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『パンズ・ラビリンス』感想 ※ネタバレあり

女の子が夢を見る映画。

大傑作。
全ての登場人物、アイテム、設定のどれもが、物語を語る事に機能している。
何度も観れば観るほど発見のある素晴らしい作品。

物語は、ファシスト体制に揺らぐスペイン内戦を舞台にしている。

主人公オフェリアの義父、ヴィダルはファシスト政権の大尉であり、家庭内でも軍でも冷酷で横柄で傍若無人で嫌な感じ。
で、年頃の娘さんであるオフェリアがそんな環境に我慢できるわけはないのだ。

なにしろヴィダルは自分と血の繋がっていないオフェリアのことは抑え付け、新たに生まれる自分の子供ばかり気にしている。
子供を抑え付け、何度も時計を確認する彼の姿は、力によって周りが見えなくなった化け物のようだ。

それだけでなくても内乱最中。
家の外ではレジスタンスと独裁政権軍との血生臭い殺戮が行われているので、オフェリアはとほほ、と参ってしまうのだ。
元々読書好きだった彼女は、厳しく辛い現実から目を背けるように、空想とファンタジーの世界へ足を踏み入れて行く。

オフェリアは、自分は黄泉の国のお姫様である、と角を持ったパンに告げられて大変驚く。
そしてパンは、お姫様で有ることを示すために、三つの試練をこなさなければいけないとオフェリアに教える。

第一の試練は蛙から鍵を取り返すことで、この試練は同時に女性である自分の発見になる。
蛙が棲み、寿命を吸っている木は、その形がまんま、子宮であり、オフェリアが本を開くと子宮の形に赤い染みが拡がるのもまた、初潮のイメージそのままだ。
これは、妊娠中で弱ってる自分の母親と、オフェリア自身の象徴ではないでしょうか。
で、木の成長(子宮の成長=母親の妊娠、オフェリアの第二次性徴)を枯らせているのが、醜く太り泥にまみれた蛙。
オフェリアは、蛙に「恥ずかしくないのかしら」と言いますが、それは恐らく、彼女が義父ヴィダルにずっと言いたかった言葉なのでは。
権力に太った化け物。

第二の試練は、怪物ペイルマンの元から短剣を持ち帰ること。
ペイルマンの食卓は豪華ですが、本人は目がなく、醜く弛んだ皮膚を晒しています。怖い。
で、ペイルマンの目というのは食卓の皿の上に乗っていて、見えてないんですね。見えるようになるのは、オフェリアが言いつけを破って食卓の食べ物に手を出してしまってからです。そこからペイルマンは手のひらに眼球を埋め込み、知覚出来るようになる。
つまり、ペイルマンは普段は何も見えていないが、自分の手で触れるようになったものだけ、ようやく見えると言う、視野も狭く鈍い、しかし残酷で容赦のない化け物であることがわかり、それは同時に、司祭を招いた食事会で、自分の好き勝手に話すヴィダルそのものだ。
周りの見えていないこの化け物は、妖精を頭から食ってしまう。

第三の試練。
オフェリアが、第二の試練の約束を破ったことに激怒したパンは、生まれたばかりの弟を連れ、彼を短剣で刺すように告げるが、オフェリアは拒否をする。
そして彼女は、弟を連れ出したことにより怒り狂ったヴィダルに殺されてしまうのだ。あーあ。

だが、それこそが第三の試練、自己犠牲、だったのだ。
オフェリアは目出度く、黄泉の国の姫として迎え入れられる。良かった良かった。

さて、本当に良かったのだろうか?
この映画は、酷く残酷な見方をしてしまえるように出来ていて、それは、
「黄泉の国もパンの妖精も全部何もかもオフェリアの空想で、ただ撃たれて死んだだけ」という物語で終わることも可能に作られているのだ。
で、まー、この映画を観た人の中では、あれは現実にはないのだ、とか、いや、オフェリアは黄泉の国で幸せに暮らすのだ、とか、色々な意見が交わせるようになっているのだけれど、個人的には、ファンタジーの世界はある、と思いたい。
そこでオフェリアは幸せに暮らしているのだ、と。

そうでなければ、国の混乱のせいで、空想や夢見る想像力すら奪われた、ヴィダルやメルセデス(オフェリアに妖精を見たことあるかと聞かれ、「昔はね」と答える)と同じになってしまう。
それはデルトロ監督にしてみれば、観客に対して「貴方は今どちらですか?」という問いかけに思えるのです。

それにしてもこのジャケットは詐欺だ!すごいハートフルなファンタジー映画にしか見えない!

#映画 #映画レビュー

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