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自分を知る

 『自分を知るのはとても大切』などと言っても漠然としていてイマイチ伝わらないことが多いように思う。実際に誰かと接しているとそんな感触がある。

最近では、「こんなめんどくさい事したがる人少ない」とも思うようになってきました。

 自分を知るのは正直めんどくさい。『自分という人間』が『めんどくさい人間』だからなのかもしれません(笑)。無意識のうちに「自分の事なら自分が一番良く分っている」という自覚をしているのもある。だから、自分を知るなんて言ってみても伝わらないのだと思う。でも、大切。そして、ほとんどの人は自分の事をよく分かってはいないように感じます。


全ての権限を自分に
 自分の生命の全権限を全て自分に戻す。全ての選択権と決定権は自分にある。…当然だけれど、それらにかかってくる『全ての責任』も自分が全て背負うことになる。そのような自覚と意識の芽生えの先に、自分を知ることの重要性が出てきます。

 自分の『選択と決定』、自分の『行ない』や自分の『言葉』が自分の未来を創り上げていく。そのように考えれば、自分の全ての行為を大切にせざるを得なくなります。当然そこまでのものを背負っているので、『行ないの全て』が自分に返ってきます。

…例えば…
汚い言葉を日頃から使っていたとします。ひどい言葉にはそれ相応の反応が、言葉を掛けた全ての人から返ってくるし、言葉をかけた全ての人に『そういう人』と評価されて、やはりそれ相応の扱いを受けることになる。繰り返されるその『扱い』に不満があるようならば、どのような言葉を使うべきなのか、どのように人に話しかけるべきなのか、を考えて選ばなければいけません。

『どのような扱いを受けたいですか??
 言葉を選ぶのと、今の扱いに甘んじるのと、どちらを選びますか?』
いつも二択が突きつけられていて、私達はそのどちらかを選ぶことになる。自覚があろうとなかろうと…。ここに『自分を知る』の大切さが凝縮されています。

『どちらが自分の好みか?』は、自分を知っていないと出せない答えです。どうしても手放したくない方を選ぶだけのこと、なんだけれど…責任から逃げたい人は選べません。選んでしまうと『自分で決めた』という責任がついて回って、『自分で』行動を起こさなくてはいけなくなる。だから『誰かが決めてくれた事』の方が楽といえば楽なのかもしれません。自分で考えて決めてしまうと、誰かにエスコートしてもらえなくなる。もしかしたら、身の回りの事をしてもらえていた『子供の頃』のように扱われたいだけなのかもしれない…そんな事もあるのかもしれないなぁ…と思いました。これもまた、自分がそうたち振る舞うと決めた事。
意識的であれ無意識下であれ、二択の結果は現実となって自分に突きつけられます。

 いちいち毎回、自分で決めるのはめんどくさいです。でも、自分の好みで選べるというのは魅力です。『自分で決めない』を選ぶと、『耐え忍ぶだけ』という事がより多くなってしまう。『どうしてそんな言い方しちゃうかな…』という事を平気で言う人がいるけれど、そういう人は皆、ギスギスした人間関係の中でイラつきながら生きてる。それを見ていていつも思うのです。
…それがあなたの望みだったのか…?と。

 『自分の好みを知らない・選ばない』というのはそう言う事です。もし何も思わず、何も考えない内に選んでしまっている事が、目の前の望みもしない現実を作り出しているのだとしたら、それは本当に残念なこと。望まぬ現実を生きて耐え忍ぶだけの人生を送るくらいなら、少々面倒でも『自分を知る』に越したことはない…私にはそのように思えてならないのです。

自分を知る
自分の事をもっと知って
その上で生きていく。
これほど大切なことはそうそうない。

とは思うのですが、
やっぱり、ちょっと、
めんどくさくなかなか難しい。

それも含めて
『自分を知る』のは大切。

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