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生と死と闇 Ⅰ〜IV

Ⅰ.死とは。
僕の考える死。
それはZAZEN BOYS 向井秀徳氏の「繰り返される諸行無常、よみがえる性的衝動」という言葉にまとめられる。

元来、人間は日々違う日を生きていて、日々違う時間を生きている。
昨日と同じ事は話さないし、昨日と同じ物も食べない。
言ってしまえば、昨日と同じ思想では無いかもしれない。そうした「諸行無常」を過ごす我々人間は死をタブーとしている。気がする。

誰だって死が怖い。だから、考えないようにしているのだ。死んだら酸素も吸えない、なにも食べれない、誰かを想うことも出来ない、明日も見れない、100年後の日本も見れない、50億年後の地球すら見れないのだ。そして、死は今まで獲得した知識、経験、友人、恋人、両親との記憶を消去することと同義である。

その死を回避するために、誰かが我々人間にプログラムしているのが「性的衝動」だと私は考える。
人間という生き物が死という罰を知った時、その罰を回避するための神への儚いレジスタンスとして、子供を作るという罪を犯す。その人間の自己が無くなったとしても、子供はその意志を継ぐ。
そして、その子供にはもれなく死という罰が下されるのだ。

もちろん私はこの世に、この日本に産まれて凄く幸せだ。今日まで育ててくれた両親にも感謝している。
だが、その仕合わせと同じ量の不仕合せが必ず訪れる。
それが死だ。

君はもう一度同じ条件で、同じ西暦に、同じ親を持ってして産まれたら同じ日を繰り返すか?
恐らく私は、まったく違う日を迎えるだろう。

後悔のないように生きろ。明日が来るぞ、備えろ。

Ⅱ.結婚とは。(生)(性)
愛し愛され合う関係を築くこと。
親が望むこと。
子孫を残すこと。

愛し合う性別が同じだったら
その2人の子孫は生まれない
その両家の血が終わってしまう。

耳と目を閉じ口を噤んだら、
他性とも性行為ができるだろう。

でも、両者が愛し合っていない。
子供の面倒も見る気がしない。
相手側に申し訳ない。
両親にも申し訳ない。
子供にも申し訳ない。

子孫を残すべきか、真実の愛を取るべきか。

今の自分だけが幸せになろうとしていいのか。
自分の死後、幸せになる人を生まなくていいのか。


Ⅲ.最近。

最近寝付きが悪い。
理由は分かっている。「死恐怖症」だ。

この世に生を受けた事には喜びを感じるのだが、純粋に喜べない。
何故なら、遅かれ早かれ必ず死があるからだ。
形象崩壊ならまだしも、記憶の永久的喪失が漏れなくついてくるからだ。

それは、友人や恋人との思い出もそうだが、もっと生物的なこと。例えば、息を吸えること、目で見えること、食事ができること、会話ができること、エトセトラ。

長いようで短い命。私は有効に使いたい。
結局何が言いたいのか、それは「死にたくない」ということだ。

歳を取れば恐れないのだろうか、やり残したことがないのなら、この世に未練は無いのだろうか。
僕が老人になったら、そこら辺の老人たちのように「早く死にたいよ」が口癖になるのだろうか。

この文章を書いている私の鼓動はハムスターよりも早いかもしれない。死の恐怖から、ベットから飛び出し、居ても立っても居られず狭い部屋を歩き回ってしまう。
明日の予定よりも何十年も先の死が近く感じられる。
明日も早いのだ、寝かせてくれ。

Ⅳ.生きること。
僕が幼稚園生児の時に、妹を亡くした。
祖父祖母も亡くなっていないのに、誰よりも早く。
そのとき、私は初めて「死」を知った。
妹とは二度と話せないし、会えない。

僕が幼稚園生児の時に、東日本大震災を経験した。人生で初めての大地の揺れ、光が無くなった街を見た。
そのとき、僕は初めて「大勢の死」を知った。

もちろん、妹も予期せぬ死ではあったが、自然の力である日突然、大勢の人が亡くなったのだ。子供ながらにも怖かった。

その2つの日から今日まで、僕は死が怖い。当事者はどんなに苦しくて怖かっただろうかと考える。

「兄弟はいるの?」という質問はされたくなかった。
最近はやっと戸惑うことなく、「一人っ子です。」と言えるようになった。聞いてくる人が悪いとか、戸惑う僕が悪いとか、そういうのは無い。
だが、妹を無かった人にしたくないというのが本音だ。

妹の死を目の当たりにした当時の僕は幼かった。
自分が大きくなっていくにつれて、その事の重大さに気づく。親の悲しみに気づく。

でも、今は私も含め家族全員立ち直っている。
僕は今日も明日も精一杯に生きる。
誰かにとっては最悪な日でも、誰かにとっては記念日かもしれない。
そんな混沌(カオス)に生きる。
僕は妹の分まで生きる。

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