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えずこ まほろば|「社会機関」としての文化施設の「20年」に触れる

何も知らなかった。2017年3月4日に訪れた「えずこせいじん祝賀会」で真っ先に思ったことだった。館長(当時)の水戸雅彦さんとは震災後にArt Support Tohoku-Tokyoを契機に出会い、2016年にはインタビュー集『6年目の風景をきく』で、じっくりと話を伺った。

「社会機関」としての文化施設。えずこホールは、この思想を体現した稀有な場所だと知っているつもりだった。だが、祝賀会に一歩足を踏み入れた瞬間に初めて、えずこホールの真価に触れたのだと思った。その出会いに興奮し、熱に浮かされるようにFacebookに次のような書き込みをした。

1日目。もう、すごすぎて、へろへろ。文化施設で働く、もしくは創造とか参加とか地域とか言う現場にいるなら、全員来たほうがいい。舞台上の誰もが表現のよろこびに溢れている。観客も居方/楽しみ方を知っていて、アーティストも理解しているから本気でふざけている。祭りや芸能の場に親密さは似ているけれど、外から来ても居れる=開かれているのは「ホール」という装置がなせるものなのだろうか。終始、個々のプログラムというより「えずこホール」と、その20年を見ていたような気がする。
2日目。プログラムはホールという空間も予定もはみでている。グランドフィナーレの出演者も舞台上から溢れていた。スタッフは、それを当然のように動いている。誰もが自分の場所としてホールを「使っている」。アーティストは「遊び場」、住民は生きるために不可欠な場だという。もし、自分が住む場所にあったら長生きできそう。すべての良さは理想的な文化施設として数十年の間に語られてきた言葉で説明可能かもしれない。けど、こういう実感をできる場所を他には知らない。

まほろばとは古語で「素晴らしい、住みやすい場所」を意味する。祝賀会の居心地の良さと(妬ましいほどに)充実した経験は、この言葉を想起させた。住民、アーティスト、スタッフが各自の役割を持ち、それを超えて交じり合う。20年の無数の実践の連鎖が、えずこホールという場所を育んだのだろう。祝賀会の規模でなくともいい。30周年を待たず、あの風景に再び触れる機会が欲しい。そう思うのは欲張り過ぎだろうか。

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『えずこせいじん』(えずこ芸術のまち創造実行委員会、2019年)に寄稿したもの。タイトル、本文の一部加筆と写真等を追加。

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