私と潰瘍性大腸炎①

急に自分語りがしたくなったのでROM専用だったnoteに書き残しておこうと思う。
潰瘍性大腸炎は難病の中でも患者数が多い方なので(平成25年度時点で166,060人)今更そんな手記いらんわと思われそうだけど。

私が潰瘍性大腸炎だと正式に診断が下りたのは2012年2月だった。が、その半年位前から既に発症していたと思う。
この病気になるきっかけは不明で(だから難病ともいう)免疫機能がおかしくなったとか食生活の乱れとかストレスとか色々言われている。
私の場合全部うっすら当てはまる、気がする。中でも一番のストレスは『東日本大震災』だった。
2011年3月11日、私が住む福島県も被害を受けた。
とは言え津波が来るほど海沿いでもない我が家は多少家の壁にひびが入った程度で、数多くの被災者の中ではマシな方だった。
断水と原発の諸々がなければ。
家の中にいても放射性物質には意味がないとわかっていても、被曝したくないから家にいたい。
でも水が止まっているから父と共に給水車のいる所まで行っては、何十分も並んで隣のおばあさんの分も含めてゴミ袋4つ分の水を汲む。
仕事も休みだし、ここも次の日どうなってるのかわからない。

そんな生活の中で私は、下痢になった。

汲み置きの水を舐めてそのまま使っていたのが悪かったのか。作っていた麦茶が悪くなっていたのか。
ただでさえトイレがくっそ流しづらいこの状況では笑っていられない症状。
すぐに温かい飲み物だけ摂る生活にしたものの下痢は長続きし、仕事が再開し、微妙に上下するだけの放射性物質の数値も忘れかける生活に戻っても
私の腹具合は一向に良くなる気配を見せなかった。
常に微熱があり、トイレに行く回数は増え、きゅるきゅるとお腹は痛みを訴える。ビオフェルミンも市販の下痢止めも効かない。
夜中もトイレに起き、眠れない私は仕事する為にコーヒーや某ドリンクでカフェインを摂り、よりそれが体調を悪化させる。
かかりつけの病院(内科)に行ってもカメラで見ないとわからないねぇ等言われ、何も進展がなかった。
いつからか夜中のトイレで私はトマトソースのような物質を生成していた。
今思うとそれは所謂『血便』なのだけれど、当時の私にそんな知識も断定する度胸もなく、ひたすら腹痛と下痢と戦っていた。

12月、父が知り合いに聞いた評判の良い消化器内科に行くことになった。
そこの先生もかかりつけ医と同じような、悪く言うと素っ気ない態度だったけれどトマトソースの事を言うと目の色を変えた。
「カメラ入れて見てみようか」
すぐに私は浣腸され、否応なく尻にカメラが突っ込まれた。
当時20代前半、非モテとは言えうら若き乙女だった私にはあまりに屈辱的だった。
そしてオタクでもあったが故「あぁ…くっ殺ってこう言う感情なのかもな」とも思った。
(潰瘍性大腸炎の闘病を描くエッセイ漫画『腸よ鼻よ』でも大腸カメラの感想が「オークに襲われた女騎士の気分です」だったのでオタクは皆そう思うんだなと少し嬉しくなった)
結果は勿論『潰瘍性大腸炎』。
浣腸では腸はカメラで見きれなかったらしいけど、次の年にしっかり大腸カメラを入れて検査した時には小腸の境目まで満遍なく潰瘍があったので『全大腸炎型』らしい。
(小腸まで炎症があると『クローン病』になる。先生曰く「正直これは入院ものだったね」(私は当時も今も投薬治療のみ))

カメラが突っ込まれた痛みと屈辱でフラフラの私を待っていたのは難病に関する沢山の書類申請だった。
学校関係で数える位しか役所で手続きした事ない当時の自分にはなかなか荷が重い作業だったなと当時は思う。
成人したのだから甘えるなと思われそうだが、自分の大腸と同じ位に私のメンタルはボロボロだった。
それでも指定難病医療費受給者証を貰えれば高い医療費が1回5000円で済み(今はルール改正と転職で10000円になった)
今までこの病気でかかっていた医療費はある程度払い戻しされ、私の住む自治体からは見舞金10000円を貰えたので凄く助かった。

この私も家族もバタバタの中祖父が急死し、より家族が忙しくなっていくのだが私はよく覚えていない。
一番症状が重い時期で、祖父の葬式中何度も寝落ちしていたので本当に申し訳ないと思っている。

運良く処方されたアサコールとステロイドがよく効き、腹痛と下痢はあるものの仕事はそれなりに続けられた。
大腸に良くない激辛(辛い物大好き!)と揚げ物は泣く泣く卒業し、投薬と食事でこのボロボロの身体を治す日々が始まった。

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