わざわざ怒りにいっていないか?
野本響子さんの記事に、僕が書いた中国人の取引先に怒ってしまったことについての記事を引用していただきました。誠にありがとうございます。
いわく、相手によって自分の中で期待値を変え、怒るかどうかを判断しているようなことに自戒が必要なのではないか、ということです。身につまされる思いです。
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「怒り」って、ハマりやすい感情だと思っています。
誰もが口では「怒る方もイヤだ」「みんな怒りたくなんかない」と言いますが、個人的にはこれには懐疑的です。誰しも多かれ少なかれ、自分の中で「敵」や「ただしくないもの」、「怒ってもよいもの」を設定し、怒るところを探しているような部分があると思います。「わざわざ怒りにいっている」とでもいうのでしょうか。
怒りを表出させる行為というのは、とりもなおさず「感情の解放」です。そこには、少なくない快感や開放感が伴います。大声を出したり、自分の感情を撒き散らすことは、それを黙って受け流し溜め込むよりよっぽど気持ちよくて、瞬間的にはスカッとする行為であることが否めません(のちに後悔して自己嫌悪したりすることはあるにせよ)。
また、「間違っている」相手をやり込めたり、そのただしくなさを指摘することは、ある意味で相対的な自分の「ただしさ」を確認する行為でもあります。「自分は間違っていない」と信じたい気持ちが、「怒る」という行為の理由になることもあるように思います。
その「怒る」ことのもたらす、(ある意味での)プラスの作用のようなものに耽溺してしまうと、「怒る」ことで他者を押さえつけようとするめんどくさい人になったり、SNSで四六時中何かに怒っているような非生産的な人になったりするのかな、と考えます。
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僕自身、かつて「怒る人」たちに押さえつけれ、蔑まれ、叩き潰される経験をいくつもしてきました。
一方で、「怒る」という行為で他者を押さえつけ、蔑み、叩き潰してきたという経験が本当に自分になかったのかというと、そうでないと言い切れる自信はありません。相手の「ただしくなさ」をあげつらい、それを理性的でも論理的でもない「怒り」という手段で攻撃したことは、少なからずあったように思います。
ましてや中国に来てからは、今までの自分の価値観に照らせば「ただしくない」ことを見たりされたりすることばかりです。それを自分の価値観に寄せようとして、「怒り」を表出させたことは、自覚の有無に関わらずきっとたくさんあったでしょう。記事にした先日の出来事もそうだったのかもしれません。
なかなか出来たことではないのかもしれませんが、「怒り」という感情に支配され不機嫌な日々を送るよりも、できるだけ怒ることへのハードルを自分の中で上げておき、自分と他者の幸福の総量を高めるように生きていきたいものです。
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