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「〇〇友好の架け橋」という表現について
何度か書いていることなのですが、「〇〇友好の架け橋になりたい」という表現があまり好きではありません。これを見かけると、なんだかモヤモヤしたものが胸に湧いてきます。
なぜそんな気持ちになるのかを、このnoteで整理してみたいと思います。
はじめに:志ある人を貶す意図はない
はじめに断っておきたいのですが、本当に「友好の架け橋」になりたくて行動している人を貶めたりする意図はありません。たとえば「日中友好の架け橋」を志し、本当に両国の友好のために何かをしている人などは、むしろ尊敬に値すると考えています。その前提でお読みください。
だいたい、何もしてないやつが使っている
あくまでも個人的にですが、「〇〇友好の架け橋になりたい」と謳う人が本当に「友好」のために具体的な何かをしているのをほとんど見たことがありません。上で「志ある人を貶す意図はない」と前置きしましたが、この言葉を使う人のなかに本当に志ある人がどれほどいるのかということには疑問があります(あくまで個人的にです)(しつこいよ)。
むしろ有事の際には沈黙するか、跳ね橋のように切り離し作業を行い撤退する人も少なくないように思います(個人的にです)(だからしつこいって)。
本当に〇〇の友好を願う人なら、「架け橋になりたい」などというフワッとした表現ではなく、そのために何をするかというビジョンがなければならないはずです。しかし「架け橋」勢から、それが出てくることはあまりないように思います。
借りてきた表現である
「架け橋」と言う表現は、もうずいぶん前から存在し続けている、使い古されてきた表現です。その紋切り型の表現を採用するところから、〇〇の友好とはどういうものかを真剣に考え抜いていない姿勢が透けてきます(考えすぎでしょうか)。
むしろこの「架け橋」と言う表現、すでに誠意なく使われすぎたことで本来の持つ意味が死に、本当に志があっても嘘臭くなってしまう効果すらあるような気がしています。
上の具体性の問題とも関係しますが、「架け橋」がどういうものか自分でもわからないままこれを言っている人があまりにも多いように思っています。
大きな意味での「友好」はそんなに簡単じゃない
中国に関わる人間として過去を振り返ると、「日中友好の架け橋」という表現を使っていたかどうかは別にして、「自分が両国のために何かできる存在になれるのではないか」というような気持ちを持ち、それを喧伝していたような時期は僕自身にもありました。
しかし、ある程度長く住み中国との関わりもそれなりに深くなってくると、「友好」なんてそんなに簡単じゃないと言うことに気付かされます。いまでは、「友好」のために個人ができることなど、ほとんど何もないに等しいという考え方に近くなっています。
結婚して、最小単位である夫婦や家族という共同体を運営するのだって並大抵の努力では済まないと知った今では、大きな意味での「友好」なんてとても軽々しく口には出せない、というのが本音です。「友好」にたどり着くまでに経験すべき軋轢と衝突は、多くの人にとっては耐えられないものだと思います。
そういった衝突や、経験したくない軋轢を見て見ぬふりをしたまま「架け橋になりたい」とはっきりとしない理想を掲げることは、かえって不幸の総量を増やすことにさえなりかねないと感じます。過去の自分を含め、浅知恵の「架け橋」には、やはり一種の嫌悪感のようなものを覚えます。
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繰り返しになりますが、志があり本気で「架け橋」を目指し、具体的に行動する人を貶す意図はありません。そういった志のある人はこんな冷笑クソ老害の駄文など意に介さず、突き進んでいただきたいと思います。僕のような人間には見えない景色をぜひ見に行ってください。
ただ自信を持って自分がそうであると言い切れないのであれば、「架け橋」という表現を使う前に、少し立ち止まって考えたほうがいいのではないでしょうか、という提案として、あえてこのnoteを公開してみました。
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