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法と不法の狭間でほおばる、中華ハンバーガーの味

毎朝、近所の公園にジョギングに出かける僕だが、その日はいつもの公園に向かわず、これまでに歩いたことのない近所の道を歩いてみることにした。なぜそうしたのかは覚えていない。

大通りを避け、目についた小道を適当に曲がり続けていると、いつの間にか見たことのない狭い道路に出た。けっしてキレイではない、というより明確に汚い道路の両脇に、背の低い垢抜けない建物が並んでいる。

その建物の前には、結構な数の露店が出ている。おそらくここは、近所の人のための朝市のような場所になっているのだろう。

立ち並ぶ露店に目を向けると、檻の中でぎゅうぎゅう詰めにされて売られている鶏とアヒルがいた。動物愛護団体とかの人が見たら、きっと卒倒するであろうほどのぎゅうぎゅうぶりだ。鶏もアヒルも一緒くたにされている。

そのすぐ横ではブルーシートの上に並べられた枯れ気味の野菜と、それ以上に枯れた老人が鎮座している。野菜を売っているのだ。トマトやきゅうりなどの見慣れた野菜もあれば、もう中国に来て何年にもなるのに見たこともない野菜もある。老人は体育座りで、虚空を見つめている。

そしてそのブルーシートのスレスレの所を、荷物運搬用の大きな電動三輪車が駆けてゆく。その荷台には、重そうなガスボンベがいくつも乗っている。重みでふらつく三輪車は、あまりにも危なっかしい。しかしその車輪がブルーシートの領土に踏み込んできても、枯れた野菜売りの枯れた老人はピクリとも動じない。きっとここでは、何も特別なことではないのだろう。

久しく味わっていなかったこの猥雑さの中を、僕はイヤホンのスイッチを切り、歩き始めた。オーディオブックの「サピエンス全史」が途切れたのちに聞こえてきたのは、猥雑なホモ=サピエンスたちの営みの声と、鶏とアヒルの混声合唱だった。

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フラフラと歩いていると、肉夹馍rou jia moの屋台が目に入った。

肉夹馍rou jia moとは、白いパンのような2枚の「mo」の間に、煮込んだ細切れ肉を挟んだ料理だ。もともとは陝西せんせい省のものらしいが、中国では普遍的に食されている定番料理のひとつ。

その形状からハンバーガーと比較され、「中華ハンバーガー」などと呼ばれることもある。しかし自分でタイトルに使っておいてなんだが、肉夹馍はハンバーガーとはまるで似ても似つかない。というかハンバーガーより絶対美味い。あんな悪徳資本主義の権化みたいな、不健康な食べ物と肉夹馍を一緒にするべきではないと思う。

さておき、この記述から分かるように僕は肉夹馍に目がない。街で見かけたら無意識に買ってしまうレベルだ。今回も屋台を見かけたからには、とりあえず食べてみなければならない。

屋台のおばちゃんに「肉夹馍rou jia mo!」と声をかけた。おばちゃんは訛りはあるものの明確な声で「等一下,三分钟3分待って」と笑顔で言う。朝早いため、まだ「mo」が焼けていないらしい。中国で出会うものとしては貴重なその人懐っこい笑顔に、僕も笑顔で「好的いいよ」と返す。

猥雑な風景を改めて見回しながら待っていると、ほどなくして「要不要辣椒唐辛子はいる?」とおばちゃんの声が聞こえた。「mo」が焼けたようだ。おばちゃんはトッピングの唐辛子を入れるか聞いている。

いる」というと、続けざまに「大蒜呢ニンニクは?」「香菜呢パクチーは?」と聞いてくる。ニンニクはなし、パクチーは多めにしてくれと頼んだ。

手際よく2枚の「mo」の間に肉とトッピングを挟み込み、袋に入れて渡してくれる。「多少钱いくら?」と聞くと、おばちゃんは「8块」(8元、約160円)と言う。

支払いは屋台にぶら下げられたQRコードを読み込んで行う。「中国では屋台の支払いすらもキャッシュレス」という言い回しさえ、いまは過去のものとなったほど、この国ではありふれた光景だ。

8元をWechatから支払い、小さな袋を手に提げてその場を後にした。

来た道を戻りながら、僕は袋を開け、肉夹馍に大きな口でかぶりついた。細切れ肉に効いた少し強めの塩気と、ほどよくパリッとした「mo」の食感に、脳が喜ぶのを感じた。いつも食べているもののなかでも特別に美味しいものとは感じないが、さっきのおばちゃんの笑顔のおかげか、僕の顔には少しの笑みが溢れた。

瞬く間に食べ終わると、また鶏とアヒルの合唱が聞こえてきた。まだ帰り道を、いくらも歩いていない。

僕は来た道を、記憶をたどりながら帰っていった。

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僕がその日見た風景は、法と不法の狭間にある、中国の原風景そのものだ。

建前としての厳しい統制と、その厳しさの周縁やスキマに広がるバッファの中に、多くの人の生存空間が存在している。

露店の数々は誰に許可を取っているものかもわからないし、そこで売られている鶏もアヒルも枯れた野菜も、衛生状態は相当に怪しい。たぶん法律に厳密に照らせばアウトだろう。その間を走るボンベ満載の荷台はどう見ても過積載で、いつ事故が起きてもおかしくない。本来なら真っ先に通報されるべきようなことだ。

僕が肉夹馍を買った屋台もそうしたものの一つだし、そういえば支払いをした時にスキャンしたQRコードで示された支払い先は、明らかに法人や店舗支払い用のものではなく、個人のアカウントだった。税金を申告しているかは怪しいものだ(申告が必要なほど儲かるかどうかという問題はあるが、仮におばちゃんがボロ儲けしていても申告はしないだろうと想像する)。

でも、この国ではそういったグレーあふれる景色の中で、多くの人が生きている。

近年の中国は、急速に「きれいに」なっている。厳しいルールが建前ではなく、額面通りに実行されるようになってきている。その流れの中で、グレーな景色は少しずつ存在を許されなくなりつつある。

それは、マクロで見れば喜ぶべき変化だ。人々が安心して、公正かつ平等に社会を営んでいくためには、危なっかしいグレーゾーンは縮小させて然るべきだ。僕自身、この国のグレーゾーンがもたらす理不尽に、数々の痛い目を見てきた。そういうことが少なくなるのであれば、個人的にも歓迎すべき流れであるようにも思う。

ただ、そうしたグレーゾーンがもたらす空間で、危なっかしくもたくましく生きている人々は、これからどこに行くのだろうか。

厳しくなる統制の中で存在を許されなくなり、不可視化され、「そういえば、あの人たちはどこに行ったのだろう」と、彼らのことを過去形で語ることになるのだろうか。

それとも彼らは、それでもどこかに生存空間を見つけ、たくましく生き続けるのだろうか。ふといつもと違う道を行けば、彼らはそれまでと変わらない様子で、そこにいるのだろうか。

あるいは、いまこの国に広がりつつある不安定性と混乱が、むしろこうした人たちの生存空間を広げるようになるのだろうか。

なんにせよそれは、この国の人たちが決めていくことだ。

法と不法の狭間でほおばった肉夹馍rou jia moの味を思い返しながら、そんなことを考えている。

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