問いかけるコロナ禍

最後のnoteの更新は、2019年5月23日。
今からちょうど1年ほど昔だ。

1年前の自分は、1年後の自分がこのようになっていることを
微塵も想像していなかった。微塵も。

進路を変更した。住まいを移した。

そして、この新しい疫病。

人間世界全体が揺さぶられるような事態に
自分も揺さぶられたり、逆に冷めてみたり。

この「コロナ禍」において「解決」や「答え」が待望されている。

いや、むしろ、
「解決」や「答え」が見えないことこそが、
一番の不安なのかもしれない。

解決。答え。
今病んでいる一人ひとりが回復すること。
一人でも亡くなる方が少なくなること。
新しい感染者が減ること。
終息宣言が出されること。

それは、確かに「コロナ禍」の「解決」であり「答え」かもしれない。
一人の人の人生を考える時、本当に一つでも多くの命が救われてほしい。
病の苦しみが、癒されてほしい。
そのための医療であり、医療従事者の「解決」への歩みは、
支援され、応援され、祈られ、尊敬されるべきものだ。

その上で、
世界、という単位でその歩みを考える時、
その「解決」は、根本の何かを解決するのだろうか。
その「答え」は、根本の何かに答えるものなのだろうか。

コロナ禍は、何かを問いかけている。
私たちが「築き上げてきた」世界に対して。
私たちが無頓着であった「消費」に対して。
私たちが気付かぬまま浸かり込んだ「経済」に対して。
私たちが仕方がないと容認してきた「都市」に対して。

三つの蜜を避けよ、というお願いに
どこか白々しく感じてしまうのは
このような「過密」な社会を構造化してきたのは
他の誰でもない私たちであり
都市に生き、都市を認め、都市の恩恵に命を預けてきた
私たち以外ではありえないからだ。

私たちは、実は崩れた「緊急事態」の内を、
1年前も、10年前も、歩み続けてきたのではないか。

都市
環境
労働
家庭
自然
農業
物流
生活
健康
地域
政治
経済
消費

揺さぶられ、分解されていく世界を、
どのように組み立てなおすのか
今私たちは、考える時間が意図せず与えられている

・・・・・・
この時間は、試験勉強のために部活動が停止になった
中学校時代のあの不思議な時間と、どこか似ているような気がする。

S.D.G (yus)



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