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鳥肌を信じて生きてきた

朝晩の冷え込みが大きくなって、遠くに見える嵐山の緑も少しずつ色が変わってきている。朝焼けに包まれて自転車でそんな景色を眺めていたら、ふとブワブワしてきた。鳥肌が立つ。自ずと意識は触覚に集中して、そこに佇む。

言葉を仕事にすればするほど、時折訪れる、なんといってもウソになるような言葉にならない感覚が愛おしくなる。僕にとってのスピリチュアリティとの向き合い方はそんな感じで、唯一信じている、自分にとってもっともオーセンティックであるセンサーは、このからだ全身の鳥肌である。

いまとあるファミレスでそんなことを書きながら、また全身がブワブワしている。それを大いなるものと呼ぶか、神や仏や大宇宙、あるいはU理論でいう「Source」と呼ぶか、呼び方はひとそれぞれでいい。僕はまだ、しっくりくる言葉が見つかっていない。

その瞬間をどう例えたらいいのだろう。思い浮かぶ限り、言葉にしてみる。

触れられている。

包まれている。

愛でられている。

通じている。

お互いに、喜んでいる。

確かにわたしはここにいて、そのことが絶妙である。何かから離れていて、ひと呼吸して、戻ってきて。何らかの一部であることを確かめて。

いま喜んでいるそれは、僕なのかもしれない。あのひとは、もうひとりのわたしなのかもしれない...

0番目の場所をめぐって

この大きな流れは半年くらい続いていて、直近の10月27日(土)の藤田一照さん、桜井肖典さんとのトークイベントのときには、すでにコップがあふれそうになっていた。

その日のテーマの一つが、ファーストプレイス(家庭)、セカンドプレイス(職場/学校)、サードプレイス(コミュニティ)につづく、「ゼロスプレイス」について。まだ明確に定義しきれないのだけど、さっき書いたような感覚を思い出せる場所のこと。

とはいえ僕にとってそんな"スピっていること"を公の場で言うことは、カミングアウトに近いものだった。それでも、「空海とソーシャルデザイン(仮)」を書き上げるためには、避けては通れない道であり、「これからの仏教」の可能性を示すものとして、ゼロスプレイスというキーワードで紐解いてゆきたいと思っていたので、勇気を出して話題にしてみた。

すると、一照さんは、僕の突然の告白をニコリと受け入れてくれて、「僕でいうなら『ただ、ある』ということですね」と言い換えてくれた。

自分の気づきを不安ながらもシェアしてみて、その人の言葉でパラフレーズしてもらえたとき、深くつながれたような気がして、心はどんどん開いていく。

このときも鳥肌が立った。そして、何に導かれてここにいるのか、その不思議さを喜んでいた。

その夜に打ち上げがあったのだけど、信頼できる仲間たちに自分が抱えていた淋しさのような闇を打ち明けたとき、また鳥肌が立った。どこかの星がひとつ動いたような、自由になった気がした。

この日のもっとも大切な収穫は、「空海とソーシャルデザイン(仮)」への自信を深めたこと、そしてこのテーマで書くという仕事を純粋な気持ちで受け入れることができた、ということ。それは、これまでの孤独さによる不安と焦りと、根深い不純なる動機を一気に清浄してくれる禊。小さな意図を超えた大きな不意打ち。

ここまで書いていて、いまひとりファミレスで、イヤホンでピアノを聞きながら、目には涙が浮かんでいる。「よかったねえ」と、いま何かと喜びをしみじみ分かち合っている。

自分のための聖地

ちなみに冒頭の写真は、人生史上最大の鳥肌経験のひとつだった屋久島・太鼓岩の景色から。その経験はマウナケア山頂からの朝日や、早朝の高野山奥の院でのそれとも似ていて、確かにからだのどこかに保存されている。

だから一度開いたならば、きっとそこにいかなくとも思い出すことができる。自分のための聖地は、目を閉じずとも自ずと開かれる。そしてしかるときには、しかりと鳥肌が立つ。

僕はこのからだを信じて、これからも生きていく。

はじめまして、勉強家の兼松佳宏です。現在は京都精華大学人文学部で特任講師をしながら、"ワークショップができる哲学者"を目指して、「beの肩書き」や「スタディホール」といった手法を開発しています。今後ともどうぞ、よろしくおねがいいたします◎