おばあちゃんは愛の人

 なんてことはない1日の終わり。いつもみたいにくだらないことで笑ったり苦しくなったりしてその日も終わるはずだった。ラジオから懐かしい歌が流れてきた。偶然聞いたその「トイレの神様」に出てくるおばあちゃんに自分の祖母を重ねた。


 祖母はあたたかい人だった。仮病で学校に行きたくないと泣き喚く僕を母から庇ってくれた。10時のおやつという新しい文化を教えてもらい、和菓子を一緒に食べた。土日のお昼には毎週からあげクンを買ってきてくれた。そんな祖母との愛おしい日々は僕のせいで失われた。

 2016年の暮れ頃、僕は事故で祖母に怪我をさせてしまい、救急車を呼ぶことになった。今でもその日の情景は脳にこびりついている。誰かが怪我をしそうになるとき、体に電流が走るのはそのせいなのだろう。とんでもないことをしでかしたと思った。

 そこから祖母の施設暮らしが始まった。僕のせいで。祖母の愛娘である母は「あなたのせいじゃないよ」と言ってくれたが、そうは思えなかった。思い出しては苦しくなった。それを誰かに打ち明けることもできなかった。合わせる顔がなくて祖母に会いに行けなかった。糾弾されることが怖かった。祖母は僕の顔も見たくないだろうと勝手に思っていた。

 祖母は4年間介護施設にいたのだが、僕がお見舞いに行ったのはたったの4回だ。初めの3回もすでに認知症が進行しており、僕のことは認識しているのか分からなかった。それを幸いだとも思っていた。しかし、「またね」と言った時、祖母は随分と細くなった手で強く握って離してくれなかった。憎まれているんだろう、「ごめん」と思いながら無言で病室を出た。そんなこともあり、ますますお見舞いから足は遠のいていった。

 
 いつまでも施設暮らしが続くわけはない。2021年の2月の終わり週の月曜日、「おばあちゃんが危ない」と母から言われた。ついにその日が来たか、と思った。しかしそんな状況であっても、祖母に会うのが怖かった。会いに行かなくちゃいけないのに。怪我をさせてしまった時の痛がる祖母の声、お見舞いに行って離してくれなかった手、逃げ出したかった。「何度ごめんといえば許されるだろうか、許されないなら逃げたい」、いつからか癖になった現実逃避もついに終わるのだと知った。

 「ごめんなさい」「ありがとう」を言わないと一生苦しむだろうことは短い人生経験で分かっていた。それでもなかなか勇気が出ない。日曜日になって、ようやく決心がついた。およそ1年ぶりに見た祖母は以前にも増して細くなり、脂肪はほとんど削げ落ちていた。それもそのはずだ。食事も水分も取れなくなり3日が経過していた。今までの後悔は涙となってポロポロ溢れた。それでも、伝えなくては。ここを逃したらもしかしたらもう。


「おばあちゃん、本当に今までごめんね、あの時はごめんね。たくさんありがとうね、おばあちゃんの孫でよかったよ、大好きだよ、ごめんね。ありがとう。」


と手を握りながら話しかけた。すると祖母はその骨ばった手で僕の手をぎゅっと強く握った。信じられないことに、施設に入りたてのあの頃と、怪我をさせてしまったあの頃と、10時のおやつを一緒に食べていたあの頃と、母から仮病を庇ってくれたあの頃と全く変わらない強さで祖母は僕の手を握った。僕の言葉にも頷いていた。何度も何度も。きっと聞こえていたんだろう。言葉が届いて良かったと思った。伝えても相手に届かなくては伝えたことにならない。「また会いに来るからね」と言い残し、きっとまた会えると言い聞かせ、施設を後にした。

 


 それから6時間ほどが経ち、祖母が亡くなったと報せが届いた。「ああそうか、ずっと待っていてくれたんだな」と分かり、ほろりと涙が溢れた。どちらの目からの涙だったかはもう忘れてしまった。

 愛はおばあちゃんから教わった宝物。孫のことを想うその強い気持ちを、最後の最後まで待っていてくれた大好きなおばあちゃんを、10時のおやつを食べる度に思い出す。
 

 
「おばあちゃん、ごめんね。それよりたくさんありがとう。またね。」



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