔から手を離したら、嗚咽が漏れてしまうから。他の曲でも何度かホロリときたけど、さすがに英ポロはそんなの比じゃなかった。スタオベしたかった……。

最後のお礼MCもよく聴き取れないまま終演アナウンスで時間差の退場を促され、ドロドロのマスクを交換してなんとか涙を拭い、会場を後にした。MCで9時までやれるとは言っていたが、タクシーで東京駅に向かい駆け込み乗車した新幹線の出発時刻は21:24だった。本当に21時ギリギリまで演奏してくれていたということだ。予定外のノクターンとアンコール2曲を含め約2時間の公演。本当に本当に幸せな時間だった。

【おわりに】

レポを書いてみてわかったこと。私はどうやら角野をほとんど見ていなかったようだ。残っている印象は、とにかく音しかない。全身を使って弾く姿や、弾きながら見せる笑顔、そういうのも断片的に覚えているが、時々爪の当たる音やペダルの音がしたこと、2回くらい深呼吸の息が聴こえたこと、何よりも、ピアノからものすごい音が次から次へと飛び出してくる、その音ばかりを見ていた。

音のする方を見てしまうのだ。角野を視界の中央に捉えると、音がそれより右から聴こえてくるので、そっちに目を向かわせてしまっていた。角野隼斗を観てきたというよりも、ピアノを聴いてきたという感じ。自分が角野隼斗の何を好きなのかが、よくわかった。やはり紛れもなく、音だ。

はじめて彼の生音を聴いた今年2月の桐生では、浜離宮より10列ほど後ろだった。しかもコ口ナ対策で扉が開放されていたこともあって、ここまで純粋に音を堪能できていなかったから、この日は本当に素晴らしい体験ができたと思う。

なお今回の感想は、ふだんはあまり書かないミスなどについても少し触れた。みんなどうしたって「角野隼斗は仕上がっているか」が気になっていると思ったから。

それから、かてぃんさんご本人にも、なるべく率直な感想を伝えて、そこからどんな些細なことでも何か拾って得てほしい。こんなの本来ファンがすることじゃないし、素晴らしい先生方もいるんだから余計なお世話でしかないと思う。でもやっぱり、このコンサートに立ち会った者として、単に感動した、楽しかった、だけで終わらせてはいけないような気がして。

だからおわりに皆さんに、かてぃんさんに、伝えたい。

【伝えたいこと】

浜離宮で聴いた角野隼斗のショパンは、とても美しかった。ときに可愛らしく、ときに優雅で、ときに憂い、儚さ、激しさ……様々な表情を見せてくれました。そして、ショパンに誠実であると感じました。

完璧ではなかったと思います。楽譜を知らない素人の私がわかるくらいのミスタッチや抜けが複数回ありました。もしかしたら楽譜を熟読している人などからすると他にも気になる箇所があったりしたかもしれません。

けれど、ミスはあっても、それ以上に惹きつけられる、ハッとさせられるフレーズがどの曲にも多くありました。そしてどの曲も、終わりに向かう推進力と盛り上がりが素晴らしいと感じました。終わるのが惜しくて、ずっと先の未来までこの曲が続いてほしいような気持ちになりました。この曲の延長線上の未来にどんなショパンがいるのだろうかと、思わず期待してしまうような。

ミスはないほうが良いに決まっている、だけどそもそも何をもって完璧といえるのか、それすら明らかではないのが芸術。しかも弾くのも聴くのも人間という、不安定で不確定で曖昧な生き物です。万人が同じ正解を持つことはありません。そして今、正解のように見えているものが正解とは限らないし、もしそれが今の正解だったとしても未来永劫の正解であるとは言えません。

もしも私が審査員であったなら、明日の角野隼斗をまた聴きたい。1年後、5年後、10年後を聴きたい……そして自分の死後、成熟した角野隼斗が未来の聴衆に向かってショパンを弾いているところを思い浮かべます。それが未来の正解のひとつであると信じて。

スケ1の感想のところで「迷いがないのが良い」と書いたけど、それが最善とも思わなくて。迷いのある曲には答えを探し求める想いがあって、その想いがこもっているというのが未来を感じさせるとも思います。答えが見つかってしまったら、きっともうそこに意味はないのかもとすら。角野隼斗が迷い、探し、想い続けて変化し続ける音こそが愛おしい。

だからこそ、角野隼斗に未来を託したいと感じる審査員は必ずいると信じられる、そういう演奏だったと大きな声で言いたいです。完璧さや、今あるクラシックらしさばかりを軸にはせず、誰がなんと言おうと角野隼斗は世界に誇れるピアニストで音楽家であると、叫びたい。

ついでに。浜離宮の角野隼斗は配信で聴いたことがありますが、配信の音には含まれない弦の音、透き通る高音の残響などなど、まるで別人の音でした。きっとワルシャワでも配信とはまるで違う響きが審査員の耳に届いていることと思います。

この公演の演奏からあと2週間の進化に、本番の緊張感がほどよくプラスされたとき、きっとすごい演奏が聴けると信じています。

10月が待ちきれません。かてぃんさんならきっとやれます。とても楽しみです。あとさいごのさいごに、ショてぃんヘア、とても似合っています!


最後まで読んでくださり、ありがとうございました

(9/19追記)上で書いた「配信の浜離宮」を一応おいておきます。でも2台ピアノでバランス考えて弾いているし、チャイコだし、そういう意味でも全然違う。
生音は100倍響いてるくらい思って聴いてください笑


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