『クリーピー 偽りの隣人』 感想
隣人が香川照之なのでマトモなわけがない、って映画。
元刑事の高倉は、犯罪心理学にのめり込むがあまり、既にマトモでいられなくなっている自分に気が付かず、そのせいで警察史上に残る大失態を犯してしまい、大学教授に転職して、引っ越す。
新しい環境のご近所付き合いも大事だもんね、と妻とともに挨拶回りに行くが、ご近所さんは二軒とも変な人で嫌な感じ。
「ご近所付き合いなんてやめようよ」と高倉は言うのだが、妻は新しい環境に夢を見てしまっているため、言うことを聞かない。
そんな中、隣人の西野とその娘・澪と仲良くなった妻は、高倉が「なんか厭な感じ」と思うのも構わずに二人を家に上げて食卓を囲むことに。
同じ頃、高倉の後輩で元同僚の野上は、過去に起きた一家失踪事件を解決できるのは、犯罪心理学に詳しい高倉先輩しかいない! という思い込みで高倉の元を訪れる。
「もう俺は刑事じゃないから巻き込まないでよ。向いてないんだし」と口では言う高倉であったが、実際に一家失踪事件の重要参考人である早紀と対面してからは、マトモでない犯罪心理学者の面がみるみると湧き上がってしまい、早紀と野上をドン引きさせる。
一家失踪事件の隣人の水田が怪しいなあ、と考え、その後野上が水田家を捜索した所、押し入れの中から真空パックに梱包された五人分の屍体が見つかる。
DNA鑑定の結果、その屍体の内一体は、怪しいと睨んでいた水田本人ものであったと判明する。
その頃、高倉の妻は大きな飼い犬とともに西野とどんどん仲良くなっていき、高倉の元には澪が訪れ、高倉にいきなり告げるのであった。
「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」
……
死ぬほど怖い映画でした。
でもこの怖さは何かというと、殺人描写が恐ろしいとか、大きな音でびっくりさせるとかではなく、「この世の中が完全に狂いきっていることを改めて教えてくれる」からの怖さだと思いました。
まあこういうタイプのサスペンスミステリ映画で、香川照之の名前が二番目くらいに出てきたら、百人中九十人は「この人が犯人なのね」と思うじゃないですか。
特に黒沢清映画ですよ。
思わないわけがないじゃないですか。
『蛇の道』『贖罪』……うん。思わないわけがないね!
で、おおよそのそういった予想通り、香川照之が犯人なんですけれど、勿論始めからそれを隠そうと一切していませんのでご安心ください。
香川照之とのファーストコンタクトシーン。
一目で「異常者やんけ」と理解る演技と歩き方をしています。笑ってしまうほどです。
そしてこの演技は、実在の異常者(映画内では、高倉がサイコパス、と台詞で言っています)の特徴を、香川照之が完璧に演技で表しています。すごい!
一見上手いって言われてるけれど、実は大した芝居していない役者と、ほんとうに上手い役者との明確な違いは何かって言うと、肉体コントロール能力です。
本当に上手い役者さんは、指先の一つまで、演技で計算できていられるんです。
今作の香川照之さんの、とある前半でのシーンでの坂を登って歩いて行く後ろ姿を見れば、誰もが「あ、この人異常者だ」と理解ると思います。
普通に生活している人とは、そもそも考え方が違うことを、歩き方で表現しているのです。たまげた!
しかもパンフレット読んだら、そのシーンが香川さん一番初めの撮影シーンだったそうです。
もうド頭から異常者役柄の作りこみが凄いわけです。
とまあこういった具合に香川照之の素晴らしさだけで感想終えても良いんですが、それだけでは済まない魅力に詰まっていたのでもう少しだけ。
黒沢清監督の作品の特徴として、パンフレットでも書かれていましたが、「境界が曖昧になる」というのがありまして、それは生と死、通常と異常、現実と異界、などがこれまでの作品でも繰り返しテーマとして描かれてきて、今回でもそれは画作りに現れており、そもそも、オープニングクレジットの取調室の窓からしてアシンメトリーなわけです。
右側と左側の景色が違う。
で、その違う景色を分け隔てる場所に、人物が置かれる。
ということは、その人物こそが、境界の裂け目に立ち、なおかつ境界を曖昧にする人物である、ということがはっきりと描かれるわけです。
そしてその人物は、黒沢清作品において、徹底的に空虚な人物である。
右と左の景色が違う境界に立つ人物。
今回の『クリーピー 偽りの隣人』においても、高倉とその妻が食卓を囲むシーン。
画面中央に置かれた妻と、背景の光の違いは明白で、その境界に妻がいる。
高倉の背景も右と左で景色が全然違い、高倉すらも境界にいる。
他にも画面中央で左右の景色が全く異なるシーンは多く出てきて、画面右半分が立入禁止のネットで、その向こう側に竹内結子演じる妻がいるのだけれど、妻はその後の芝居でネットから此方側へ移動する、とか、澪が高倉の家に逃げ込んで来た時に画面の半分だけ隠れるとか。
そしてその境界が曖昧になってしまう根本こそが西野なのか、というと、そこが少し違う。
境界を曖昧にしてしまう力を西野は持っていただけであり、そもそも、曖昧になってしまったのは、高倉達本人に原因があったのだ。
高倉とその妻は、仲良さそうで円満に見えるが、その後、妻が高倉に不満を持っていたことが露呈する。
妻が一生懸命作った料理を、高倉が美味しそうに食べなかったからだろうか。西野は、実に美味しそうに食べていた。
それよりも以前から、二人には何か問題があったのだろうか。
高倉夫妻には子供がいない。
詳しくは語られないが、黒沢清監督のフィルモグラフィーからいうと、子供のいない熟年夫妻は多い。
それらの作品の彼らは子供が出来なかった、もしくは、幼くしてして亡くしてしまった場合が多い。
高倉夫妻もそうなのだろうか。
妻の「引っ越せば環境が変わると思ったけれど」という台詞がやけに気になってしまう。
そして勿論高倉本人にも原因はある。
映画の冒頭、彼は刑事であり、犯罪心理学者であろうとする自分に固執した末、刺されて引退したのである。
勿論妻にしてみればタダ事ではない。
しかし、高倉自身に、本当に心の底からそのことを反省しているように見受けられないのも事実であり、劇中に何度もそのことを高倉自身も弁明している。
そうするとやはり、高倉夫婦自体にも、現実社会で幸福な道を歩めなくなる綻びがあったのではないか?
境界に立っていたのは、彼ら自身ではなかったのだろうか?
そのことに対する解答を、この映画の後半ではじっくりと、かつスピーディーに殘酷に描いていく。
そうしてクライマックスの展開に観客が度肝を抜かれつつも「ああ、やっぱりこの人はサイコパスだったんだな」とある種おかしな感動を覚えながらも爽快感を覚えつつある瞬間で、とある人物の、映画史に残る「魂の咆哮、産声」を聴くのだ。
あの産声を聴いた瞬間、その後の彼らが、ハッピーエンドなのか、地獄巡りなのか、は、観るものに完全に委ねられたであろう。
最後に映る屍の姿が、真空パックされてしまった他の屍体とほぼほぼ同じだったことが、地獄を示唆しているような気さえする。
そして同時に、地獄のような現実世界を、それと知った上で新たに生まれ変わった、今後世界に立ち向かえる、力を持った産声だ、と捉えることもできる。
今作がハッピーエンドなのかバッドエンドなのかは、この作品を観るまで、「どのように狂いきったこの世界を捉えていたか」によって変わると思います。
つまり、観客それそれで答えが変わるという、真の意味でのホラー映画。
あと、コレ観た人は、もう二度と、「誘拐監禁された被害者は逃げる隙があったのに何故逃げなかったのか! 被害者にも落ち度がある!」などというトンチンカンなコメントはしないだろう。
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