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歴史の薫陶

幕末、維新成就の舞台裏で活躍した大洲藩士。
 私がよく使っている『肱川街道』という表現は、現職時代に取り組んだ坂本龍馬と大洲藩の絡む歴史の史実調査をする過程でひねり出したものだ。それは、土佐街道×宇和島街道×松山街道のほぼ起点となる交差点が町中にありそれに肱川の船運が絡んでこの町の交流が盛んだったということから「肱川街道」と表現した。

写真① 街道の起点出会ったと思われる交差点

 写真①は、今となっては多くの観光客や来訪者の皆さんが散策するおはなはん通りと旧塩屋町通りの交差点。現在は三叉路だがかつての時代には臥龍山荘(加藤家下屋敷)方面への道があった。度重なる火災で現在のような町割りに変化しているが、北へ歩けば河港の「高河原」があることから船頭や乗船客、人夫の宿泊なども絡んで最も賑やかな交差点であったと思われる。

写真② 大正時代初め頃の岩村商店
写真③ 写真②の煉瓦の煙突が一番奥の常夜灯

 写真②は、大正時代初め頃に撮影された写真だと思われる。ほぼ同じ場面を構図は違うが撮影したのが写真③でかつての「岩村精米製油工場」だ。当時、店主の岩村芳太郎氏は大洲町の町長であり商工会の会長も兼ねていたと記憶している。元々の木蝋産業は明治後期から大正初期にかけて衰退の一途を辿り、代わって製糸業でその名を全国に馳せていくことになった。岩村氏はその中心的原動力だったのかもしれない。何しろ製紙工場が捨てていた 「繭」に目を付けこれを集めて「蚕油」を絞り出し、更に「蚕石鹸」を作って売り出したと言われている。木蝋が現在も女性の化粧では中心的アイテムでもある「口紅」の原材料であったように、この「蚕油」が「石鹸」の原材料となり後々の「絹石鹸」へと繋がっていったのかもしれない。写真②の煉瓦の煙突はその名残であり、昭和3年に昭和天皇の即位を祝して大洲神社へ寄贈、モルタルで包んで常夜灯を乗せ今日に至っている。

写真④ 旧塩屋町通りから臥龍山荘へ(かつての街道)
写真⑤ 旧塩屋町通りを河港「高河原」へ
写真⑥ 旧塩屋町通りを宇和島街道方面へ

 多くの人々が訪れて町中を散策している今日の城下町大洲。とにかく人が集まらなければ何もできないと考えて東奔西走した現職時代。同じ場面、同じ鵜飼いの写真を手を替え品を替えあの手この手で情報発信した。そもそもお金が天から降ってくるわけではないので、自分で工夫し自らを交流の中心に据えて取り組むしか方法がなかったが、それが今日こうして賑わいが創出できてきていることに何とも言えない感慨深さを感じている。

ただ心配事もある。
 「人は人に集まる」ことを忘れないことだ。街づくりは舞台裏で関わる方々の「交流センスを高めていく」ことの手を休めてはならない。この町の歴史と栄光の数々やその歴史的ポテンシャルの高さは群を抜いている。今や多くの方々が訪れて行き来している城下町大洲を更に高めていくためにも、皆さんでこのことを認識し共有して次なるステップを目指してほしいと願っている。

2023.07.13.
街づくり写真家 河野達郎

 

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