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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』感想 ※ネタバレあり。

僕と契約したから魔法少女になったね! て映画。

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語を立川シネマシティで観てきました。

いやー面白かった。つらつらと感想などを書いていこうと思いますー。

ネタバレ全てしていますので未見の方はすみやかにお戻り下さいませ。

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魔法少女まどか☆マギカの存在を知ったのは放送開始のだいぶ前で、虚淵さんに自分の書いたお芝居を観に来てもらった後に喫茶店でお話させて頂いている時に「今度魔法少女をやるかもしれないんですよ」と聞いたのがファーストコンタクトだった。

あの虚淵さんが魔法少女を!

俺の中での虚淵さんのイメージは『続・殺戮のジャンゴ』を書いた人であり『鬼哭街』を書いた人であったので、これはもう、とんでもなく血と煙と陵辱に満ちた魔法少女物が出来上がるのだろうなあ、とワクワクしていた。

そこからだいぶ時間が経ち、当時住んでた大阪で深夜に『ひだまりスケッチ☆☆☆』見てたらCM第一弾がいきなり流れたように記憶している。

そこで蒼樹うめ先生がキャラクターをデザインし、シャフトが制作することも知った。

その時はその可愛らしくポップなCMの雰囲気に、「んーなるほど。こうきたかー」と思いながらも、「やっぱりエロゲーと違ってキツイことは出来ないだろうし、普通のアニメになっちゃうのも仕方ないか」と少々残念な気持ちにもなっていた。

だけれどきっと面白さは間違いないだろうし、さてどんなお話が出来るのかな、ととても楽しみにしていた。

ちなみに当時そのCMを見ていた関西の人の中で既にツイッターや実況板で『血だまりスケッチ』という単語はいくつかリアルタイムで出ていた。なんて上手いこと言うのだろう、と関心した。

そして始まったその作品はまあとんでもなく、『さよなら絶望先生』シリーズで度肝を抜いてくれた劇団イヌカレーによる空間描写も素晴らしく、「こいつはとんでもないものが始まったぞ」と驚きながらも、やっぱり想像していたよりもマイルドな戦闘描写やまどかやさやか、マミさんたちのキャッキャウフフに、「やっぱりいくら虚淵さんといえども、地上波アニメではこうなっちゃうよなー」とどこか『血だまりスケッチ』を期待していた俺には、CMを始めて見た時と同じ残念な気持ちが消えることはなかった。

それでもマミさんがマスケット銃を空間に一斉にズラリと並べそれを一斉射撃する、なんて戦闘シーンは今まで観たことがなかったし、そのかっこよさに驚いた。

なによりマスケット銃というチョイスが素晴らしい!

俺は『HELLSING』でもリップヴァーン・ウィンクル中尉が大好きなのだ。

虚淵さん自身もあんなに大量の銃が出てくるとは想像していなかったと言ってましたね。自分の中の絵では一丁だけだったみたい。

でもアニメ制作陣がもっと大量のマスケット銃を! とノリノリになった時点でこの作品は成功したも同然なのだ。

作り手がノリノリで「これは絶対面白いぞ!」と思いながら自分のアイデアを盛り込んでくる作品は愛されてるし大事にされてるわけだから、つまらないもので終わるはずはないのだ。

そして事件は3話で起こる。

マミさんの首がプッツリと食いちぎられてマミさん自身も丸呑みされちゃったのだ。

当時のツイッターと実況板はそれはもう凄いことになっていましたよ。

そしてその後、関東でも3話が放送された後、虚淵さんはツイッターでの態度をガラリと変えるという遊びをやってのけたのだった。

詳しくはこれ↓

http://togetter.com/li/97381

そこからのまどマギはもう物凄い速度で駆け抜けていって、途中放送延期などもあったけれど、一気に最終回まで視聴者の興奮を維持したまま突っ走った。

なによりツイッターや実況板などで「果たして今週こそまどかは魔法少女になるのか?」という話題で盛り上がったのだから凄い。

アニメをDVDや録画などでまとめてみるのももちろんいいけれど、やっぱり放送されてるものをその時リアルタイムにみんなで「目撃者」となる楽しみも得難いなあ、と思い出させてくれた。

で、最終回だ。

まどかがテレビアニメ最終回で下した決断というのは本当に想像もしていなかったし、また例えそれを誰かに提案されたとしても果たして自分は実行できるだろうか? と考えさせてくれつような素晴らしいラストだったし、「概念」となってしまったまどかこそが本当の「魔法少女」であり、放送のたびに「一体いつになったらまどかは魔法少女になるのか?」と楽しみにしていた視聴者の期待をガッチリと受け止めてなおかつ遠くリング外へ思い切り投げ飛ばしてくれたような素晴らしい物語の結末だった。

だから、このたび劇場版で[新編]が作られると聞いて驚いたのだ。

だってアレで終わってるじゃないか、完全に。

世の中で完璧な最終回が迎えられる作品というのはものすごく幸せなことだし、まどか☆マギカに至っては、あの最終回に異論や不満を唱えている人は殆どいなかった。いたとしてもその大半は「ぼくのだいすきなまどかまぎか」の域を出ていなかったように記憶しています。

ほむらの大好きなまどかに会えなくなってしまう、というのは確かに少しビターな感じがするしまどかの存在しない世界が出来上がる、というのも完全なハッピーエンドを求めるような人には少し受け入れがたかったのかもしれないけれど、そんなこと言ったらマミさんは首食いちぎられてんだぞ! 全然マシじゃないか。

それに、ほむらだけはまどかのことを覚えているのだ。

この先どこまで行ってもほむらとまどかはずっとふたりきりだ、と考えればこれはもう明らかにハッピーエンドじゃないですか。

ほむらはまどかが大好きで大好きで仕方なく、そのために何度だって世界をやり直してきたわけで、そんな彼女の心だけにまどかがいる、と考えればすごく幸せなことだと思ったのです。

なので、続きを作る必要はないじゃないか、と思ったのです。

蛇足、という単語が脳に浮かんだりもしました。

ああ、どうしよう不安だなあ、すっかり「売れる」コンテンツになってしまった作品が新たな物語を背負わされるなんて例はたくさんあるけれど、『インディ・ジョーンズ』だって『ターミネーター』だってどんどんと残念なコトになってしまったじゃないか。大丈夫かなあ。

と、思いながらも、それでも「初めてあのテレビでCMを観た時に浮かんだ不安を払拭してくれた製作陣じゃないか。それに、あんなに作り手に愛されてる作品が残念なコトになるはずがないよ」と自分に言い聞かせました。

同時に「『インディ・ジョーンズ』も『ターミネーター』も、2までは傑作じゃないか。3から様子がおかしくなっただけで。それに『エイリアン』なんか全作最高だ」とも強く自分に言い聞かせながら、その日が早く来てほしいような来てほしくないような、まんじりとした日々を過ごしたものでした。

で、ようやく劇場版の話になるのです。

これがもう、最高でございました。

ハッキリ言って鑑賞前に抱いていた俺のちっぽけな不安なんか、全て豪風で吹き飛ばしてくれるようなとんでもない傑作だったのです。

以上、感想終わり。

としても良いのですがいくらなんでもあまりにもタイトルと中身に差がありすぎるので中身について書きます。

映画が始まり、仲良く学園生活をするまどかたちの日常が描かれているのですが、何やら様子が少しづつおかしい。

まず、まどかがいるのがおかしいし、杏子が同じ学校に通ってるし、マミさんにも首がある。

そして担任の教師の言動が度を越しておかしい。話している内容も世界の滅亡だったり不穏だ。

もちろん早乙女和子先生のキャラクターとしてギャグを担当しているが故のセリフと動きなのだけど、画面構成や間の演出のせいでちっとも笑えず、なにやら恐ろしく感じる。

つまり、このあたりから段々とまどかたちのいる世界が普通では無いと分かり始めるのだ。

窓の外にありえない数の飛行船が飛び、背景のパースがおかしくなり、やがてまどか達以外の生徒の顔は靄で塗りつぶされてしまう。

ここからが劇団イヌカレーの本領発揮で、画面全体はどんどんとドラッギーなものになっていき、異変に気づいたほむらと杏子がバスに乗って橋をくぐって風見野へ訪れたあたりから完全に街の風景や背景に、普通のものは描写されなくなる。

つまりここでほむらたちと同時に観客にもここが「魔女の結界」の中だと分かる。

もちろん映画や映像において橋やトンネルをくぐる、という表現は新たな世界への突入を表してるので、それをきっかけに世界が全てイヌカレー空間へ変貌していく演出は実にみごとで感動してしまった。

その後、マミさんとのガン=カタ風バトルも、ものすごくカッコよかった。

マジカルマスケットがスタッフさんの愛によって産まれたように、3話で首を噛み千切られたマミさんがほむらと空間を縦横無尽に駆け回りながら容赦の無い殺し合いを始めた時など、もう一生これが続けばいいのに、とすら思ったほど。

『リベリオン』の時は「ガン=カタかっこいいだけで実戦では使えないよなあんなの」と思っていたけれど、魔法少女が次々とマジカル銃火器を繰り出せば全然実戦でも使えるんじゃん!と興奮した。まあ、魔法少女が実戦ってなんだよ、とも思ったけど。

と、まあここまでは、それまでの「ナイトメア」と戦いでの魔法少女5人による変身バンクの異常なカッコよさ、お茶会みたいなマジカルバナナも含めて、まさに「みんなの見たかったまどマギ」だった。劇場版を楽しみにしていたお客さんも満足するものだったのじゃないでしょうか。

少なくとも俺は満足したし、なんというか、マンガ祭り的なサービス満載の展開で劇場で見ながら「別にこのまま続いてもっと強いナイトメアが出てきてマミさんがやられてピンチになるけどみんなで頑張って倒してマジカルバナナして終わりでいいよ」と思ったけれど、あの製作陣がそんなことで終わるはずがないとも予感していた。

むしろ、もっとひどいことになって全員首噛み千切られて死んで終わり、観に来たやつ全員不幸になれー、みたいな終わりになるんじゃないかとビクビクしていた。

完全に新劇場版エヴァの悪い影響だ。よくないですよこういうの。

で、結局のところそんな事にはならずに、言うなればそれよりももっとひどい終りを迎えるのである、この話は。

それがいわゆるほむらの悪魔化であり、デビルほむほむ誕生という結末だ。

クライマックス前、キュゥべえが「真打ち登場」と言わんばかりの勿体ぶった登場をし、なんだかキュゥべえのくせにちょっとかっこいいじゃないか、とすらも思えてしまったのだが、その後この白い餅みたいな生き物が次々と、まあ長いセリフで延々とこの世界の秘密というか謎というか真相を語りつくすのだが、これがまったくもって勝手な言い分であり、あの素晴らしくも悲しい「願い」を決断したまどかの心を踏みにじるような鬼畜の所業であり、本当になんというか、「村のみんながようやく作り出した素晴らしい風習を、文明を持った異国人が勝手に解体してグチャグチャにして良いとこだけ自分の国に持って帰る」みたいな腹立たしい行為で、早くもうほんとこの白餅死ねよ、うっとうしいなあ。とうんざりするのである。

で、ほむらちゃんはやっぱりナンバーワン!ってわけで、ほむらは真の悪党である糞白餅インキュベーターをぶっ殺すために、真の悪党すらも超える悪魔になるのである。

この時、真の悪党なんて悪魔の前では小物にすぎないと溜飲が下がるのであった。あーすっきりした。

そしてほむらは自分自身が悪魔になることでまどかの存在する世界とさやかやマミさんや杏子が再びキャッキャウフフする世界を手に入れたのだ。

しかし、その中に自分はいない。なぜなら悪魔だから。そしてほむらの正体や彼女のした事は徐々にみんなの記憶からは消えていくのであるが、ほむらだけがそれを覚え続けている。

やがて彼女はまどかと再び出会うのだけれど、悪魔となった自分はもう二度とまどかと相入れなくなったことを知るのだ。

つまりこれで、正義と悪が産まれたわけだ。

正義と悪、神と悪魔は常に敵対する存在で、どちらが居なくなっても存在できない。

正義がいるから悪なのであり、神がいるから悪魔は存在できるのだ。

つまりほむらにしてみれば、テレビシリーズでまどかがしたことを、悪の側からやってのけたのであり、まどかを永遠に愛し続けるために悪になったその姿は凛々しすぎるし、『ダークナイト』におけるジョーカーのようにカッコ良く魅力的だ。

悪く言えばたちの悪いストーカーなんだけど、ほむらちゃんが可愛いから問題ないよね!

さて、映画の前半で五人が揃ってキャッキャウフフな世界は、観客の誰もが見たかった世界だし、映画のラストで描かれた再び皆がキャッキャウフフしてる世界は、文章で書くと同じものなのに、その中身はまるで違っている。

それでも「あの話の続きを作るっていうのはこういうことだからね!」と製作陣にハッキリと言われているような気がした。

俺はもうこの[新編]叛逆の物語に本当に満足だし、素晴らしい物が観られてよかったと思っている。

そして続編や完結編を作って欲しいという声ももちろんあると思うけれど、俺は全くそうは思いません。

神と悪魔が生まれた物語の続きは、作る必要が本当にないと思うのです。

それやっても、『デビルマン』と同じになるだけだし、『聖書』にもたくさん書かれているから。

おしまい!

(この記事は2013年のメルマガ用に書かれたものです。)

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