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麻雀の鬼に学ぶ、筆が「悪すべり」しないコツ。
先日、小説仙人・N先生のガイドで合評した、色川武大の『百』。
麻雀放浪記の「阿佐田哲也」と言ったほうが、知っている方が多いかも。
持病のナルコレプシーのため、勝ち麻雀の途中で寝オチ⇒ボコボコになった・・などの武勇伝?にことかかない「雀鬼」です。
『いねむり先生』というと、ちょっと微笑んだり、ウルっとする方も。
愛されてる作家さんですよね^^
『百』のほうは、百歳を前にして老耄はじまった元軍人の父親と、無頼の日々を過してきた「私」との異様な親子関係を描き、人生の凄味を感じさせる遺作集。
・・おさない兄弟が共有するひみつの儀式、自分の異形や思考癖、その日々のなかにフラットに描写される妄想(ナルコレプシーの前兆?)
・・・主人公が撲殺する小さな猫たちや、彼の首をしめつける猿は、何の象徴なのか象徴でないのか、私にはよくわかりませんが、すべての描写に気負いもてらいも優劣もないみたい、言ってみたらウォーリーを探せみたいな文体だと思いました。
そして、
あらゆる関係性に「特権意識がない」と自分で書かれているとおり、世の中の「レイヤー」から自由なスタンスに見える。
だから、こんなうっとうしい父(中年になってできた息子を溺愛し英才教育し登下校に付き添い図画工作宿題も自分が手がけ・・・)を、シートン動物記みたいに描くことができたのかな。
「母と娘」で描かれる文学やドラマは多いけれど、「父と息子」も、こんな文学になるんだね。とN先生は言う。
父との葛藤がある人に読んでみてほしいと思います。私も、息子のように父を疎んだ時代があった、そんなときに読んだら、違うレイヤーで見られたかな。
◆
新人時代の色川さんが父を描いた『黒い布』が、中央公論新人賞を受賞したとき、
選評会で三島由紀夫が「この作品は、それまでの文学や小説に書かれていなかったようなことを書いている・・。どこかで読んだような小説でないもの・・・そういう意味で新人賞にふさわしい・・・」。ということをおっしゃったそうです。(うろ覚えですが)
それはそうだ、
純文学の「ジュン」とは「誰かがすでに構築したホニャララに影響されていない」‥という意味での「ピュア」とか「真摯」とか「マジ」のことでもあって、
そりゃあ自分だって誰かの書いたような表現はしたくない、と心からと思うんだけど、こうやってブログnoteやSNS向け文章を読み書いていると、
ダシのきいた味でなく油っぽいパンチのきいた文章ばかり求めるジャンキーになっちゃうんだよね、
と思っていたら、N先生が面白いことを教えてくださいました。
奥様が夫の背中を見るとき、
「阿佐田哲也」として雑誌などに麻雀コラムを書きとばすときは、リラックスし、緩み、楽しんで書いているようであった。雑記帳のようなものを使い、草書ですらすらと書いていた。
しかし、純文学作家「色川武大」として書くときは、背中がピンと張りつめ、緊張し、その背を一目見ただけで「今は作家・色川になっている」とわかったという。
そういうとき色川が使うのは、大きめなマス目の原稿用紙だった。きっちりきっちり、楷書で、一マス一マスを、埋めるように書いていた。
「そうやって、“色川”になるときは“書き飛ばさない”ようにしていたのかもしれないね。筆が滑りそうだと感じたときは、文字を大きくして、きっちりと書いてみるのもいいかもしれない。PC画面でも文字の級数を上げてみるとかね」と、冗談のようにN先生はおっしゃったけれど、
それ、使えるかも。
PCでもこのように(強調文の部分だけでなく)パラグラフ、あるいは全体の文章・文字のサイズそのもの(できれば書体も)拡大表示や、変換してみることで、「間」を与え、一呼吸置き、筆が悪滑りするのを防ぐということが、できるのかもしれません。
ね。
(2014,12月拙ブログより転載)
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