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雨の一日中と『セブン』のこと

日常生活における雨は、まあ基本的に季節や気温によっておおよそランダムに降ったり止んだりするものですが、作品世界における雨は、ちょいと様子が違います。

基本的に映画や漫画、小説や演劇などなどのフィクションの世界で降る雨、というのは、登場人物の心の涙を表現する時に降るものです。
本当は人目もはばからずにわんわん泣きたいのだけれど、それぞれの登場人物の立場(長男だから弟や妹達の前で泣くわけにはいかない、殺し屋だから泣くわけにはいかない、ロボットなので涙という概念がない、あんなつまんない男こっちからフってやったんだから! と強がりを言ってしまっている、など)によって、それができない、と。
その場合に空が代わりに泣いてくれるわけです。
そして読者や観客は、「あいつ本当は泣きたいのに違いない。あいつの気持ちを想像するととても感動するなあ」と感動するわけです。

まあ最近のドラマとか映画とかでも、雨の中わんわん泣いてる登場人物とかよくいますけどね。
あれなんなんでしょう。どういう演出?
泣いてたら土砂降りになって、二重苦! 風邪ひく! みたいな意味なのかなあ?

わんわん泣くんだったら雨降らせる必要ないわけですよ。
もうわかってんですから。

で、雨が印象的な映画といえば、もちろん、誰もが真っ先に思いつくのは当然のことながら『セブン』な訳ですよね? ね? 絶対みんなもそうですよね? 違うってならこの話はもうここでおしまい!

さて、雨の映画といえば、満場一致で『セブン』なわけですが、あの映画における、雨とは一体なんなのか。

この映画の中には、二人の刑事、という主役と、マメなキチガイの犯人という、三人の人間の主役の他に、もう二つ、主役と呼べる物があり、それは、あの退廃した街と、キリスト教における大罪、です。

で、降り続ける雨、とくればノアの箱舟の伝説の、洪水となる四十日間降り続ける雨。
そして、七つの大罪を街の人々に重ねて殺人を繰り返す犯人。

そして犯人が、二人の刑事に向かって、いかにこの世界が愚かで醜いかを延々ベラベラ喋り続けるシーン。

つまり、あの映画における神とは、あの犯人、ジョン・ドゥのことなのだ。
だからラスト、怒りも悲しみもなくなったジョン・ドゥの頭上には、もう雨は降らない。
その代わりに、二人の刑事の心には、生涯止むことのない雨が降り続けるのだ(あと、観客にも)……。

みたいなことを思って、「やっぱすげーなーデビッド・フィンチャーは!」と感心していたら、監督自身がコメンタリーで、「最初に撮るシーンが雨だったから、仕方なくその後も雨にしただけなんだよねー。偶然だよー」みたいなことを言っていて、ズコー!

だいたい、ノアの伝説と七つの大罪、そんなに関係ない。

ちなみに、デス電所の公演に『ヌンチャクトカレフ鉈鉄球』ていうタイトルはものすごくカッコいい芝居を書いたことがあるのですが、それも、『セブン』の影響受けて、ラストシーンまでずーっと雨降ってる設定だった。

その時は、「一体この雨は、登場人物の、誰の心の涙なのか、それ自体を謎解きとして楽しめるような仕掛けにしてやるのだ」と意気込んで書いて、その謎は「実は、登場人物の一人ではなく、全員の心の涙という衝撃のオチなのだ!」と一人興奮してたのですが、お客さんは愚か役者にもスタッフにも誰にも伝わらない(というか、誰の心の涙なのだろう? と、そもそも誰も不思議に思わなかった)ばかりか、一番こだわっていたはずの俺が、公演の途中から、とてもそれどころじゃなくなり(自業自得)、本人も途中からすっかりそんな仕掛けのことは忘れていた、というていたらく。

もちろん、その仕掛けがうまくいかなければ芝居が成立しない! というものでもなんでもなく、ただの自己満足だったので、何も問題はなかったのですが、やるなら最後まで責任もってやらないとダメ。

というようなことをつらつらと土砂降りの外を見ながら思い出してた一日でしたとさ!

#雑記 #映画


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