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『ベティ・サイズモア』 感想

自分をドラマの登場人物だと思い込んだ若い主婦が、ハリウッドへ行ってドタバタする映画。

とても面白かった。

クズの旦那が殺し屋に頭の皮を剥がれて殺されるのを目の当たりにした若い主婦、ベティは頭のスイッチがパツン、と切れてしまい、代わりに入ったスイッチは、毎日観ている昼メロドラマ『愛のすべて』の登場人物になる、というもの。

ブラウン管の向こう、恋い焦がれた病院ドラマの主人公の許嫁だと思い込んだベティは、車を飛ばしてハリウッドへ向かう。

看護師でもないのに病院に乗り込んで勝手に治療して血塗れになったり大暴れ。

そしてそんなベティの乗る車のトランクにはクズ旦那が隠した麻薬があり、それを奪還するために殺し屋の親子が後を追う……

コメディ映画であるし、まさにその通りなのだが、観てみると「なんだこの映画は⁉︎」という問いが治らない。
「こりゃ確かにコメディ映画だね」とは、思えないくらい変な映画なのだ。

そもそも冒頭のクズ旦那殺害シーンからして既に残酷すぎてホラー映画みたいだし、狂ったベティが偶然患者の命を救うシーンだって血糊の量が多すぎてクラクラする。

そもそも、旦那が頭の皮を剥がれて殺される、という現場を見た主婦が狂うならまだしも、それが、自分は昼ドラのヒロインだと思い込む、て設定が力技じゃないですか。

そりゃ、クズ旦那の元で生きていたら、現実は辛い。こんな結婚生活は嫌だ嫌だ。で、昼ドラのヒロインに憧れる。そこまでは理解できますよ。でも、自分がヒロインだと思い込む、てのは二つくらいハードル飛び越えてませんかね。

でもそこは、レネーさんの持ち前のキュートさと可愛い声と演技力で、無理矢理観客を説得させてしまう。

この、無理矢理説得させる力、というものが実に綺麗に決まっていて、そここそがこの映画の持つ魅力となっているのだ。

つまりこれは、役者の力を信じ、そこを最大限に引き出す演出力、そしてそれを観客に信じ込ませる実力を発揮し、そしてそれを見事に成功させたからこそ成り立った、真に素晴らしい作品であるわけです。

最近の邦画に足りないものが全部詰まっているよ。

知名度だけで演技力のない役者と、クレームを恐れるがあまり飛躍を削られた脚本と、スポンサーやクライアント、事務所の意見を全て取り入れた結果、個人の力が全く出せずに、這々の体でエンドマークを貼り付けた監督。

こういう作品が撮りたければインディーズで勝手にやって上映館も全国で2、とかでやれば? と言わんばかりの現在のシネコンシステム。

面白くて血の通った作品には、それだけの理由がある。それは金なんかではない、ということが、劇中の昼ドラの撮影システムにキチンと反映されていて、そうこなくちゃ! と、快哉をあげたくなります。
つくづくよく練られた脚本だと思う。

そしてラスト、ベティは今現在、役者として成功している。
て嘘の字幕が出ることで、え? これって実話? みたいな騒動が起きるところまで含めて、現実と虚構、偽物と本物、血の通ってない作品と血の通っている作品。そのボーダーを崩しにかかってる確信犯的な脚本にニヤリとするのです。
実話なわけねーだろ!

そしてそこで観客は、ハッと気づかされるのです。

ベティの物語が進むきっかけは、常に現実の血であったことを。

旦那の頭皮剥離殺人事件の時みた血。
自分が患者を助けた時頭から浴びた血。

偽物ではなく、本物の血に触れた時、ベティの虚構と現実はクロスするのです。
だから、本物の血を浴びているベティが、偽物の血しか知らないドラマの人々に絶賛され、受け入れられるのは当たり前だったのだ!

とんでもない設定と突然噴き出す大量の血糊にびっくりしつつも、それでもレネー・ゼルウィガーのキラキラした演技に全部持っていかれます。
とにかくレネー演じるベティが素晴らしい。

そして、ドラマの登場人物だと思い込んだベティの、頭のスイッチが再び切り替わる瞬間の残酷さは、観た人の心を掴んで離さない。

#映画 #映画レビュー

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