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おいしいもの食べてください。と、祖母は言った。

俺の祖母ちゃんは、食べ物に対して並々ならぬ思いを持つ人だった。それは自分の食べる物だけでなく、子や孫たちが食べるものに対しても同様だった。

例えば俺が、ちょっと旅行に行ってくると祖母ちゃんに言うと。美味しいもの食べなさいよ、と。何度も強めに言いながら小遣いを渡してくる。

どこかに出かけるときは美味しもの食べなさい。普段から美味しいものを食べなさい。そう、口癖のように言っていた。お盆の時期など、遠方から帰ってくる我が子や孫たちにも、道中。または帰り道で、美味しいもの食べなさいよと、何度も言う。

なぜ祖母ちゃんはあそこまで食べ物に対して強い思いがあったのだろうか。祖母ちゃんは百姓の家に生まれで、戦時中でも食料に困ったことはあまりなかったと本人が言っていたし、とくに食べることで苦労したことはないはずだった。

それと祖母ちゃんは、食べ物のことで験を担ぐ面もあった。例えば巻き寿司や、だし巻き卵の端の部分を男さんが食べると出世しなくなるから食べてはいかんよ、とか。何かにつけて験を担いでいた。

そんな祖母ちゃんの食に対する精神は、自らが生死の境にあるときでさえ変わらなかった。

入院している祖母ちゃんの病状が悪化し、緩和ケアの段階に入ったころのことだった。ある夜、病室で苦しそうに呼吸する祖母ちゃんを、俺ひとりで見ていた。そこに、遠方に住む祖母ちゃんの息子が、7時間ほど車を飛ばして駆けつけて来た。俺にとっては叔父にあたる人で、会うのは数年ぶりだった。

目をつぶり、苦しそうに呼吸する祖母ちゃんの耳元に声を掛けた。祖母ちゃん、おじさんが来てくれたよ。と。

ゆっくりと目を開けたが、あまり反応がない。数週間前から俺のことも孫として認識できなくなっていたようなので、目の前にいる人が自分の息子だと分らないのかもしれない。なので俺は耳元でやや大きめに声をかけた。

祖母ちゃんよく見て、この人はあなたの息子。遠くから、何時間もかけて来てくれたんやで。

すると祖母ちゃんは苦しそうに呼吸しながら、自分の息子を見つめて、小さくかすれた声でこう言った。

「おいしいもの、、たべてください、、」


俺も、叔父も。その場に崩れ落ちそうになった。自らが、今際の際にあるというのに。息も絶え絶えに、息子の、食の心配をしている。いや、息子だと認識していないのかもしれなかったが、それでも美味しいものを食べろといったのだ。

祖母ちゃんは、孫の顔も、息子の顔もわからなくなっても、それでも芯の。いや真の部分は変わらないでいた。大切な人に美味しいものを、栄養のあるものを、と。

顔も名前もわからなくなっても、それだけは変わらず残っていた。

数日後、祖母ちゃんは旅立っていった。家族に見守られながら。
人は死に向かうとき、恐らく一切の余計なものをそぎ落として行くのだろうと思う。

最後の最後は、真の部分だけを持ったまま、旅立っていくのだろう。
祖母ちゃんは今頃あの世で、笑いながら、うまいものを食っているはずだ。

「美味しいものを、たべなさいよ」と、言いながら。

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