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予定論とは何か?

「神は,イエス・キリストを通して私たちが神の養子になり,私たちがイエスにまで至るように,愛をもって予め定めておられました。それは,神の恵みの栄光の称賛のためであり,神はイエス・キリストにあって私たちに無償で与えられたのです。イエスの血による贖いにより,私たちは罪の赦しを得ています。それは,神の恵みの豊かさによるのです」(エペソ書1-4~7)
 

予定論の系譜


カルヴァンの予定論


 キリスト教の正統教義には,予定論というものがあります。予定論とは,簡単に申し上げれば,「神が予めすべてを定めておられる」という教えです。全知全能の神を信じる一神教信者であれば,当然の教義と言えるでしょう。
 予定論の教義は,カトリック教徒よりもプロテスタント信者に大きな影響を与えました。そして,予定論を信奉するプロテスタントにより,近代の資本主義経済が誕生したのです。
 なぜ,予定論が資本主義経済を誕生させたのでしょうか?理由はこうです。「神は,“救う人”と“救われない人”を予め定めておられる」これが,プロテスタントの信じる予定論です。神が永遠の昔から決定しているのならば,人間はどうすればよいのでしょうか?どうにもできません,人間は完全に無力なのです。人間ができることは,「自分が救われる人間であることの確証」を求めるのみです。つまり,救われている人間ならば,神の御心を為すに違いない。善を為し,身を粉にして神の国建設のために働くに違いない。そう信じて,プロテスタントは猛烈に善を為し,猛烈に働いたのです。働ければ働くほど,「自分が救われている人間であることの確証」が得られると信じて。金銭や報酬を一切求めず,ただ働くために働く生活。プロテスタント諸国から合理的な資本主義経済が生まれる所以です(マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)。近代以降の経済覇権国オランダ・イギリス・アメリカの精神的原動力は,プロテスタンティズムの予定論だったのです。
 その結果として,プロテスタンティズムの国々では,何が起こったのでしょうか?それは,強迫神経症の急増です。これは,至極当たり前の話でしょう。善を為したいから為すのではなく,為すべきだから為す人生観。それはあたかも,自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするようなものです。善を強制された良心は,己の罪悪を無意識に追いやることにより,心の病を醸成させてしまうのです。

誤解された予定論


 しかしながら,ジャン・カルヴァンの主張した予定論は間違いです。彼は,「個人的救済の問題」に関してはキリストを見つめながら,「神の経綸である予定論の問題」に関してはキリストから目を反らし,一般的な神の視点から予定論を考察したのです(ジャン・カルヴァン「キリスト教綱要」)。キリストを通してこそ,神は恵みの神として私たちに顕われます。一般的かつ抽象的な全知全能の神,そういった神の予定論は,ただただ冷たい宿命論に陥ってしまうのです。使徒パウロが,主著「ローマ書」において,予定論の前に神の恵み(ローマ書1章~8章)を説き,その神の恵みを前提に予定論(ローマ書9章~11章)を展開したことを忘れてはなりません。
 ただし,私たちはカルヴァンを責めてはならないでしょう。なぜなら,こういった予定論を主張したのは,彼のみではないからです。アウグスティヌスやトマス・アキナスなど多くの神学者もまた,カルヴァンのように宿命的予定論を説きました。予定論を宿命論的傾向に解釈し始めたのは,古代最大の教父アウグスティヌスでした。そして,アウグスティヌスの予定論をさらに陰鬱な方向に推し進めたのが,中世最大の神学者トマス・アキナスでした。もし予定論の誤解を責めるのなら,私たちはカルヴァンのみならず,アウグスティヌスやトマス・アキナス,いや全キリスト教神学者を批判の対象にしなければなりません。

真の予定論


エペソ書の解釈


 では,聖書本来の予定論とは,いかなる思想なのでしょうか?予定論を最も強調したエペソ書を用いて,福音的な正しい予定論を明らかにしてみましょう。
 エペソ書著者は,「私はこれから福音の秘儀を語る(1-9)」と述べました。そして,その秘儀こそ,予定論なのです。予定論とは,「予め定める」という意味です。この単語の時制はアオリストというもので,この時制は時間に限定されない性格を持っています。つまり,「神が予め定めた」というのは,過去・現在・未来に限定されない神の働きを表現しているのです。神は,大昔に一度定め,頑固親父のように決して変更しないのではありません。また,機械仕掛けの神のように,一旦決めたことを機械的にこなしているのでもありません。神は,絶えず決定しつつ,神の経綸を成就しているのです。
 では,神は何を予め定めたのでしょうか?それは,「救われる人間と救われない人間の区別」ではなく,「すべての人間を救う覚悟」です。エペソ書では何度も,「愛をもって定めた」「イエス・キリストを通して定めた」と書いてあります。すべての人を救うために,十字架の死さえも辞さなかったイエス・キリスト。そのキリストの父なる神が,「一部の人間だけ救い,他の人間を永遠の断罪に定めた」などと,どうして信じられましょうか?正しい予定論とは,「誰かが救われ,誰かが救われない」ことではありません。正しい予定論とは,「我々(全人類)が救われ,神が死を選んだ」ということです。神が我々のために,救われない地獄の道を選んだということです。
 では,なぜ神は,そんな稀有な事を望んだのでしょうか?(創造者が死を選ぶ,これほど不可思議な事件はありません)それは,ご自身の恵みの豊かさを示すためであり,すべての人が神のように恵み深くあるためです。すべての人がイエスによって救われ,イエスに至り,神の子となること。そして,愛をもって互いに支え合い,神の国をこの地上に成就すること。これが,エペソ書著者のいう予定論なのです。あたかも,親が犠牲的生涯によって子に自分の志を示し,感涙にむせんだ子が親の志を成就するように,神はイエスを通してご自身の御心を示し,神の子たちによるご自身の理想成就を望んでおられるのです。

神の恵みの選び


 福音を理解する上において,予定論は非常に重要です。ですから,しつこいようですが,もう一度確認しておきましょう。神が予め定められたのは,「ある人が救われ,ある人が救われない」ことではありません。神は,「人類が救われ,神の子が死ぬ」ことを予め定められたのです。キリスト教を迫害したサウロ(後のパウロ)も,おっちょこちょいのシモン(後のペテロ)も,裏切り者のユダも,神に反逆したサタンも救うため,神の子は十字架の死を選んだのです。

福音の秘儀


 エペソ書には,面白い言葉があります。「ανακεφαλαιωσασθαι(アナケファライオーサスタイ)」という非常に珍しい言葉です。この語は三つの単語の合成語でありまして,αναは方向,κεφαληは頭,σασθαιは動詞化した受け身を表しています。直訳すれば「キリストにおいて頭化される」となりますが,意訳すれば「キリストが万物の頂点になる」とか「キリストにあって万物が一つになる」という意味でしょう。福音の秘儀である予定論,その予定論の本質とは,キリストの精神によって全人類・万象万物が一体となった光の重層世界なのです。ダンテが天国で見た最後の光景こそ予定論の本質であると,私は考えています。
 


「永遠の光の深みには,宇宙に散らばった諸々のものが,愛によって一巻の書物にまとめられているのが見えた」(ダンテ「神曲」天国篇第33歌85~87)

「愛はもはや私の願いや私の心を,均しく回る車のように,動かしていた,太陽や諸々の星を動かす愛であった」(第33歌143~145)
 

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