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「弱者切り捨て」を嫌いでいられたあの頃

白饅頭さんが、先ごろの能登半島での大きな地震に際して、SNSなどで巻き起こっている議論について書いていました。

その議論とは「災害に見舞われた地域のうち、(人口再生産という意味で)将来がないところの復旧を、果たして本当に目指すべきなのか?」(≒復興のリソースを割くべきなのか? 住人にはもといた地域を諦めてもらって、集団で移住してもらうべきでは?)というものです。白饅頭さんは、このような議論は東日本大震災や熊本地震の時にはほとんど見られなかったはずだといいます。

これを見て僕はすぐに、先日僕のマガジンで扱った、中国人ジャーナリスト・王志安さんによる、福島の復興事業に対する問いかけ(≒高齢者だけが戻れるようになる「復興」にリソースを割くのは無駄ではないのか?)を思い出しました。図らずもその観点は、一致しているように思います。

僕はこのマガジンで王志安さんの視点を「中国人っぽいものの見方」というような形で評したのですが、案外そうでもないのかもしれません。

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日本において、これまでに見られなかった、被災者に自らのふるさとを諦めさせるような議論が出てきたのは、ひとえに「余裕のなさ」がなせることでしょう。

物価や税金が上がって負担は増えるが、給料は上がらず少子化にともなう人手不足で仕事ばかりが増えている。その中でそれぞれの生活を精一杯やっているのに、これ以上負担が大きくなってはたまらない。

東日本大震災の復興特別税もまだ続いている中、また被災地の復興に自分のリソース(≒税金、カネ)が取られていくのは耐え難い。だったら、いっそこれを機に、持続可能性の乏しい地域を「整理」してしまったほうがいいのではないか。

そんな、これまで支持されえなかったある種の「切り捨て」論が少なからず支持されるようになった一因には、個々人の「もう限界だ、他人の世話なんかしていられない」という気持ちがあるのではないでしょうか。

実際には、被災地の復興を諦めたからといってそのリソースが個々人に有利になるように付け替えられる……という簡単な話ではないでしょうし、何よりそこに住む人の気持ちをまるで無視した議論には、諸手を挙げて賛同することはできません。そもそも、そういう合理性でカバーできないところに手を差し伸べるのが国であり、公権力が存在する意味でしょう。

他方、近く消滅することがほぼ確定しているような地域のインフラを復旧させることに、いったいどれほどの意味があるのか。そう言われると、「お気持ち」以上の合理的な答えを返せなくなってしまう自分も、確実に存在しています。ちょうど「被災地の復興なんて無駄じゃないの?」と問う、ジャーナリストの意見に考えさせられてしまった時のように。

日本はすでに、こうした難しい選択を迫られるフェーズに入っているのだな、と頭を抱えるばかりです。

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僕は中国にそれなりに長く住み、いいところも悪いところもそれなりに知ってきたつもりですが、その中で中国について、いつまでも違和感、もっといえば嫌悪感のようなものが拭えないことがあります。

それは、弱者に対して徹底的に冷たく、弱いものをまったく顧みようとしない点です。

中国の人々は、社会的に弱い立場に置かれた人に容赦ありません。それは政治的な面においても、個人にしても同じです。主語がデカいと言われても構いません。これは僕自身が中国に住んできて、明確に感じてきたことです。

お前ら社会主義の建前はどうしたよ、といいたくなるほど、「大多数のために少数が犠牲になるのは仕方ない」「弱いものが救われないのは仕方ない」というような、弱肉強食をさらに先鋭化させたような価値観を内面化させた人々に、違和感や驚きを感じたことは数知れません。

その典型的な表れの一つが、コロナ禍におけるロックダウンです。当時の中国では、自分が住むところ「以外」でのロックダウンは社会全体の安全のためには仕方のないことだ、と言っている人が99%くらいだったことを、僕は見てきました。

そういう言葉を聞くたびに、自分のところが同じようになったらどう思うんだ、こいつら全員サイコパスかよ、と不気味ささえ感じていました。そうした弱者を切り捨てることへのためらいのなさ、他者への想像力のなさに、嫌悪感を持っていましたし、いまでもそういう気持ちは多分にあります。

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ただ、日本にも余裕がなくなり、被災地の放棄という明確な弱者切り捨て論が浮上してきたこと、そしてそれを心底から否定できない自分に気付いた時。

僕が「弱者切り捨て」を嫌いでいられたのは、曲がりなりにも豊かで他者を思いやる余裕を持つことが許された国と時代に生まれたことの、贅沢な振る舞いだったのかも知れない。そんなふうに考えざるを得ませんでした。

中国の人々はただ単に、多少世のことわりに正直だっただけで、やはりその根底にあるものは中国人であろうと日本人であろうと、 もっといえばどこの国の人間であろうと、そう変わるものではないのだろう。そう思います。

個人的には、それでも弱者を思い、他者に思いやりを持てる自分でいたいと思っています。でも、それが余裕のなせる産物であることや、そうあり続けるためには何が必要なのかを、具体的に考えておこうとも思います。

力や余裕、具体的なリソースがなければ、人は他者に優しくあることさえ難しい。それもまた、現実です。

そのことに自覚を持ち、これからも他者に優しくあれるよう、踏ん張っていきたいものです。

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