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人生は50から! 信長公、アフリカへ行く 十五話「弟、長益に織田家のあとを任せる」

登場人物紹介

織田信長(おだのぶなが): みなさんご存知、尾張(おわり)生まれの第六天の魔王。この神話×歴史ファンタジー小説のなかでは、本能寺の変で天使に救ってもらう。一般人、一介の冒険商人「小田信春(おだのぶはる)」と名乗り一番のお気に入りだった黒人侍の弥助(やすけ)をアフリカへ送り届ける旅を始める。

弥助(やすけ): 本能寺の変でも、最後まで戦い、信長を守ろうとした黒人侍。気は優しくて力持ち。明智勢に捕まったが放たれ、その後は故郷アフリカへ信長とともに発(た)つ。

ジョアン/ジョヴァンニ: 没落する故郷ヴェネツィアでの商売に見切りをつけ、アフリカは喜望峰回りの航路を確立し勃興するポルトガルの帆船に乗って、はるばる日本へやってきた十七才の少年。宣教師ルイス・フロイスの依頼によって信長をサポートすることに。愛称「蘭丸」の名で呼ばれる。

助左衛門(すけざえもん): 堺の港で頭角を現し始めた商人。ジョアンと同い年。この物語では、大商人、今井宗久(いまいそうきゅう)の弟子。海外への強い憧れから、信長たちと旅を始める。のちの納屋(なや)または呂宋(るそん)助左衛門。

十四話のあらすじ

堺の街に戻ってきた信長公。そこには焼き物が割れてしまうことに悩んでいた今井宗久氏と千宗易(せんのそうえき、のちの千利休)氏がいました。天使ナナシの羽根と、ゴブリンのゴブ太郎の分身の術を合わせて、公は焼き物用のクッション作成を思いつきます。悩みが解決したのちに、千宗易氏が公に告げたのは、織田長益(おだながます、のちの有楽斎(うらくさい))氏のことでした。あることで気落ちしている彼にも焼き物集めに参加してもらおうと、公は岐阜へと向かいます。

十五話

「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」

これは、天正10年6月2日に本能寺の変が起きた際、信長の長子、信忠は自害をしたが、ともにあったその叔父長益は逃げたことに対し、京の都の庶民たちが皮肉として口にした歌だ。

岐阜の城下の茶室にて、自らを貶める歌を思い出し、長益は暗いため息をついた。

「叔父上は、生きて下され!」

信忠に告げられた言葉を思い出す。

長益も、本能寺の変で信長が討たれたこと、そして明智勢が攻めてきたことを知り、織田の時代は終わると直感した。だからこそ信忠とともに腹を切ろうと考えていた長益は、しかし信忠に彼の長子、信長の嫡孫たる三法師のことを頼まれて生き永らえ、急ぎ安土へ、岐阜へと脱出した。

無事、本能寺の変を生き延びたことは良かった。三法師がこの変に巻き込まれなかったからこそ、清洲会議で秀吉が大きな顔をするようになったものの織田家の主筋は今のところ、保たれたのだから。

しかし、実情を知らぬ庶民の、信忠に腹を切れと言いながら自分は逃げたという噂(うわさ)が広まった。ウソがまかり通っている状態を悲しみ、長益は岐阜で傷心の日々を送っていた。

慰(なぐさ)めは、彼が師と仰ぐ千宗易のもとにたしなんでいる茶の道である。長益は、美濃の地で作られた、最近堺の街でも流行している志野(しの)茶碗という焼き物がお気に入りだ。白地にピンク色が差した華やかな椀。手に取った時のなじみかたや口をつけたときの、焼き物としての温かみも自分に合うその茶碗を使っていると、底に落ちた気分が安らかになった。

「邪魔するぞ、源五」

目を閉じて志野茶碗に点(た)てた茶を味わっていた長益のところへ、茶室の薄い壁の向こうから天使ナナシの壁抜けの技を使い、信長と弥助が現れた。

「なっ……兄上!」

思わず、大切な志野茶碗を落としそうになる。

「化けて出たぞ、源五」

信長がいたずら心を起こし、にやりと笑った。

「兄上! おれは切腹をすすめてなどおりませぬ」

長益は、兄の信長に心情を吐露(とろ)した。

「……武士としての誉(ほま)れも高いそなたのこと、卑怯な真似などせぬと分かっておるわい。だが、この戦国の世はのう、源五。その卑怯なくらいのほうがちょうどいいのかもしれぬぞ。もし、そなたが本当に我が子信忠を切腹させて、自分は逃げて一族を保った悪漢だったとしても、それは、それじゃ。儂(わし)とて弟の勘十郎(かんじゅうろう、同母弟の織田信行氏)を殺し、度重なる戦(いくさ)で敵を屠(ほふ)って生き延びてきたのだからのう」

「兄上……」

「そんな戦の世は、もうたくさんじゃ。儂はのう、源五。これから茶器を日の本の外へ売りに行く商人になった。皆には内緒じゃぞ」

「なんと!? では、これは夢ではなく、あの世から兄上が来られたのではないのですか」

「ほれ、触ってみよ、源五」

信長が差し出した手を、長益は恐る恐る握ってみた。温かな兄の手だ。

「おお……生きておられたのですね、兄上」

「いや。戦国の世を切り開く武将としては、この織田信長は確かに死んだ。この先、織田家のことは儂の子らが争奪することになろうが、それで織田家は衰退し、乗じて藤吉郎や家康殿が頭角を表(あらわ)そう。織田家が天下取りの一族になる未来は、もはやなきものと心得よ」

「なんと。武将としては死に、織田家を放って日の本の外へ商売に行かれると!? はっはっは、兄上は相変わらず自由奔放で豪気な御方だ」

長益は久しぶりに腹の底から笑った。

「分かりました。織田家の行く末は、このおれにお任せあれ。天下取りの一族ではなくとも、子々孫々が出来るだけ永らえるよう、この先励みまする」

「頼むぞ、源五。ここにいる織田家のかしらであった儂は、幻じゃ。そなたには商人の『小田信春』に加勢し、美濃の焼き物を集めて堺の今井宗久のところへ届けてもらいたい」

「……兄上の仰(おお)せのままに。兄上を見習い、おれも戦だけでなく、茶の道をも極めてみましょうかな」

「それは良いのう、源五。戦の世はいずれ誰かが終わらせるじゃろう。そのときこそ、茶の湯は下々の者に至るまで、盛んとなるだろうて」

「下々のあいだに広まるウソの噂に苦しんでおりましたが、久方ぶりに兄上の豪気なお話が聞けて気分が晴れました。この源五、謹んで焼き物集めのお役を引き受けまする」

長益の顔に、笑みが戻っていた。

こうして、のちの織田有楽斎(おだうらくさい)となる信長の弟、長益も、秘密の商売に関わることとなったのだった。

(続く)

※ 織田有楽斎こと長益氏は、数々の戦で名をあげた武将でありながら、講和や、このあとに小牧・長久手の戦いで敵対した秀吉公と家康公とのあいだを取り持ったりと、交渉にも長けた方でした。関ケ原の戦いでは家康公に加勢して、石田三成氏方、西軍の陣営に切り込み勝利しています。茶人としても優れ、有楽流という茶道の一派の初代となりました。後世の江戸時代には利休十哲のひとりとして数えられています。愛知県犬山市には、有楽苑(うらくえん)という日本庭園の中に、彼が残した国宝級の茶室があります。

※ 本能寺の変で切腹、または討ち死にして果てたと伝わる信忠氏は、父信長公とともに京都は船岡山の建勲神社(たけいさおじんじゃ)に、神さまとして鎮座されています。時の明治天皇が、明治2年に「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長公のおかげ」として神社の創建を決定され、信長公の子孫で天童藩知事・織田信敏氏の東京の邸内と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されたのち、信長公の廟所・天正寺の境内地と定められた現在地、船岡山に神社を移すこととなり、遷座となりました。船岡山は、平安京の四神相応の玄武の位置となります。京都盆地の固有種が多く息づく自然豊かなその場所は、信長公の業績にちなみ、社としては国家安泰・万民安堵、庶民からは難局突破・大願成就などの神社とされています。

※ 志野茶碗で名高い志野焼は、当時安土桃山時代の美濃を代表する焼き物です。室町時代の風流人、志野宗信(しのそうしん)が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとも言われ、茶人たちのあいだに大変な人気がありました。現代には重要無形文化財の技法や、国宝として残る焼き物「銘卯花墻(めいうのはながき)」があります。

次回予告

堺の街に戻った信長公に、少年商人の助左衛門が「すみよっさんがお呼びでっせ」と告げます。

どうぞ、お楽しみに~。

※ 見出しの画像は、みんなのフォトギャラリーよりミニチュア陶器 工房てるとさんの作品をお借りしました。ありがとうございます。

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