贅沢な世界
序章
練習が始まるまで僅かな時間しか無い。
今日この練習場を使う者は既に着替えを終えている時間であるので、男子更衣室の中からは人の姿が無くなっている。ユーリ・プリセツキーがいつもこの時間にならなければ着替えをしないのは、着替えている姿を他の選手に見られたく無いからだ。
更衣室の中に入り、中に誰も入る事ができないように内側から鍵を掛ける。
扉に背中を向けると、ユーリは髪と同じ白金の睫に縁取られた翡翠色の瞳を、更衣室の中に並んでいるロッカーに向ける。自分の名前が書いてあるシールが貼っているロッカーを目で捉えると、入り口を離れロッカーまで行く。
扉を開け、荷物が入っている鞄を中に乱暴に入れる。
練習に遅れると、コーチであるヤコフ・フェルツマンからこっぴどく叱られる事になる。
頭に血が上りやすい性格をヤコフはしているので、頻繁に怒鳴られていた。出会ったばかりの頃のようにたじろぐような事は無くなっているが、それでも怒られたくなどない。
上に着ている瑠璃色のパーカーを脱ぎ、それも長年使っているロッカーの中に入れる。
今使っているロッカーは、故郷であるモスクワからここサンクトペテルブルクにやって来たばかりの頃から使っている。既に六年ほど使っているので、愛着が沸いていた。
黒いスキニーパンツも脱ぎロッカーに入れる。
鍵を掛けているので誰も中に入って来る事はできないという事は分かっていても、それでも不安から自然と素早く着替えてしまう。私服から黒い練習着に着替えると、ユーリはスケート靴を履く為に木製のロングベンチに向かう。その途中、朝からずっとしていた腹痛が急に酷くなった。
歩く事ができないほど下腹部の痛みは酷いものであったので、足を止め痛みを紛らわせようと拳を握りしめる。痛みから息をする事すらできずにいると、痛みが先程までよりも薄れた。しかし、完全に無くなる事は無かった。
この痛みが完全に無くなるまであと五日ほど掛かる。
「……クソ」
この痛みをまだ何十年も毎月経験しなくてはいけないのだと思うと、憂鬱になる。そして、皆が思っている通り自分が男であれば良かったのにという事をユーリは思った。
腹痛の原因は月に一度ある生理だ。
高飛車で我が儘な印象を相手に与えてしまうつり上がった短い眉。まなじりのきつい双眸。情の薄そうな薄い唇。長躯の者が多いロシア人の中では小柄な体。長い手足に、痩せすぎであると言われる事が多い痩身。
そんな外見は、妖精のようであると共に少女と見紛うような美貌であると評される事が多い。確かに中性的な外見をしているのだろうが、皆が思っているのとは反対である。実際は、女にも見える男では無く男に見える女だ。
ユーリは再びベンチに向かって歩き出す。ベンチまで行くと、腰を下ろしスケート靴を履く。
生理の最中は普段よりも動きが鈍くなってしまうので、思うように体を動かすことができない場合が多い。しかし、女であるという事を隠しているので、それを理由にする事はできない。痛みに耐えて普段通りの練習をしなくてはいけない。
ユーリは練習に向かう覚悟を決め、ベンチから立ち上がりロッカーに戻る。中からスポーツドリンクの入ったスクイズボトルを取り出すと、鍵を掛けて更衣室を離れた。
一章 金魚草
(クソ……痛み止め飲んだってのに。全く効きやがらねえ)
生理中は毎朝痛み止めを飲んでいる。今朝もそれを飲むと飲む前よりも痛みがひいた。しかし、時間が経過する事によって効果が切れてしまったのだろう。練習が終わる少し前、顔を顰めてしまうほど再び痛みが酷くなった。
平静を装う事ができないほどの痛みであったので、ヤコフに体調が悪いのでは無いかと声を掛けられた。本当の事を告げる事ができないので誤魔化し、最後まで練習を終わらせてから再び痛み止めを飲んだ。
着替えをしている間に痛みが沈静化するかもしれないと期待していたのだが、着替えを終えて更衣室を出た今もまだ激しい痛みがしたままだ。
男という事になっているので、生理の事を話す相手がいない。それ故に、皆生理の最中は意識が朦朧とするほどの腹痛がしているのだと思っていた。しかし、そうでは無いのだという事を同門の選手であるミラ・バビチェヴァの発言により知った。
ミラは生理の最中に腹痛がしないそうだ。妬んでも己の痛みが薄れる事は無いという事は分かっていても、それでもそんなミラを羨ましく思ってしまう。
(電車まで歩くの怠いな)
練習場があるのは、暮らしている集合住宅から電車で十分ほどかかる場所だ。免許を取る事ができる年齢では無いので、ここまで毎日電車でやって来ている。そして、そこからここまでは徒歩で来ている。勿論帰りも駅まで徒歩だ。
普段ならば音楽を聞きながら歩いているうちに着く距離なのだが、生理中である今は途方もない距離に感じる。だからといって、タクシーで駅まで行くつもりは無い。
毎月スケート連盟から貰っている給与は、この低所得のロシアでは家族を養う事ができる程に高額だ。それに加えて大会で入賞をした際、生家が貧しいユーリにとっては多額の賞金を貰っている。
まだ学校に通っている同じ年頃の者が得る事ができないような収入があるが、それを蕩尽するような真似はしていない。
「ん……っ」
急に下腹部に鈍器でそこを殴られたかのような鈍痛がした。歩く事ができなくなり立ち止まり、腹部を押さえながら前屈みになる。
額に脂汗が滲んでいるのを感じる。痛みが強すぎてまともに息をする事ができない。どうすればこの痛みから解放されるだろうか。
「ユーリ。こんなところで何してるんだ?」
焦燥感に駆られながら痛みに耐えていたので、側に人がやって来ていた事に声を掛けられるまで気が付く事ができなかった。
「うるさい」
今は相手をしている余裕は無い。これ以上話しかけて欲しくなくて、声を掛けて来た相手に乱暴な事を言った。
相手が誰であるのかという事を確認せずに言ったので、言った後に漸く誰なのかという事を知った。声を掛けて来たのは、ヤコフの弟子では無いリンクメイトである。その後ろにいるもう一人の男もそうだ。
同じリンクを使っている者が全員ヤコフの弟子では無い。他のコーチに師事している者もいる。そんな二人は、ユーリと同じ十六歳であるがまだジュニアの選手だ。
シニアには十五歳になれば上がる事ができるのだが、皆がユーリと同じように十五歳になると同時にシニアに上がる訳では無い。十八歳になるまでの間に上がれば良いので、二人のようにまだジュニアの選手もいる。
「顔色悪いな」
「かまうな」
苛立ちながら言ったのは、これ以上相手をしたく無かったからだけでは無い。心配をしているような事を言っているが、表情や口調からそうでは無いのだという事が分かっていたからという理由もある。揶揄う為に声を掛けて来たのだろう。
この男からそれが目的で声を掛けられたのはこれが初めてでは無い。時折それが目的で声を掛けられている。その理由が、ユーリの方がスケートの技術が高く成績が良い事を妬んでいるからだという事は分かっていた。
ユーリよりも下手なのは才能が無いからだ。才能が無いのならば、それを補う事ができるように練習をすれば良いのだ。しかし、それをせず彼は己よりも上手い相手に嫉妬していた。
そんな男を軽蔑せずにはいられない。
「さすが金メダリスト様は態度がでかいな」
同意を求めるようにして、男は横に並んだもう一人の男に視線を遣った。その通りであるというようにして、その男が首を縦に振った事により苛立ちが強くなる。
「お前らに構ってる暇はねえんだよ。んなにメダルが羨ましいんだったら、お前らもメダル取れるぐらい努力すれば良いだけだろ。それでも取れねえんだったら、才能がねえってことなんだよ」
今まで思っていても言わずにいた事をユーリが告げたのは、痛みによって感情を抑制する事ができなくなっていたからだ。
そんな事を言われるとは二人とも思っていなかったのだろう。意表を突かれたという様子になった後、二人とも怒りによって顔を歪めた。
それを見ても、ユーリは言い過ぎてしまったと思う事は無かった。本当の事を言っただけであると思っていたからだ。
「クソっ、言ってくれるぜ。前からそのクソ腹立つ態度が気に入らなかったんだよ。そんなんだから、ダチの一人もできなくてずっと一人なんだよっ!」
「ダチぐらい俺にだっている。お前らみてえなクズなんかと連む気がねえだけだよ」
男たちが思っているように、長年友達と呼べる相手がいなかった。しかし、昨年のグランプリファイナルで初めて友達ができた。
ユーリに友達がいる事を男たちが知らないのは、頻繁に連絡を取っているが他国の選手であるので滅多に会う事ができないからだ。
「お前みてえな性格が悪い奴に友達?」
男は馬鹿にしたようにして言った。友達がいるというユーリの言葉を男は信じていないようだ。嘘なのだと思われた事により、不愉快な気分へとなった。
「ちゃんといる!」
「へー誰だよ」
「カザフのオタベックだよ」
わざわざ質問に答えたのは、嘘だと思われたままでいたくなかったからだ。見栄を張ったのだと思われているのは、屈辱的な事である。
「ああ。あの」
言いながら隣へとやって来た男に腕を掴まれる。
何故腕を掴んでいるのだ。そう思い手を離そうと体を揺らすと、もう片方の腕を別の男に掴まれる。ユーリは二人の男の間に挟まる格好へとなった。
「何すんだよ。ちょっ!」
ユーリの質問に答えようとせず、左右に立っている男が歩き出した。腕を掴んだまま二人が歩き出した事により、その場を離れたくないのだが歩くしかなかった。
「何処行くんだよっ!」
地面を踏みしめて抵抗したいのだが、腹部の痛みによって体に力を入れる事ができずそれをする事ができない。
「離せ! 離せよ」
大声を出すと腹部に力を入れる事になる。今はそれすらも辛かったのだが、黙っている事はできなかった。
「煩い。大人しく付いて来い」
聞こえて来た声は、背筋が冷たくなってしまうような怒気を孕んだものであった。
先程までとは違う声を聞き、瞠目【どうもく】しながら男を見る。男の顔は獰猛な肉食獣のようなものであった。驚きと戸惑いからそれ以上何も言えずにいるうちに、トイレの中へと連れて行かれた。
他に利用している者がいないトイレの個室の前まで連れて行かれ、その中へと放り込まれる。勢いよく中に入ることになってしまった事により、奥にある便器に両手を着くことになった。
狭い場所であるので、蓋をしている便器に腰を下ろして体を反転させる。
「何すんだっ!」
「何って、なあ?」
返事をした男は、横に立っている男と顔を見合わせた。その男だけで無くもう一人の男も、薄気味の悪い不快になるような笑みを浮かべていた。
このままここにいては危険であるという事を本能が警告している。
「おっと。逃げるんじゃねえよ」
便器から腰を上げ個室から出ようとしたのだが、男に入り口を塞がれてしまい出る事ができない。
「邪魔だ、退け」
威嚇しながら言ったのだが、男は緩んだ顔をしたままであった。
小柄で細身であるのだが目つきが悪いので、凄むとあらかたの相手は怯む。その為、相手が平然とした態度のままである事に狼狽えてしまう。このままでは駄目だという事に気が付き、ユーリは男に強い眼差しを向ける。
「んな顔してもどうせ何もできねえだろ? まあ、何かして来てもそんなひょろひょろの腕じゃあ痛くなんかねえよ」
腕を掴んだ男がそのまま前に進み始めた事により、背後に下がる事になった。
「止めろっ。何すんだよ。離せ」
手を離そうと腕と共に体を揺らすと、腹痛が強くなり胃の辺りまで痛みが広がっていった。
息をするのすらも辛くなり、体を動かし続ける事ができない。表情を曇らせて苦痛に耐えていると、足に便器が当たる。これ以上背後に下がる事ができないというのに、男は前に進むのを止めようとしなかった。
後ろに下がる事ができないので便器に腰を下ろすと、漸く男が近づいて来るのを止めた。しかし、安堵する事などできない状況である。良くない事を考えている事が明らかな男と、逃げ場の無いここにこのままいては危険である。
手を離そうと再び腕を振ると、今度はあっさりと手が離れた。驚いていると男に前から抱きつかれた。
「なっ……! 止めろっ!」
突然の事に一瞬は唖然としてしまったのだが、直ぐに嫌悪感が湧き上がりユーリは男を己から離そうとした。
親しい人間以外に触られるのは苦手である。普通に接触されるのでも嫌だというのに、全身で密着され嫌悪感から身の毛がよだつような気持ちへとなった。
まるで水中で溺れているかのように藻掻いたのだが、男は離れようとしなかった。更に男は上半身を服の上からまさぐり始めた。
「やだっ! やめろっ!」
服の上からでは膨らんでいる事が分からない程度の大きさしか胸が無い。その為今まで女であるという事に気が付かれずに済んだが、服の上からでもそこを触られれば気が付かれる可能性がある。
女であるという事を黙っていて欲しいと懇願しても、ユーリの事を快く思っていない男がそれを聞き入れるとは思えない。
スケート連盟に今まで瞞着【まんちゃく】していた事を知られると、スケートを続ける事ができなくなり、家族が生活をする事ができなくなってしまう。
ユーリが得た金を消尽【しょうじん】するような真似をせずにいるのは、その殆どを家族に送金しているからだ。大黒柱であるユーリが金を稼ぐ事ができなくなれば、家族が食べていけなくなる。
「やめろ! 止めろ!」
焦慮から痛みが和らいだように感じる。否、実際には先程までと変わっていないのだが、それを感じている余裕が無くなっているだけなのだろう。それでも先程までよりも動く事ができるようになったので、男を体から離そうと暴れ狂う。
「大人しくしろ!」
舌打ちが聞こえて来たと思うと、罵声と共に男に腕を掴まれた。
一瞬は怯んでしまい抵抗するのを止めたのだが、男が上着の中に手を入れようとしたのでこのままでは駄目だと思い暴れた。服の上からならば気が付かれない可能性もあるが、下着の上から触られれば気が付かれない筈が無い。
「やめっ……止めろ!」
大声を出しているというのに誰も助けに来ないのは、皆が着替えを終えた後で着替えたので、既に建物の中から殆どの者がいなくなっているからなのだろう。それでも、偶然残っていた者の耳に声が届く可能性がある。まだ諦めるつもりは無い。
「止めろ!」
「煩い! 黙れっ!」
「――んっ」
咆哮【ほうこう】するようにして男から怒鳴りつけられると共に、口を手で塞がれた。その際、男の手が大きかったからだけで無く顔が小さいので、鼻まで塞がれる事になった。
「ふっ……んぅ……ん……」
「大人しくしてりゃあ優しくしてやるよ」
弱った獲物を目の前にしている狩人のような顔で男が笑った事により、戦慄が心に波打った。男がこれから自分をどうしようとしているのかという事をユーリは把握した。凌辱するつもりなのだ。
抵抗しなければ穢されてしまう事になる。それは分かっているのだが、今まで経験した事が無いような恐怖が体を縛り付けており動く事ができない。
息を飲んでいると、先程までよりも腹痛が強くなったような気がする。否、気のせいではないようだ。脂汗が額に滲むような痛みによって、背中を伸ばしている事ができなくなり前のめりになる。それと同時に、顔を塞いでいた手が離れる。
「ははっ。最初からそうやって大人しくしてりゃあ良いんだよ」
「やめろ……」
男が再び上着を捲ろうとしていたのだが、弱々しい声でしか刃向かう事ができない。それを男が聞き入れる筈など無く、手が止まる事は無かった。
服から手を離した男の手が中にするりと入って来る。
薄い下着の上から肌に触れていた手が、胸に触れる。
「えっ……」
胸を掴んだまま男が狼狽した声を出した事により、女だという事に気が付いたのだという事が分かった。
「どうした?」
個室の入り口で、余興でも見ているかのような態度でにやにやとした気持ちの悪い笑みを浮かべていた男が、中にいる男に声を掛けた。様子がおかしい事から、何かあったのだという事に気が付いたようだ。
このままでは、もう一人の男にまで女であるという事を知られてしまう。何か言わなくてはいけないと思ったのだが、頭が混乱しており何を言って良いのか分からない。
「……胸がある」
「そりゃ、胸はあんだろ」
もう一人の男は、どういう意味であるのかという事が分かっていないようだ。
「そうじゃなくて、こいつ女だった。マジかよ」
「ちが……」
否定しなくてはいけないと思い、痛みに耐えて声を出そうとしたのだが、最後まで言い切る事ができなかった。ユーリのそんな声を気にせず、二人は会話を続ける。
「はあ? 確かに女みてえな見た目してっけど、男だろ。だって、男子選手だし」
「そうなんだけど、胸があんだよ」
「やめっ」
服の中から手を引き抜いた男が足の間を触ろうとしているのだという事に気が付き、ユーリはそんな場所を触られてしまわないように体を動かそうとした。しかし、俊敏に体を動かす事ができなかった為、男に下肢の中心を撫でられた。
「……っ!」
今まで他人に触られる事を想像した事も無い場所を触られ、嫌悪感がするだけで無く恐怖を感じた。
「ねえ」
「マジかよ。あのユーリ・プリセツキーが女だったとはな」
信じ難いような事であるというようにして、もう一人の男は言った。
「違う」
否定したのだが、この状況でそんな事を言っても二人がその言葉を信じる筈が無かった。二人はユーリの言葉を、歯牙にもかけていなかった。
「ははっ。面白くなって来た」
先程秘めた部分をズボンの上から触った手を見詰めたまま、男は笑った。不愉快な笑みを浮かべた男が悪い事を考えているとしか思えず、ユーリは身構える。
「黙ってて欲しかったら、俺たちの言う通りにしろ。女だって知られたら困るだろ? もうスケートができなくなんだから」
「そうだな。何して貰おうかな。とりあえず、俺たちを楽しませて貰おうか」
もう一人の男も薄気味の悪い笑みを浮かべて同調した。
みなまで言わなかったが、二人が何を求めているのかという事をこの状況から察する事は容易い事である。大人しく蹂躙されろという事なのだろう。それを想像するだけで、激しい厭わしさがした。
女であるという事を吹聴するような真似をされると困るのだが、大人しく従う事などできない。息を詰めたまま首を左右に振ったのだが、男たちの瞳に浮かんだ劣情が消え去る事は無かった。
体が凍えてしまうような恐怖を感じていると、服の中から出ていっていた男の手が再び伸びて来る。
「やめろっ……やめ……っ」
男が上着を脱がし始めたので声を荒げると、意識が薄れてしまいそうになる程の痛みが腹部にした。
眉根を寄せて痛みに耐えている状況では、大した抵抗などする事ができない。上着を脱がされてしまった事により、その下に着ている下着一枚という格好へとなった。
「確かにちょっと胸あんな」
「本当。よく今まで誰も気が付かなかったよな」
男たちの視線が慎ましやかな膨らみしか無い胸に向かっている事に気が付き、そこをこれ以上見られたく無くて腕で隠す。それでも、下卑た笑みを浮かべた男たちの視線は胸に向かったままになっていた。
「恥ずかしがるなって。直ぐにもっと触って欲しいって言いたくなるようにしてやるからさ」
何をされてもそんな風になるという事は絶対に無いと言いきる事ができる。それを言葉にする事ができないので、代わりに首を左右に振る。
ユーリの否定を全く男たちは信じていないのだろう。嘲るような笑い声が聞こえて来た。
今まで才能だけで足りなかった事も、努力でどうにかして来た。こんな風に、どうする事もできない局面に立ったのは初めての事である。
「そこで何してるの?」
心が慄然としていると、同門の選手であるヴィクトル・ニキフォロフの声が聞こえて来た。
個室の中にいるので、外にいるヴィクトルの姿を見る事はできない。それでもヴィクトルの声であるのだという事が瞬時に分かったのは、聞き間違える事が無いような特徴のある声をしているからだ。
「やべ……」
「そこで何してるのかって聞いてるんだけど?」
男たちが質問に答えなかった事によって、再度ヴィクトルの声が聞こえて来た。その声は普段のものよりも鋭いものである。
何か起きているのだという事が分かっているのだろう。叫び声を聞きここに来たのかもしれない。
「逃げるか?」
「それしかねえだろ」
ヴィクトルはスケーターならば誰もが憧れるような選手である。そんなヴィクトルの不興を買うような事をしない方が良いと、男たちは思ったのだろう。
入り口に立っている男が個室から離れると、側にいた男が個室を出て行く。
足音と扉の閉まる音から、二人がトイレの中から出て行ったのだという事が分かった。
「大丈夫?」
続いて聞こえて来た足音とそんな声から、ヴィクトルこちらにやって来ているのだという事が分かった。
ヴィクトルがやって来てしまう前に、脱がされた上着を元通りにしなくてはいけない。
先程までここにいた男は、個室を出て行く際に脱がした上着を床に落としていっている。手を伸ばした事によって、便器に座ったままでは手が届かないのだという事を知った。そんな事にも気が付く事ができなかったのは、痛みによって頭の働きが鈍くなっていたからだ。
体を上着で隠さなくてはいけないという事は分かっているのだが、体が鉄塊【てっかい】と化しており便座から離れる事ができない。
「ユーリ!」
ヴィクトルが個室の前までやって来てしまった。中にいるのがユーリであるのだという事を知り、ヴィクトルは我が目を疑うような様子へとなっていた。
ヴィクトルがこんな風に狼狽している姿を見るのは、初めての事かもしれない。今はそれを見て、それ以上の事を思う余裕は無かった。
「大丈夫?」
個室の中へと入って来たヴィクトルは、側までやって来ると腰を屈めて顔を覗き込んで来た。
今はまだ気が付いてないようであるが、これ以上側にいられると女であるという事を気が付かれてしまう事になる。早く出て行ってもらわなければいけないと思いながら、ユーリは首を縦に振る。
「大丈夫って顔色じゃないけど」
「ほんと……だいじょうぶだから……」
鈍器で殴られているような痛みが下腹部にしているので喋りたく無かったのだが、それを状況が許してくれなかった。
何事も無いかのような素振りで話そうとしたのだが、自分でも苦しそうであると思う言い方でしか告げる事ができなかった。それを聞いて、大丈夫なのだとヴィクトルが思う筈が無い。
「大丈夫じゃないよね。今直ぐ誰か呼んでくるから」
「だめ」
短い言葉しか喋る事ができず、小さな子供のような言い方になってしまった。拒否した事だけで無く、それも原因なのだろう。ヴィクトルが怪訝な顔をへとなる。
「駄目? 何で」
何故なのかという事を言わなければ、ヴィクトルは応援を呼びに行くのをやめるつもりは無いようだ。
人を呼んで欲しくないのは、これ以上騒ぎを大きくしたくないからだ。そんな事をされると、女であるという事を更に知られてしまう事になるかもしれない。しかし、本当の事など言う事ができる筈が無い。
ヴィクトルを納得させる事ができる嘘を吐かなくてはいけないのだが、思うように頭が動かず何も浮かばない。焦りが強くなっていく。
「どうかしたのか?」
押し黙っていると、トイレの入り口の方から更に人の声が聞こえて来た。声に聞き覚えは無いのだが、ここにいるという事はリンクメイトなのだろう。
大声を出しても誰も助けに来なかったので、建物の中にはもう他の人間はいなくなっているのだと思っていた。しかし、そうでは無かったようだ。偶然声が届かなかっただけであるようだ。
助けて欲しかった先程は誰も来なかったというのに、来て欲しくない今何故来るのだと思わずにはいられない。
「ユーリが襲われたみたいだ」
「何だって! 直ぐに誰か呼んで来る」
ヴィクトルの返事を聞き、トイレの中に入って来ているリンクメイトが焦ったようにして言った。
「だめだ」
「大丈夫だよ、ユーリ」
ヴィクトルはユーリを落ち着かせるようにして言った。
波風を立てるような真似をすれば、先程の男たちに復讐されてしまうと心配しているのだと思われたのかもしれない。そうでは無いと言おうとした時、目の前が霞むほどの痛みがした。
「ん……はっ……」
今ユーリを襲っているのは、意識を保っている事すらもできなくなってしまうような痛みである。手の平に強く爪を立てる事によって意識を保とうとしたのだが、帳が下りるようにして意識がそこで途絶えてしまった。
瞼を開く事によって見えたのは、トラバーチン模様の白い天井である。
天井の模様は、病院の中で見かける事が多いものである。その事からだけで無く、狭い部屋の中にある器具。そして、部屋に漂っている独特の匂いからも、ここが病院であるように感じる。
何故そんな所にいるのかという事が分からず不思議に思っていると、ユーリは腹部の痛みが小さくなっている事に気が付いた。何故急に痛みが薄れたのかという事を不思議に思うと共に、激しい痛みから解放された事に安堵した。
(あ、もしかしてこれに痛み止め入ってんのかも)
腕に小さな痛みと違和感がある事から気が付いた存在である点滴に、ユーリは視線を遣る。液体が入った透明なパックにある文字を見たのだが、中身が痛み止めであるのかどうかという事はそれを見ても分からなかった。
中身が今にも無くなりそうになっている事から、意識を失ってから直ぐに目を覚ましたのでは無いのだという事が分かった。パックを見詰めていると、意識を失ってしまう迄の事を思い出した。
(バレてねえよな……)
ヴィクトルだけで無く、その後やって来たリンクメイトにも女であるという事を知られていないかという事が気掛かりである。しかし、ここにはどちらもいないので、それを確かめる事ができない。
激しい痛みによって意識を失った後、ここまで誰が連れて来てくれたのだろうか。あの場にいたヴィクトルだろうか。否、わざわざそんな事をヴィクトルがするとは思えないので、あの後やって来た者が連れて来てくれたのだろう。
(あいつら誰かに言ってねえよな)
女であるという事を、性的な嫌がらせをしようとしていたリンクメイトには知られているのだという事をユーリは思い出した。
それを二人が他人に話せば、良識のない事をしようとしていた事を相手に知られてしまう事になる。普通はそれは他人に知られたく無い事だ。
(んなまともな事考えられるんなら、あんな事しねえだろ)
二人にまともな倫理観があるとは思えず、不安が一層大きくなった。大人しく寝ている事ができなくなったのだが、点滴の針が刺さったままになっているので動く事ができない。
液体が無くなれば、看護師がやって来る筈である。早く来ないだろうかと思っていると、扉が開く音が聞こえて来た。
「目を覚まされたんですか」
部屋にやって来た清潔感のある白衣を着た女性から声を掛けられた。服装から、部屋の中にやって来たのが看護師であるのだという事が分かった。
「ここは?」
「病院ですよ」
扉を閉めた看護師が言いながら側までやって来る。医療機器のあるこの部屋は病室のようには見えないので、処置室なのだろう。
「誰が俺をここに連れて来たんだ?」
「ニキフォロフ選手が連れて来られてましたよ。まさかこんな所でお会いできるなんて思っていなかったので、驚きました」
先程思い浮かんだのだが否定した相手であるヴィクトルであったのだという事が分かった。
わざわざ名乗るような真似をヴィクトルはしていない筈だ。それにも拘わらず看護師が気が付いたのは、ヴィクトルが有名人であるからだけで無く印象的な容姿をしているからだろう。
看護師はパックの中に入っている液体の中身を確認すると、腕から針を抜き血が出ている場所をアルコール綿で拭く。その後、看護師は針が刺さっていた場所にテープを貼った。
「直ぐに先生が来ますのでお待ちください」
「ああ」
看護師が使い終えた点滴の道具を持って部屋から出て行った。
寝台で横になったまま待っていると、白衣を着た医者が看護師と共に部屋にやって来た。医者は三十代後半程度だと思われる、医者としては若い男である。しかし、頼りなさそうな所が無かったので不安になる事は無かった。
先程針を外して貰っているので体を動かす事ができるようになっていたので、ユーリは体を起こし寝台に座る。
「目が覚めたようですね」
「ああ」
「生理痛で気を失ってしまっていたようですね。痛み止めを点滴に入れておいたのですが、今はどうですか?」
意識を失った理由を知っているという事は、医者はユーリが女であるという事を知っているという事だ。ここに連れて来られたユーリを診た事により、その事を知る事になったのだろう。
ここに連れて来てくれたヴィクトルにも、その事を知られているのでは無いのだろうかと不安になる。
知られてしまっている場合、黙っていて欲しいと懇請するしか無い。ヴィクトルは口が軽いという訳では無いので、頼みを聞き入れてくれる可能性はある。
まだ選手を続ける事ができなくなってしまったと決まった訳では無い。そうユーリは、不安になっている自分に言い聞かせた。
「大丈夫だ」
「いつも意識を失ってしまうほどの痛みがあるんですか?」
「ここまで酷いのは今回が初めてだ」
意識を失うまでのような激しい痛みはしなくなっているが、痛みが完全に無くなった訳では無い。不快になるような痛みがしている下腹部を押さえながら、ユーリは質問に答えた。
「そうですか。機能性月経困難症の可能性があるので検査されますか?」
「……いや、良い」
検査をしてもらい激しい腹痛の原因が分かれば、薬を出して貰う事ができるのかもしれない。それを飲めば痛みが薄れるのかもしれない。そう思いながらも断ったのは、検査をして貰う事に不安があったからだ。
「そうですか」
医者が渋い顔をしている事から、言われた通り検査をした方が良かったのかもしれない。そう思ったのだが、その事について考えるのは後にする事にした。今はそれよりも医者に伝えなくてはいけない事がある。
「事情があるんだ。金なら幾らでも払うから、俺が女だって事は黙っててくれ」
ロシアでは国立の病院に行くのが一般的だ。それは、無料で医療行為をして貰う事ができるからだ。しかし、ここはそんな国立の病院では無く私立の病院なのだろう。
性別を誤魔化しているので国立の病院には行けないので行った事が無いのだが、国立の病院は全体的に薄暗く衛生的であるとは言い難いそうだ。だが、ここは建物が新しく清潔であるのでそう思った。
国立の病院であれば性別を誤魔化していた事を隠蔽する事はできないだろうが、私立の病院であればどうにかする事ができる筈だ。
そんな事をユーリが言い出すとは思っていなかったのだろう。医者は一驚している様子へとなっている。
「患者の情報を外に漏らすような真似は、私たちはしません。しかし、一緒にここに来られている方にはお伝えしております」
一瞬返答に困っていた医者であったが、他言しないでくれる事を約束してくれた。その事に胸をなで下ろしていたユーリであったのだが、更に医者が続けた言葉に驚き慌てふためいた。
「えっ! ヴィクトルに」
ヴィクトルに知られてしまったかもしれないと思っていたのだが、それでも実際にそうであるのだという事が分かると吃驚せずにはいられなかった。
「いえ、一緒に来られたもう一人の方です。ニキフォロフ選手は、プリセツキーさんをここに連れて来たあと直ぐに帰られました」
「もう一人って!」
一緒に来た相手というのが誰であるのかという事が、全く思い浮かばない。その相手によっては、選手を続ける事ができなくなってしまう。黙っていてくれる相手である事を切望するしか無い。
「病室の前でお待ちになっています。他に異常はありませんでしたので、このまま帰られても大丈夫です。痛み止めを飲まれた方が良いので、帰りに薬局で購入してください」
ロシアでは病院で処方箋が出る事は少ない。薬局に行き症状を伝えて、薬を出して貰うのが一般的である。
「分かった」
頷くと、医者が共にやって来ていた看護師と共に部屋から出て行った。
ヴィクトルとここまで一緒にやって来た相手というのが誰であるのかという事が、まだ気になったままになっている。扉の向こうを気にしながら、ユーリは病室から出る為に寝台を離れる。
外で待っているという相手に会いたく無いのだが、対面せずに済む方法は無いだろう。それに、上手く顔を合わせずに済んだからといって、何か解決する事は無い。誰に知られてしまったのかという事が分からず、苦悶する事になるだけだ。
顔を顰めたまま処置室を出たユーリは、部屋の前にある長椅子に腰を下ろしている人物の姿を見て目を見張った。
「……ヤコフ!」
ユーリの姿を見ると、普段から渋い顔をしているヤコフが更に眉間の皺を濃いものへとした。
「何でヤコフがここに」
外で待っているのがヤコフであるとは全く想像もしていなかった。動揺しているとヤコフが椅子から腰を上げた。
「ヴィーチャがお前が倒れたと言って呼びに来たんで、ここまで一緒に来たんだ」
ヴィーチャはヴィクトルの愛称だ。ヴィクトルの面倒を長年みて来たヤコフは、ヴィクトルの事をそんな愛称で呼ぶ。
「ヴィクトルが」
まだヤコフは建物の中に残っていたらしい。何故わざわざそんなヤコフをヴィクトルは呼びに行ったのだ。
そう思いながらも、故郷を離れサンクトペテルブルクで一人で暮らしている現在、コーチのヤコフはユーリの保護者のような存在でもある。そんなヤコフを呼びに行くのは、当然の事であるという事ぐらい分かっていた。
「そうだ」
既にこれ以上ないほど渋い顔へとなっているヤコフが更に顔を顰めた。
女であるという事を黙っていた事を、ヤコフに叱られる事になるに決まっている。激高しやすいヤコフに頻繁に怒られているので、叱咤されても何も思わなくなっていた。しかし、今は心臓が止まってしまいそうな程緊張していた。
「ここでは落ち着いて話しができん。何処か落ち着ける所で話しをしよう」
叱責されなかったが、安堵する事などできる筈が無い。今は何も言わなかっただけで、後から怒られる事になる事が分かっていたからだ。
「分かった」
早く話しを済ませてしまいたい。処刑を待つ囚人のような状況のままでいたくないと思ったのだが、ヤコフの言う通りここでは落ち着いて話しをする事ができないという事は分かっている。
同意した事によりヤコフが歩き出したので、ユーリもその場から離れる。
受付で会計を済ませると、医者が言っていた痛み止めを買う為に近くにある薬局へと向かった。
今は痛みが落ち着いているので、薬を買いに行く事よりも話しをする事を優先したかった。しかし、医者から薬を買うように言われていた事を知っていたヤコフが、それを許してくれなかった。
倒れてしまうほど酷い生理痛をヤコフが心配してくれているのだという事に、薬局まで行くと気が付いた。ヤコフを長い間騙していたので後ろめたい気持ちになりながらも、薬局で薬を買うと話しをする為に近くのカフェに入る。
ヤコフがその店を選んだのは、落ち着いた雰囲気で客が少なく、机と机の距離が離れているので他の客に話しを聞かれる事が無いからなのだろう。木と煉瓦で壁ができている店の中でユーリがヤコフと共に座ったのは、店の奥にある窓の窓の席だ。
椅子に座ると待っている事ができなくなったのだが、ヤコフは机の端にあるメニューを手に取った。何も頼まずに喫茶店に滞在する事はできないので、何か注文をする事にしたのだろう。
ヤコフは何を頼むのかという事を直ぐに決めたようだ。軽くメニューを見ただけで店員を呼んだ。
直ぐにやって来た厨房の前にいた店員は、灰色のカッターシャツに黒いスラックス。そして、黒いロングエプロンという格好である。
「わしはホットコーヒーで。お前はどうする?」
「じゃあオレンジジュースで良い」
今は何か飲みたいと思えるような心の余裕は無かったのだが、何も頼まずにいる訳にはいかないので、思い浮かんだ物を店員に告げた。
伝票にペンを走らせると、店員は席を離れ先程までいた厨房の前へと戻った。
中にいる料理人に注文を伝えている店員の声を聞きながら、ユーリはヤコフが何か言うのを待った。しかし、飲み物がやって来るまで話しをするつもりは無いようだ。厳めしい表情をして胸の前で腕を組んだヤコフは、何か言おうとする事は無かった。
飲み物が運ばれて来るのを待っていると、気持ちが急くだけで無く重くなった。
この話しをせずに済ませたいと思ってしまう。しかし、そんな事はできないという事は分かっている。だから、どんなに嫌でも待つしか無い。
「お待たせしました」
息苦しさすらも感じながら木でできた椅子に座っていると、銀色の盆に頼んだ飲み物を乗せた店員がやって来た。
店員はユーリとヤコフの前に飲み物を置くと、持って来た伝票を机に置き席から離れた。
「どういう事だ、ユーリ?」
店員が厨房の前に戻るのを待ってから、ヤコフが本題に入った。
何故今まで性別を偽っていたのかという事を、訊いているのだ。それは分かっていたのだが、何故なのかという事を説明する事を躊躇してしまう。
「それは……」
この場しのぎの事を言って誤魔化しても無駄だ。もうヤコフには女であるという事を知られているのだ。それに、相手は長い間目を掛けてくれたヤコフだ。
スケートの才能があったので、ヤコフから他の選手よりも優遇されていた自覚はある。そんな相手であるヤコフを、これ以上欺く事はできない。
「俺の性別が男って事になってんのは、母親が俺の出生届を男として提出したからだ」
「何故そんな事を?」
ヤコフは全く理解する事ができないという様子へとなっていた。そんな事をしても何にもならないと思っているのだろう。
「多分大した理由なんて無かったんだと思う」
何故なのかという事を明言する事ができなかったのは、その理由を母親の口から聞いた事が無いからだ。
「俺の母親の事は知ってんだろ?」
母親の事については、話したく無いからだけで無く下手な相手に知られてしまうと騒ぎになってしまう事が分かっていたので、自分から話した事は無い。しかし、ヤコフが知らない筈が無い。誰かから聞いている筈だ。
「ああ」
思っていた通りであるのだという事が分かり、ユーリは話しを続ける。
「俺が産まれた時、母親は父親に捨てられたせいで精神的におかしくなってたらしい。って言っても、それからずっと良くなったり悪くなったりを繰り返してんだけど」
一時的に良くなる事はあるのだが、長くその状態が続かず、今も母親は入退院を繰り返している。その為、ユーリを育てたのは祖父だ。
母親に食事を作って貰った記憶も、他の子供が母親にして貰うように褒めて貰った記憶もユーリには無い。
「そんな時に俺の出生届を出しに行った母親は、何でか俺の出生届を男で出したらしい。じーちゃんには、ちょっと大きくなってから何回も一緒に行かなかった事を謝られた」
話しを聞き終えると共に、ヤコフは大きな溜息を吐きながら手で顔を覆った。
「そんな理由だったのか。男だという事になってる理由は分かった。だが、何故スカウトされた時に本当は女だと言わなかったんだ?」
「女だったらノービスにスカウトされたかどうかも分からねえ。俺をスカウトした奴は、俺を男だと思ってたからスカウトしたんだって事が分かってたからだ」
その言葉に反論したいが、その可能性が絶対に無いとは言い切れないからなのだろう。ヤコフは何か言いたそうな顔をしながらも、何も言わなかった。
予想通りであったのだと思いながら、何故そうまでしてノービスになりたかったのかという事を話す。
「ノービスになれば国から援助が受けられる。試合に出て勝てば、すごい賞金が更に貰えるって知ったから、どうしてもノービスになりたかったんだ。あん時は金が必要だったから」
ノービスは十歳から十一歳を対象としている。そんなノービスにならないかとユーリが声を掛けられたのは、十歳になる少し前だ。
まだ基礎普通教育の一年であったが、それでも自分の家が周りの家よりも貧しいのだということを理解していた。
そしてその理由は、母親は働く事ができない精神状態で父親はおらず、祖母は早くに亡くなっておりいない。腰の悪い高齢の祖父が働くしか無かったのだが、家族が満足に暮らす事ができるような金を稼ぐ事ができなかったからだという事も理解していた。
「だからといって。相談ぐらいしてくれたら」
苦渋の顔でヤコフはそう言った。
「ヤコフの事を信用して無かった訳じゃねえ。ただ相談なんかしてスケートを続けられなくなったら困るから、言えなかったんだんだ。俺がスケート続けないと、家族が生活できねえ。それに、ノービスになってから母親を私立の病院に入院さてるんだ」
ノービスになって直ぐはそんな事を考える事ができるような年齢では無かったが、数年が経過すると母親を今入院している国立の病院では無く医療の質が良い私立の病院に入院させたいと思うようになった。
ジュニアデビューをして賞金を貰うようになっていたので、その費用を出す事ができるので祖父に話しそれを実行した。その結果、母親はそれ以前よりもずっと状態が良くなった。
スケートを続ける事ができなくなり母親を入院させたままでいる事ができなくなれば、再び元の状態に戻ってしまうとしか思えない。
「……そうか」
ユーリがスケートを続けなくてはいけない切実な理由を知り、これ以上何も言えないという様子へとヤコフはなっていた。
「俺がスケート続けないと困るんだ。だから俺が女だって事は黙ってて欲しい」
すんなりと頷いて貰う事ができるような内容では無いという事は分かっている。しかし、今までヤコフは頼み込めばどんな我が儘も最後には聞き入れてくれた。その事から、今回も最終的にはユーリの頼みを受け入れてくれる筈であると思っていた。
だが、難しい顔をしたヤコフの様子は、ユーリの言葉に頷きそうに無いものであった。そんなヤコフの姿を見ていると急に不安になって来た。眉根に寄せて押し黙っていたヤコフが口火を切る。
「ノービスから面倒を見て来たお前の事は、子供のように思ってる。お前の頼みならばできる事なら聞いてやりたい。だが、それはできん。お前が女だという事は、わしだけじゃなくヴィクトルも知ってる。他にも知っているみたいだからな」
ヤコフの発言から、思っていた通り女であるという事をヴィクトルに知られているのだという事を知った。表情を歪めていると、ヤコフが更に言葉を続ける。
「どこからその話しがスケ連に漏れるか分からん。隠していた事が発覚すれば、わしもどうなってしまうか分からん」
ヤコフに隠蔽して貰った事がスケート連盟に発覚した時の事など、全く考えてもいなかった。
ヤコフが心配しているような事は起きないと言い切る事はできない。スケート連盟の背後には国がついている。そんなこの国は、決して温厚な国などでは無い。
張本人であるユーリだけで無く、ヤコフまで巻き込んでしまう事になるだろう。
その事に気が付いた事により、これ以上黙っていて欲しいなどと言う事はできなくなった。
スケートを続ける事ができなくなってしまうかもしれないと思うと、闇に浚われてしまいそうになっているかのような底知れぬ恐怖がした。拳を握りしめて顔を伏せていると、先程までの固いものから優しいものへと変わった声でヤコフから話しかけられる。
「さっきは怖い思いをしたな」
乱暴されそうになった事に対してそう言っているのだろう。欺いていたヤコフから、そんな言葉を掛けて貰えるとは思っていなかった。魂が震え瞳に涙が滲む。
「こんな時に優しくすんなよ」
本気で優しくされたくないと思っている訳では無い。それなのにそんな事を言ったのは、周りを騙し込んでいた自分には、乱暴されそうになった事に対して弱音を吐く資格は無いと思っていたからだ。
「嘘を吐いてた事とその件は全く関係が無い。本当の事を言って良いんだぞ」
何故素直になれないのかという事に、ヤコフは気が付いていたようだ。関係が無いと言って貰う事ができた事により、堰き止めていた感情が濁流のように溢れ出す。
「……怖かった。犯されるって思った。でも、それ以上にスケートを続けられなくなるかもって事の方が怖かった」
その恐怖は今も続いたままになっている。犯される恐怖を家族を支える事ができなくなってしまう恐怖が凌駕していたという事を知り、ヤコフの顔に刻まれている皺が深いものへとなった。
「子供に家族を支える義務など無い」
「だけど……」
自分が家族を支えなければいけないのだ。自分が支えなければ、家族は生きていく事ができない。何を言われても、そんな考えを変える事はできそうに無い。
自分にとって家族は大切で守るべき存在なのだ。
何を言っても無駄であるという事に気が付いたのか、ヤコフが溜息を吐いた。
「できる限りの事はする」
ヤコフは厳しい事を口では言うが、心根は優しい男である。
そんな人間でなければ、こんな風に慰めてくれる事は無かっただろう。それどころか、自分を危機に陥れたユーリを責め立てていただろう。
ヤコフの優しさに感謝しながら、ユーリは首を縦に振る。
「スケ連に今回の事をこれから報告する。今後の事が決まるまで、お前は家にいてくれ」
これ以上反発をしてヤコフを困らせるような事はしたくなかったので、ユーリは素直に同意した。
二章 睡蓮
自宅にある寝台で寝転がり、ユーリは時折愛猫であるピョーチャの相手をしながらただ時間が過ぎていくのを待っていた。
故郷であるモスクワからスケートの為にサンクトペテルブルクに越して来てから暮らしているこの集合住宅は、駅から少し離れた場所にある。
昔は個人が一軒家を所有する事ができず国から与えられた集合住宅の一室で暮らしていたので、ロシアにある集合住宅の殆どが元は国営住宅だ。この集合住宅も今は民間に払い下げられているが、元は国営住宅であった。
新しく建てられた住居もあるのだが、そこでは無くこの老朽した集合住宅で暮らしているのはこちらの方がずっと家賃が安いからだ。
普段は何もする事が無い時間があるとスマートフォンを使って時間を潰すのだが、今日は触る気分になる事ができず、目を覚ました際に時間を確認してから寝台の端に置いたままになっている。
これからの事を考えると、恐怖から自然と顔が強ばってしまう。真実を知ったスケート連盟が、このまま女である事を隠してスケートを続けろと言うとは思えない。そんな事になれば、今までのように仕送りをする事ができなくなり、家族が困窮する事になる。
(どうしたら良いんだよ)
良い方向に考える事などできない状況である。考えれば考えるだけ気持ちが沈むだけだ。
まだそうと決まった訳では無い。良い方向に話しが進む可能性が、絶対に無い訳では無い。これ以上今はこの事について考えるのは止める事にした。
天井にある照明機器を見詰めていると、スマートフォンから電話が掛かって来ている事を知らせる音が聞こえて来た。スマートフォンを手に取り画面を見た事によって、電話を掛けて来たのがヤコフであるという事が分かった。
息を飲みながらユーリは画面をタップする。
「ヤコフ?」
ヤコフが話し出すのを待っている事ができず、急かすようにして名前を呼んでしまった。
「そうだ。今近くにいる。今から行く」
「ああ」
ヤコフは今後の事が決まるまで家にいろと言っていた。そんなヤコフが家に来るという事は、今後の事が決まったという事だ。
スケート連盟が何と言ったのかという事が気になる。今直ぐに知りたいのだが、家に行くと言ったという事は顔を直接見て話したいのだろう。電話を切ると緊張した。
待っている時間が辛いので早く来て欲しい気持ちと、話しを聞きたく無いので来て欲しくないという気持ちがある。二つの気持ちが胸の中を行き来していると、外から車が停まる音が聞こえて来た。ヤコフが乗っている車なのかもしれない。
心臓の音が煩いほど大きくなっている。
固い寝台に預けたままになっていた体を起こし見える範囲にある扉を見詰めていると、ピョーチャがにゃあと鳴きながら側までやって来た。
ジュニアに上がってから飼っているヒマラヤンのピョーチャは、賢い猫だ。飼い主の異変に気が付きやって来たのだろう。
「大丈夫だ」
心配そうにしているピョーチャの頭を撫でると、緊張が薄れた事に気が付いた。
ピョーチャに感謝しながらヤコフがやって来るのを待っていると、呼び鈴の大きな音が聞こえて来た。人見知りをするピョーチャは、呼び鈴の音を聞くといつもさっと物陰に隠れてしまう。今も飛び跳ねるようにしてユーリから離れると、寝台の下へと入って行った。
いつもならばこんな事でそんなにも驚くなんてと思い呆れるのだが、今はそんな余裕は無い。緊張から顔を強ばらせながら寝台を離れ玄関まで行くと、扉を開ける。
扉の向こう側に立っていた人物の姿を見て、ユーリは目を丸くした。
「何でヴィクトルまで」
ヤコフだけで無く、部屋の前にはヴィクトルの姿もあった。
ヤコフの隣に立っているヴィクトルは、不満そうというよりも憤慨している様子である。こちらを見ようとしなかった事から、怒りの原因がユーリにあるのだという事が分かった。
性別を偽っていた事をヴィクトルに知られている。その事に対して、ヴィクトルは憤怒しているのかもしれない。
しかし、その事でヴィクトルには何の迷惑も掛けていない。それが原因以外に考えられないのだが、何故怒っているのかという事は分からなかった。
「後で説明する。上がっても良いか?」
今すぐに理由を説明するつもりは無いのだという事が、ヤコフの発言から分かった。何故なのかという事が気になったが、ヤコフを急かすような真似はしない事にした。
「ああ」
返事をすると、ヤコフと共にヴィクトルが家の中に入って来た。
家族とは離れて暮らし、唯一の友達は隣国で暮らしている。その為、他人をこうやって部屋に上げたのは初めてだ。
部屋の中にいる二人の姿を見ていると、客用の室内履きを用意していない事に気が付いた。
「履く物ねえんだ」
誰も部屋に上げる予定が無かったので購入しなかったのだが、買っておいた方が良かったとユーリは後悔した。
「そうか。それならばここで話しをしよう」
ヤコフがそう言うと、後から部屋に入ったヴィクトルが扉を閉めた。
ヴィクトルには図らずも助けて貰う事になった。ヴィクトルが来なければ、あのまま乱暴されてしまっていた。
目を覚ましたばかりの時はそんな事を考えられる余裕が無かったのだが、ヤコフと別れた後謝辞を述べなくてはいけない事に気が付いた。
次に会った時感謝の言葉を伝えるつもりであったのだが、それを言えるような雰囲気では無い。
ヤコフが話しをしようとしている事に気が付き、ユーリはそっぽを向いているヴィクトルを気にしている場合では無い事に気が付いた。
「スケート連盟に話して今後の事を審議してもらった結果、女だという事を他国のスケート関係者に知られれば、大問題になってしまう。そんな事になる前に、お前には引退して貰うという事だ」
「引退……っ!」
スケート連盟の決定は、予測していなかったものでは無い。寧ろそうなるだろうと思っていたものである。それでも、実際に言われると狼狽せずにはいられない。
頭の中が真っ白になりうまく言葉が出て来なくなっていると、既に顰め面へとなっているヤコフの眉間の皺が濃いものへとなった。
「ここからはお前には酷な話しになる」
「何だよ?」
これ以上に苛酷な内容は無いとしか思えない。どんな事を言われる事になるのかという事が分からず、ユーリは身構えた。
「表舞台にもう立つ事ができないのならば、こちらが決めた相手との間に子供を作って、その才能を残して貰うとスケ連が言ってる」
ヤコフが告げた内容は、覚悟をしていても胸に衝撃を感じるようなものであった。
「何だよそれ……」
スケート連盟が言っている事は、繁殖牝馬になれと言っているようなものである。
倫理的な反した普通ならばあり得ない事である。しかし、そんな事を言う筈が無いと思わなかったのは、冗談を言わないヤコフが告げているからだけでは無い。この国のスケート連盟ならば、言いそうな事であると思ったからという理由もある。
「その相手はもう決まっとる」
ヤコフの視線が、我関せずといった様子へとなっているヴィクトルに向かう。
「まさかヴィクトル……?」
この状況の中でヤコフがヴィクトルに視線を遣ったという事は、相手がヴィクトルであるという事である。しかし、そうであって欲しく無いと思った。
ヴィクトルと子供を作るなど絶対に無理だ。
「そうだ」
「無理だ!」
ヤコフが返事をすると同時にそう叫んでいた。
部屋の壁が薄いので、大声を出すと隣に聞こえてしまう事になる。普段ならばそう思い我に返っただろう。しかし、今はそんな事を気にする事ができる余裕は無い。
「わしも散々反対したんだが、聞き入れてくれんかった。すまん」
ヤコフは肩を落としながら言った。
ヤコフのこんな姿を今まで見た事が無い。そんな風に思ってしまう程、ヤコフは意気消沈していた。
動揺していた時、ヤコフが何か言っても駄目でも、国に貢献しリビング・レジェンドと呼ばれているヴィクトルならばどうにかする事ができる筈であるとユーリは思った。
「ヴィクトル! お前だって俺とガキなんか作りたくねえだろ! どうにかできねえのかよ」
眉を顰めているヴィクトルに、ユーリは険しい剣幕で訴えた。
「どうにかできるんだったらしてるよ」
ここに来てから一度も言葉を発していなかったヴィクトルが放った声は、怒りの色が濃いものである。
「どういう事だよ?」
「昨日の夜スケート連盟に呼び出されて、さっきヤコフが言った決定を告げられたんだ。ユーリと子供を作るなんて冗談じゃない。そんな命令には従えないって訴えたんだけど、もう俺の選手生命は短いんだから、最後にロシアのスケートに貢献しろって言われたんだよ」
憤懣をぶつけるようにして言うと、ヴィクトルは長い前髪の間から見えている額を抑える。そこから手を離したと思うと、再びヴィクトルは話し出した。
「引退した後もスケートに携わるつもりなら従った方が良いなんて脅されたら、それ以上反論なんかできる筈がないよね」
ヴィクトルの語調は厳しいものであった。
理不尽な命令にヴィクトルは憤慨しているようだ。
ヴィクトルの機嫌が悪いのは、ユーリが性別を偽っていた事に対して怒っているからでは無かったらしい。スケート連盟から下された命令が原因であったようだ。
そんな命令を下されたヴィクトルが、激怒するのは当然だろう。
ヴィクトルですらもどうする事もできないのだという事が分かった。ヤコフが何を言っても無駄であったようなのだが、それでも今は縋る相手がヤコフしかいない。
「ヤコフ。どうにかなんねえのか?」
「どうにかできるのならば、どうにかしとる。産まれて来た子供は、国が引き取って優秀なスケーターに育てるそうだ。ユーリが何故女だという事を言い出さなかったのかという事を話したからなんだろう。子供を差し出せば報奨金を出すと言っていた」
こんな事は言いたく無いという様子でヤコフは言った。
「何だよそれっ! ガキを金で買うようなもんじゃねえか」
ヤコフが言い出した事では無いのだが、それでも燃えるような怒りを感じ食って掛かってしまった。
「お前の言う通りだ。しかし、お前に拒否権は無い。スケート連盟の言葉に従わないと、どうなるのかという事が分からない」
そんな事を言われると、従うしか選択肢が無くなってしまう。意思に反して従うのは屈辱的な事である。憤りすらも感じ、ユーリは強く拳を握りしめた。
「引退については落ち着いてから発表するそうだ。引退の理由については向こうが決めると言っていた」
どんな事をしても引退を回避する事はできないのだという事が分かり、ユーリは絶望的な気持ちへとなった。
(もうあいつと戦う事もできねえのかよ)
あいつというのは、ライバルとして認識している日本人のスケーターの勝生勇利の事だ。
スケートの才能があったので争う相手がジュニアにはおらず、練習を怠っていた。しかし、日本に行った際に勇利に負けてしまった。勇利をどうしても見返したくなり、それからは今までに無いぐらい練習に励むようになった。
その結果、ショートプログラムでは勝つ事ができたが、フリースケーティングでは負けてしまった。
次は勇利にフリースケーティングでも勝つ為。そして、選手に復帰したヴィクトルにも勝つ為にユーリは再び精進を重ねていた。
「子供ができる迄、お前たちには何処かで一緒に住むようにという事を言われている」
「何処かって?」
「どこでも良いそうだ」
何処でも良いのならば、わざわざ場所を借りる必要は無いだろう。ヴィクトルかユーリの家のどちらかで、一緒に暮らした方が良いだろう。
ヴィクトルが広いとは言えないユーリの家に住む事を選ぶとは思えない。それでも、ヴィクトルの意思を確認しようと視線を遣る。
「どっちかの家に一緒に住んだ方が良いだろ。お前はどっちが良いんだ?」
「こんな狭くてぼろい所で、俺は生活なんてしたくないよ。勿論俺の家に決まってるだろ」
ヴィクトルは見下したような態度で言った。
「人の家をんな風に言うんじゃねえよ! クソが」
ヴィクトルの言う通りこの集合住宅は老朽化が進んだ物であるのだが、思わずかっとなりそう言っていた。怒鳴りつけられたというのに、ヴィクトルはそれを意に介す事は無かった。
「俺は練習しなきゃいけないし、勇利のコーチもしなきゃいけない。引退するユリオと違って忙しいんだ」
ヴィクトルは現在、選手と勇利のコーチという二足のわらじを履いている。
そんな事になったのは、休業をして勇利のコーチをしていたヴィクトルが、選手に復帰をするが勇利のコーチもこのまま続けると昨年のグランプリファイナルで言い出したからだ。ヴィクトルが休業をしていたのは、自分の演技について悩んでいたからだ。勇利のコーチになる事によって、そんな悩みから解放されたようだ。
ユーリの言葉をまるで聞こえていないかのように無視したヴィクトルは、更に言葉を続けた。
「それに、俺は巻き込まれたんだよ。ユリオが俺にあわせるのが当然だと思うんだけど?」
ヴィクトルの言っている事は筋道が通っている。しかし、蔑視するような言い方をされた事により、ふつふつとした怒りを感じてしまう。
「明日の朝迎えに来るから、それ迄に準備を済ませててね」
「飼ってる猫を連れて行っても良いよな?」
返事をする前に、ユーリはその事を確認しておく事にした。
遠征の際は、ペットシッターを頼んでピョーチャの面倒を見てもらっていた。ヴィクトルの元にいる間もそうする事をユーリが選択しなかったのは、決してペットシッターを雇う金が勿体ないからでは無い。
収入の殆どを家族に送金しているので自由になる金は少なかったが、それでも愛猫の為に使う金を惜しんだ事は無い。
幼い頃から親元を離れて暮らしているユーリにとって、ピョーチャは掛け替えのない存在である。ペットシッターに預ける事を拒んだのは、長期にわたってピョーチャから離れたく無いからだ。
今まで一番長く離れていたので、ヴィクトルを追って日本に行った際の一週間だ。あの時ですらも、戻るとピョーチャは捨てられたのかもしれないという様子へとなっていた。
連れて行く事ができなければ、それ以上の期間離れる事になってしまう。そんな可愛そうな事は絶対にしたくない。
「俺は世話はしないよ」
世話をさせられる事になると本気で思いヴィクトルはそう言ったのでは無く、体の良い断り文句であれはあるのだろう。
ヴィクトルは、スタンダード・プードルのマッカチンという名前の犬を飼っている。溺愛しているそんなマッカチンに、猫が何かするかもしれないと思ってるのかもしれない。
「ちゃんと俺が今まで通り全部世話はするから。今までだってちゃんと面倒みて来たんだ。迷惑掛けたりしねえから。それに、こいつ大人しいからマッカチンに何かしたりする事は絶対にねえから」
「それなら良いよ」
懇望すると、ヴィクトルは仕方なさそうな様子で言った。同意してくれたが、ヴィクトルの不安を全て払拭する事はできていないようだ。
先程言ったように、ピョーチャがマッカチンに何かする事は絶対に無いと言い切る事ができる。直ぐにヴィクトルは安心する筈であると、ユーリは思っていた。
話しが済んだ事により、ヴィクトルの視線が黙って話しを聞いていたヤコフに戻る。
「じゃあ、俺は先に帰るね」
「ああ」
ヤコフの許可を貰うと、ヴィクトルは部屋を出て行った。その際、ユーリを一瞥する事すらもしなかった。
ヴィクトルはユーリに対してだけは、他の相手にするように気遣うような事は無い。その為、ヴィクトルのそんな態度はいつもの事であるので、ユーリはそれを気にする事は無かった。
玄関から呼び鈴の音が聞こえて来た。先程車が停まる音が聞こえて来ていたので、迎えに来る予定になっているヴィクトルがやって来たのだろう。
既にヴィクトルの元に行く準備は済んでいるので、ユーリはリュックを持って寝台から腰を上げる。
昨日までは散らかっていた部屋であるのだが、今は片付いている。
今日からヴィクトルの元へと行くので、暫くこの部屋を留守にする。汚いままにしておく事はできないので、ヴィクトルの元に行く準備を済ませた後部屋の大掃除をした。
玄関まで行き扉を開けると、そこには思っていた通りヴィクトルの姿があった。ヴィクトルはジャージ姿では無く私服姿であった。
「準備できた?」
「ああ」
ヴィクトルの視線が、玄関に置いている持って行く荷物に向かう。
「それだけで良いの? 何度もここに連れて来なきゃいけないのは勘弁してよ」
玄関に置いてあるのは、ピョーチャを入れる為の焦げ茶色をした頑丈なペットキャリーと、遠征に行く際に使っていた豹柄のキャリーバッグだ。その他に持って行くつもりなのは、今手に持っている黒いスタッズの付いたリュックだけだ。
「んなに荷物いらねえだろ」
「そう」
ヴィクトルがそれだけで良いのかという事を尋ねて来たのは、遠征の際ですらヴィクトルはユーリが用意している物の倍以上の荷物をいつも持って行っているからなのだろう。勇利の元に現れた際も、そんな風に大荷物であったと勇利から困ったようにして聞かされた事がある。
ヴィクトルが部屋を離れようとしているのだという事に気が付き、ユーリはリックを背中に背負いペットキャリーを持つと、キャリーカートの元まで行く。ヴィクトルが部屋を離れたので、その後に続き部屋から出て行く。
鍵を掛けなくてはいけないという事は分かっているのだろう。鍵を掛ける時間は与えてくれた。
大急ぎで鍵を掛けると、ヴィクトルと共にエレベーターを使い一階へと下りる。
建物の前には、派手な車が停まっていた。
これがヴィクトルの車だ。ヴィクトルの車に乗った事は無い。しかし、ヴィクトルが練習場までその車に乗って来ているので、何度も見た事がある。自分がそんな車に乗る日が来るとは思っていなかった。
ヴィクトルが荷台を開けてくれたので、ユーリはそこにここまで持って来たキャリーカートを入れる。ペットキャリーは、中にピョーチャがいるので膝に乗せておくつもりだ。
「何処に乗れば良いんだ?」
「助手席で良いよ」
運転席へと向かっていたヴィクトルが面倒臭そうにしながら返事をしたので、助手席へと向かう。
助手席に乗り込みシートベルトをする。同じく運転席へと乗り込んでいたヴィクトルもシートベルトを締めると、車を走らせ始めた。
膝の上に置いているペットキャリーに入っているピョーチャがにゃあと鳴いた。先程までは静かにしていたのだが、車が動き出した事により何処かに連れて行かれようとしている事に気が付き不安になったのだろう。
「大丈夫だぞ。お前を捨てたりなんかしないからな」
「それ、俺に対する嫌味?」
隣でヴィクトルがそんな事を言ったのは、昨日ピョーチャを連れて行きたいと言った際に冷たい態度を取ったからなのだろう。勿論、いつまでもそんなくだらない事を根に持ってなどいない。
「んな訳ねえだろ。勘違いすんな」
「そう。それなら良いんだけど」
違うのだという事が分かると、ヴィクトルは興味を失ったような様子へと急になった。それは、呆気に取られてしまうほどの変わりようである。
呆然とヴィクトルを見ていたのだが、ユーリの視線を全く気にしていない様子で運転をしていた。いつまでも見ているのもおかしいような気がしたので、ユーリは視線を前に戻す。
先程までは鳴いていたピョーチャであったのだが、今は大人しくしている。その事に安堵していると、大きく立派な建物が見えた。
目立つ建物であったので気になっていると、車がその建物の方へと行っているように感じる。
建物は集合住宅のようであるのだが、こんな所でヴィクトルが暮らしている筈が無いだろう。その集合住宅は、スケーターが暮らすには豪儀過ぎる物である。
違うに決まっていると思いながらも建物に意識を向けていると、車がその建物の地下へと入って行った。その事から、ここでヴィクトルが暮らしているのだという事が分かった。
(こんな所に住んでんのかよ……)
国から集合住宅の一室を貰ったヴィクトルは、今はそこで暮らしているという事を聞いた事がある。
国がわざわざ贈るような物であるので、粗末な物では無いのだろうとは思っていた。それでも、こんなに高そうな建物の中にある部屋だとは思っていなかった。
驚きからあんぐりと口を開けていると、駐車場の中へと入っていた車が停まる。
シートベルトを外したヴィクトルが車から降りたので、ユーリもシートベルトを外しペットキャリーを持って車から降りる。ヴィクトルが荷台を開けてくれたので、そこに入れていたキャリーカートを取り出す。ヴィクトルと共に建物の中に入ると、エレベーターまで行く。
扉の前で少し待つ事によって、エレベーターやって来た。
(しかも最上階かよ)
ヴィクトルが最上階のボタンを押した事により、部屋が最上階にあるのだという事が分かった。高層の集合住宅は、上に行くにしたがって値段が高いという事ぐらい知っている。
こんな広壮な建物の中にある部屋であるので、その部屋が立派で広い物であるのだという事を想像する事ができる。しかし全く胸が高鳴らなかったのは、ここには遊びに来たのでは無く子供を作る為にやって来ているからだ。
ここまで来てもまだ実感が沸かない。
昨日の出来事が夢であったかのように感じる。しかし、そんな風に感じても現実は変わらない。スケート連盟に命じられた事を遂行するしか無い。
最上階に到着した事を知らせる音が聞こえて来ると共に、扉が開いた。エレベーターから出る事によって、この階には部屋が一つしか無いのだという事を知った。
(どんだけ部屋広いんだよ)
建物の大きさから一つの階に複数部屋があるのだと思っていたので、驚きながらエレベーターの前にある扉まで行く。
鍵を使い開錠したヴィクトルの視線がこちらに向かう。先に入れば良いのだという事が分かったので、ユーリは部屋の中に入る。
「そこにあるスリッパ使って良いよ」
「ああ」
部屋を入って直ぐの場所にあるスリッパの事を、ヴィクトルが言っているのだという事が分かった。
靴をここで脱いで、そのスリッパに履き替えれば良いのだろう。靴を脱ぎスリッパを履き、後から部屋に入って来たヴィクトルを待つ。
同じようにスリッパを履いたヴィクトルが、部屋の中を進んで行く。その後に続き、ユーリも部屋の中を歩き出す。
「トイレはそこ。お風呂はそこの扉の中。あそこは俺の寝室。その隣にあるのは、ダイニングキッチン。そこに冷蔵庫があるから、中に入ってる物は勝手に飲んで良いよ」
廊下を進みながら、ヴィクトルは家の中を案内してくれた。
思っていた通り部屋の中は広かった。しかし、その広さは想像以上であった。こんな所で一人で暮らして部屋を持て余さないのだろうかと、心配になってしまう広さだ。
扉の一つの前まで行くと、ヴィクトルがその中へと入る。
何の部屋であるのかという事を説明されなかったその部屋は、使っていないのか中には寝台と棚はあるが生活感が全く無い。来客があった時に使って貰う部屋なのかもしれない。
「この部屋を使って良いよ」
ヴィクトルは、この部屋をユーリに宛がうつもりのようだ。
「何でわざわざ部屋なんか」
「リビングとかで常にいられたら邪魔だからね。これから何ヶ月もここにいるんだから」
ヴィクトルの言葉にそんなにいなければいけないのかという事を思った後、直ぐに子供ができる訳では無いのだという事に気が付いた。ここにこれから何ヶ月もいなくてはいけないのだ。そう考えると、憂鬱な気持ちになる。
大人しく言葉に従う事にすると、ユーリを部屋に残しヴィクトルは何処かに行ってしまった。
三章 藜
頭の上から湯が降り注いでいる。他の部屋同様に趣味の良い家具で纏められた浴室にある浴槽の中で、ユーリは緊張で顔を強ばらせながらシャワーを浴びていた。
先程体を洗い頭も洗ったので、もうこれ以上ここにいる必要は無い。湯を止めて浴室から出なければいけないのだがそれをする事ができないのは、ここを出ればどうなるのかという事が分かっていたからだ。
この家に持って来た物をキャリーバッグから出し終えると、見知らぬ場所にやって来た事によって緊張をしているピョーチャの相手をした。ピョーチャが少し落ち着いた様子になったので安堵していると、ヴィクトルが夕食にしようと声を掛けて来た。
ヴィクトルが料理をするとは思えない。それに、料理をしていた様子は無い。先程誰か来ている様子であったので、デリバリーを頼んだのかもしれない。
そんな予想通り、ヴィクトルの後に続きダイニングキッチンまで行くと、そこには出来合いの惣菜が並んでいた。
ヴィクトルが頼んだのは、東欧料理のデリバリーであった。ロシア料理だけで無く、スロバキア料理。ハンガリー料理などがあった。
パプリカを使ったシチューであるグヤーシュや、餃子にサワークリームなどを掛けたペリメニ。豚肉をサワークリームで煮たミティティなどを食べている最中、会話らしい会話は無かった。
話しをしたい訳では無い。それに、食事はいつも一人で取っている。話しをしない事には慣れているのだが、それでも一緒に食事をしている相手が何も話そうとしないと息苦しさを感じるのだという事を知った。
ヴィクトルがデリバリーを頼んだのは、値段設定が高い店であるのだろう。手間が掛かっており美味しかったのだが、食べ終える頃には疲れてしまった。
早く部屋に戻りたいと思っていると、ヴィクトルから寝る時間になったらシャワーを浴びて自分の寝室に来るように言われた。
何故そんな事をヴィクトルが言ったのかという事を、察する事ができない筈が無い。ここには子供を作る為にやって来ている。それを遂行する為にそう言ったのだ。
その際も緊張したのだが、目前に迫っている今は、その時とは比べものにならないほど緊張している。
(クソ)
心の中で放った罵声は、ヴィクトルに対するものではない。どうしようも無い状況に対して放ったものである。
ユーリは覚悟を決めると、湯を止めて琺瑯でできた金色の猫足の浴槽から出る。古典的な見た目の物であるというのに古さを全く感じないのは、他の家具と調和が取れているからなのだろう。
浴槽の側にある黒い椅子まで行くと、そこに置いてある灰色のバスタオルを手に取る。
ヴィクトルが用意してくれたそれは、高級品である事が分かる質感の物だ。
入って直ぐの場所にある洗面台に並んでいる化粧品も、全て高そうな物だ。ブランドの物なのだろう。それを見る事によって、化粧水を持って来るのを忘れてしまった事に気が付いた。
(借りたって後で言えば良いか。ヴィクトルの事だから、勝手に使っても怒らねえだろ)
バスタオルで簡単に体を拭くと、ユーリは部屋から持って来たルームウェアに着替える。
持って来たのは、どちらもスウェット生地のショートパンツとプルオーバーのセットアップだ。灰色のそれは、色気が無い物であるだろう。ヴィクトルがそんな格好をしたユーリを見て、興奮するのだろうか。
劣情を感じなくとも、男は性交する事ができるのだろうか。男では無いからだけで無く、今までそんな経験が無いので全くどうであるのかという事が分からない。
(俺が心配するような事じゃねえよな)
洗面台にある化粧水を使うと、バスタオルを肩に掛ける。それで髪の水気を拭き取りながら浴室を出ると、ヴィクトルから聞いている寝室まで行く。
覚悟を決めた後から先程までは吹っ切れたつもりであったのだが、再び暗然たる気持ちへとなっていた。足取りが重くなっているのを感じながらユーリは寝室の扉の前まで行くと、息を飲んでから中に入る。
部屋の中にいたヴィクトルの視線がユーリに向かう。
ヴィクトルは部屋の奥にある大きな寝台に腰を下ろして、タブレットで先程まで何か見ていたようだ。そんなヴィクトルがいる寝台は、先程までいた浴室と同じように天井から幾つも電球の入った瓶がぶら下がっている。
全ての部屋の家具に統一感があるので、それを意識してヴィクトルは家具を選んだのだろう。今考える必要の無い事を思ってしまったのは、緊張を誤魔化したいからだ。
「化粧水借りたけど良かったか?」
「ああ、構わないよ」
素っ気ない口調で言うと、ヴィクトルは足を組むのを止めて、手に持ったままになっていたタブレットを寝台の端に置いた。
このまま寝室の入り口に立ったままでは何もできない。ヴィクトルの側まで行かなくてはいけないだろう。今直ぐにここから逃げ出したくなっていたが、拳を強く握りしめる事によって己を叱咤して、ヴィクトルの元へと向かう。
数え切れない程の回数会っているので、見慣れた相手でヴィクトルはある。しかし、まるで初めて対面したかのような気持ちへとなっていた。
それは、これからヴィクトルと経験した事が無い事を行うからなのだろう。
目の前まで行き足を止めると、ヴィクトルと視線が一つに繋がる。
「先に言っておくけど、初めてだから俺に何か期待しても無駄だからな」
「分かってるよ。お前に何か期待なんてするつもりは無い。寝ててくれたら良い」
「そうか」
何も期待されていないのだという事が分かり安心する反面、ヴィクトルから子供であると思われている事が分かり不服に思った。
子供扱いするなという事を、別の場面であれば言っていただろう。今は余計な事を言えるような余裕が無かったので、それを告げる事はできなかった。
「立ったままでいられると何もできないから、ベッドに上がってくれる?」
「ああ」
声が緊張から上擦っている事に気が付き、それを恥ずかしく思いながら寝台に上がる。
これからどうすれば良いのだろうかと思いながら視線を遣ると、ヴィクトルが側へとやって来た。心臓の音が大きくなっているのを感じる。
試合の前でもこんなにも緊張した事など無い。試合と違い、今まで経験した事が無い未知の行為を今からするからなのだろう。
空気が薄くなっているように感じる。息苦しくなっていると、ヴィクトルの顔が近づいて来た。
「……っ!」
唇をヴィクトルに塞がれ、ユーリは肩を揺らした。
体を重ねる前に、口付けをするのが普通だという事ぐらい知っている。
つい最近まで友達と呼べる存在がいなかったので、今まで性的な話しを他人とした事が無い。それでも、インターネットなどでそういう知識を得る機会は幾らでもある。
口付けをするのが普通であるという事を知っていながら驚いたのは、恋人同士の行為では無いというのに、まさかそんな事までするとは思っていなかったからだ。
直ぐに唇が離れたので、そのまま離すのだと思っていた。しかし、再び唇を塞がれる。
「ん……っ……」
何故、なかなか口付けを止めようとしないのかという事が分からない。
理由を尋ねたいのだが、唇が重なっているので今は喋る事ができない。ヴィクトルが唇を離すまで待つしか無いようだ。
「はっ……んぅ……」
唇を重ねたままになっているヴィクトルが、深く唇を重ねながら上着の裾から中に手を入れて来た。肌を這いながら胸まで移動した手が、膨らみと呼べないほどの大きさしかないユーリの胸に触れる。
「……っ!」
女である事を示すそこを触られたのは、先日リンクメイトから暴行されそうになった時だけである。その為乳房を触られると、その時の事を思い出し恐怖がこみ上げて来た。
今胸に触れているのは、ヴィクトルの手である。ヴィクトルは乱暴をしようとしているのでは無い。子供を作るのに協力してくれているのだ。
そう何度も己に言い聞かせる事によって、体に入っていた力が抜ける。
「ん……ぅ……」
乳房を包み込むようにして触っていた手で、乳首を触られる。何度もそこを触られる事によって、柔らかであった突起が固くなって来た。
服に擦れた時や急に寒い場所に出た時にそこが固くなる事は、経験から知っていた。しかし、触られてもそこが固くなる事は知らなかった。
恥ずかしい場所であるそこをこれ以上触られたく無くて、ユーリは顔を顰めながら体を小さく捩る。
ヴィクトルの手を乳首から離そうとしているのでは無い。嫌がっている事に気が付いたヴィクトルに、自主的にそこから手を離させようとしていた。
しかし、嫌がっている事に気が付いていないようだ。ヴィクトルは尖りを指の腹で撫でては摘まむという事を、繰り返したままになっていた。
(こいつ。気が付いてんのかも)
ユーリが嫌がっている事に気が付いていながら、ヴィクトルは止めようとしないのかもしれない。気が付いた事はそれだけでは無い。ユーリを感じさせようとして、そんな所を触っているのだという事に気が付いた。
以前、偶然見てしまったアダルト動画の中に出て来た女性は、赤い胸の突起を触られて猥りがわしい声を出していた。
ここを触られると感じるのだとそれを見て思っていたのだが、触られても眉間に皺を寄せたくなるようなものを感じるだけである。感じているのは快楽だとは言い難いものでしか無い。誰でもここを触られて感じるのでは無いのかもしれない。
(くるし……)
ヴィクトルがこんなにも間近にいるというのに鼻から息をする事に抵抗があり、先程から唇が離れた隙に息継ぎをしている。それでは満足に息をする事ができず、酸欠になって来た。
ヴィクトルが唇を離すまでの我慢であると思い耐えようとしたのだが、限界になった。
「んぅ……ん……」
顔を左右に振りながら、体を背後に動かそうとする。しかし、頭を手で後ろから押さえつけられていたので、動く事ができない。暴れるしか無いのだろうかと思っていると、頭から手が離れると共に唇が離れた。
ヴィクトルが解放してくれた事に安堵しながら浅い呼吸をすると、息が整って来た。
「何でわざわざそんな事なんか」
「そんな事?」
睨み付けながら言ったのだが、ヴィクトルはそれを全く気に留めていなかった。その事を不満に思いながらも、言いたい事が伝わらなかったようであるので質問に答える。
「キスしたりとか……触ったりとか」
普段ならば憚る事無く言える言葉であるのだが、今は乳首と口にするのが恥ずかしくて言おうとしたのだが言えなかった。
「されたくないの?」
理解できないという様子でヴィクトルが言っている事から、今までそんな事を相手に言われた事が無いのだという事が分かった。
今までヴィクトルが閨を共にした相手は、ユーリのように嫌々抱かれようとしている者では無い。望んで抱かれようとしている者であった筈だ。そんな相手が、ヴィクトルの興を削ぐような事を言う筈がないので、それは当然のことだろう。
「俺を妊娠させなきゃいけないから、セックスしてんだろ。だから、そんな事わざわざしなくて良いから」
「そんなのつまらないじゃないか」
確かに面倒であると同意すると思い言っていたので、ヴィクトルの返事はユーリにとって予想外のものであった。
「んな事わざわざすんの面倒じゃねえのか?」
「俺は相手が感じてるのを見るのが好きなんだよ」
言いながらヴィクトルに、上着から出ている首元を五本の指で触れるか触れないかという程度で触られる。
先程乳首を触られた時のように、むずむずとしたものを手が触れている場所に感じた。痒みにも似たそれに、ユーリは眉根を寄せながら耐える。
「俺が気持ちよくなっても、お前はなんも気持ちよくねーだろ」
大人しくヴィクトルの言葉に従う事ができなかったのは、そう思ったからだけでは無い。アダルト動画に出ていた女性のように感じたくないという理由もある。
先程触られた時は感じなかったが、このまま最後まで感じずにいられると言い切る事はできない。無様な姿をヴィクトルに晒したく無い。
「確かに俺は気持ちよくはないけど、見てるだけで興奮するんだよ。ユーリにはまだ理解できないだろうね」
子供だから理解できないのだというようにして言ったヴィクトルに、今度は一本の指で文字を書くようにして肌を触られる。
「ん……」
再び肌に痺れのようなものをユーリは感じる。それは先程感じたものよりも強いもので、口から勝手にくぐもった声が漏れてしまった。
「だから、お前が感じないと終わらないって事だ。大人しく俺に愛撫されて気持ちよくなってたら良いんだよ」
出ている声に対してまるで感じているようなものであると思っていると、ヴィクトルに命令するようにしてそう言われた。
「……分かったよ」
ヴィクトルの言葉に素直に従うのは面白く無かったが、逆らうといつまでも終わらないのだという事が分かったので、渋々同意した。それで良いというような顔へとなったヴィクトルが、上着へと手を掛ける。
「脱がすよ」
「ああ」
脱ぎたく無いのだが、そんな事を言える立場では無い。仕方なく返事をすると上着を脱がされた。
上着を脱いだ事によって露わとなった乳房に、ヴィクトルの視線が向かっている。
「本当に胸無いね」
呆れたような様子でヴィクトルは言っていた。
先程触ったので、ユーリのそこが大きく無い事は知っていた筈だ。それでも、ここまで小さいとは思っていなかったのだろう。
胸が大きくなりたいと思った事は無いのだが、それでもそんな風に言われると苛立ちを覚える。
「うっせーよ」
「でも、無い方がユーリらしいよ」
「何だよそれ」
胸が大きい方が似合うと言われれば、間違い無く憤慨していただろう。しかし、そんな風に言われるのも腹立たしい事であった。
頬を膨らまさせていると、ヴィクトルに乳房を手で包み込まれる。
先程服の中に手を入れられた際、同じようにそこを触られている。同じ事をされているというのに緊張してしまったのは、胸に触れているヴィクトルの手が見えているからなのだろう。
見るから恥ずかしいのだ。見なければ良いのだと思ったのだが、手に遣っている視線をそこから離す事ができない。
吸引力のようなものを感じていると、ヴィクトルの右手の薬指にはまっている金色の指輪が目に留まる。
結婚指輪を嵌める指にしているその指輪は、勇利と一揃いの物だ。そんな指に嵌めているが、金メダルを取るという事を誓う為に勇利が購入した物であるそうだ。それを知っていても、既婚者と不倫をしているような気持ちへとなってしまう。
「んぅ……」
何度も胸を揉まれると、ぞくぞくしたものを触られている場所に感じる。擽るように優しくヴィクトルが触っているからなのだろう。
変な声が出てしまいそうになるので止めて欲しい。目を瞬かせながら耐えていると、中心で存在を主張している物を指の腹ですっと触られる。
「……っ」
乳房と同じように優しく触られると、そこにむずむずとしたものを感じた。
「あっ……んぅ……」
勝手に口から出てしまった声は、今まで聞いた事が無いようなものである。ユーリはそんな声を出してしまった事に驚き目を見開いた。
「気持ちよくなってきたみたいだね」
「ちがう……あっ……」
おかしな声を出してしまった事により、ヴィクトルに感じているのだと勘違いされてしまったようだ。ヴィクトルが乳首を触ったままになっていたので、否定しながらも再び甲高い声を出してしまった。
「嘘は駄目だよ」
ヴィクトルが円を描くようにして先端を触りながら指を動かす。
「ちがう……あっ……んぅ……はっ……」
ヴィクトルは恥ずかしさから本当の事を言えずにいるのだと思っているようだ。
そうでは無い。本当に気持ちよくなっているのでは無い。それを訴えたいのだが、頭の中まで痺れて来た事により何も言えなくなってしまった。
「はっ……んぅ……」
快感などしてないと思っていたのだが、触られ続けると本当に感じていないのかという事が疑問になって来る。これは快感なのかもしれないと思っていると、ズボンを脱がされ太股の内側を撫でられた。
「あっ……!」
体を大きく捩ってしまうようなものを触られた場所に感じていると、肌を這いながら手が下肢の中心へと移動していく。すっと足の間を下着の上から触られると、肌が粟立つようなものをそこに感じた。
「……っ!」
「男物履いてるんだね」
硬直していると、そんなヴィクトルの言葉が聞こえて来た。しかし、秘めた部分を触られたままになっている今は、それに対して何の反応もする事ができない。
ユーリに何か言って欲しくて言ったのでは無かったのだろう。返事が無かった事を、ヴィクトルは気に掛けていない様子である。
「あっ……ん……」
繰り返し秘裂を触られると、体温が上昇しそこに感じているものが強くなって来た。そして、再び口から声が出てしまった。
「ちょっと染みができてきたね」
秘部へと視線を遣る事を、ヴィクトルに目線だけで促される。従いたくなどないというのに、視線を足の間へと向けてしまう。
秘められた場所を見ていると、ヴィクトルが臀部の下に膝を入れた事により腰が持ち上がる。軽く腰を上げる格好へとなった事により、下着の中心が他の部分よりも濃い色へとなっている事を知った。
体内から溢れ出した分泌物によって、そこが濡れているのだという事を即座に理解する事ができた。
女性は感じるとそこが濡れるそうだ。それは、ヴィクトルに愛撫されて感じたという事である。恥辱によって全身が熱くなる。
下着に手を伸ばしたヴィクトルに、秘部の上部にある肉芽を下着の上からぐいぐいと押し込められる。
「あっ……んぅ……」
小さな突起はまるで快楽の根源であるかのように、触られると目の奥に閃光が走るほど強烈な快感がした。
「気持ちいい?」
「わかんね……」
気を抜くと、触られている場所に感じている快感しか見えなくなってしまいそうであった。
感じているのだという事が分かっていながら否定したのは、認める事が恥ずかしかったからだ。もうこれ以上そこを触るのを止めて欲しいのだが、それを言えば感じている事を知られてしまうので言う事ができない。
「はっ……んぅ……」
「自分でする時はどんな風にここ触るの?」
ヴィクトルが言っているのが自慰の事であるのだという事を、間髪容れず理解した。
「んな事しねーよ」
そういう行為がある事は勿論知っているが、それは下劣な行為であると思っている。そんな行為をした事が無いのは当然だ。
「そうなんだ。自分で触っても気持ちいいから、触りたくなったら触っても良いよ」
「触らねえよ……んぅ……」
肉芽をぐいぐいと押し込め続けられた事によって、体の中で大きくなっているものが今にも爆発しそうになっていた。
「イきそう?」
「分かんねえ」
快楽が限界まで大きくなると、それが爆発するのだという事は知識としては知っている。しかし、自慰をした事が無いので、当然それを経験した事は無い。その為、具体的にどんなものであるのかという事が分からなかった。
「気持ちよさそうなのに」
残念そうに言いながらもヴィクトルは、肉の粒を押し込めたままであった。
強くも無く弱すぎもしない力加減で敏感な場所を刺激され続けると、意識が快感に飲み込まれてしまいそうになる。夢中になってしまっては駄目だと自身に訴えているのだが、強い吸引力を持ったそこから意識を離す事ができない。
「あっ……んぅ……ああっ!」
快感に魅せられていると、体の中で大きくなっていたものが弾けた。
まるで体の中心から染まっていくようだ。寝台を蹴るようにして足を動かすと、思考を奪ってしまうようなものが薄まる。
「もしかしてイった?」
「……これがイくってやつか」
「イったの初めてだったんだね」
先程自慰などした事が無いと言っている。それなのにそんな事を言ったという事は、その言葉をヴィクトルは信じていなかったという事だ。
その場しのぎの事を言ったのだと思われていた事を、ユーリは不満に思った。文句を言いたくなったのだが、達した事によってしている脱力感が理由で喋る事ができない。
このまま眠ってしまいたい程の倦怠感がしている。練習の後でもこんなにも疲れていた事は無い。乱れていた息が整って来たので体から力を抜き瞼を閉じる。
このまま目を瞑っていれば、眠ってしまいそうであった。ヴィクトルを無視して入眠するような真似はしてはいけない。それは分かっているのだが、瞼を開く事ができない。
「ユーリ、疲れたからって寝ちゃ駄目だよ。これからが本番だっていうのに」
「本番……?」
何の事を言っているのかという事が分からず瞼を開き首を傾げると、履いたままになっていた下着を脱がされた。下着を落としたヴィクトルに直接秘裂を触られる。
「濡れてるね。ユーリは濡れやすい方なんだね。もうここべとべとになってる」
ヴィクトルの発言は、体が火照るほどの羞恥心を感じるものであった。
初雪に赤い花を散らすように朱を頬に注いでいると、蜜口に指が触れる。入り口を軽く何度も触った後、ヴィクトルはそこを濡らしているものの滑りを借りてするりと体内に指を潜り込ませて来た。
「やぁっ」
「狭いね」
何故そんなものを沈められてしまったのかという事が分からず困惑していると、ヴィクトルが蜜液によって濡れている体内で指を抽挿させる。
「やっ……やぁ……」
閉じている場所に無理やり異物が入り込んでいるようである。不快感に顔を歪めて嫌がったのだが、ヴィクトルは媚肉を指で触るのを止めようとしなかった。
何を言えば止めて貰う事ができるのだろうかという事を額に汗を滲ませながら考えていると、接合部の上にある肉芽をすっと指で撫でられる。
「あっ……んぅ……そこ止めろ……」
「ここ気持ちいいよね。直接触った方が気持ちいいでしょ? もっと気持ちよくなろうね」
ヴィクトルの言う通り、下着の上から触られるよりも直接触られた方が快感は強いものであった。
しかし、もうそこを触るのは止めて欲しかった。それは、先程上り詰めたばかりであるので疲れているからだけでは無い。強過ぎる快感は、畏怖すらしてしまうものであったからだ。
「やだっ……やっ……あっ……」
体の中で動いている指の事など忘れてしまいそうになる。
「固くなってこりこりしてて触り心地が良いよ」
「やだっ……やめろ……やだっ……あっ……」
言葉で辱められているというのに、体の熱が全くひこうとしない。それどころか、体が熱くなるばかりであった。その熱は頭の中を溶かしてしまいそうなものである。
「イきそう?」
「イきそ……あっ……んぅ……」
追い詰められてしまいそうであるという事を認める事によって、今にも迫って来ているものに飲み込まれてしまいそうになる。
ユーリを見詰めたままになっているヴィクトルが目を眇めた。それを見詰めているうちに、体の中で熱いものが吹き出した。
「んぅ――っ」
体を大きく揺らした後、自然とびくびくと痙攣しているように体を震わせてしまう。
このままどろどろに溶けてしまいそうである。二度も達したからなのだろう。眠ってしまいたいほど疲れていると、体の中に埋まったままになっていた指が出ていき、そこに今度は別の物が触れる。
蜜口に触れている太く大きな物が、一体何であるのかという事が分からない。しかし、確かめようと思うほどの気力は無かった。
「えっ……?」
大きな物が体の中に入って来た事により恐怖が襲って来た。
蜜壺へと埋まって来ている物は、先程まで体を貫いていた物よりも遙かに大きい。ユーリは背中を使って逃げようとしたのだが、ヴィクトルに太股を掴まれてしまった事により離れる事ができなくなる。
「やだっ……やっ!」
剛直が体を串刺しにしていく。何が起きているのかという事をまだ把握する事ができていなかったが、絶望に近いものを感じる。
嫌悪感から瞳に涙を滲ませていると、体に埋まっていった物の動きが止まった。
「狭いな」
「やっ……もう抜け……」
ヴィクトルの体が密着している事から漸く、男性器が埋まっているのだという事が分かった。ヴィクトルの肉棒は腕ほどの太さがあるようだ。そんな物で貫かれていて苦しく無い筈が無い。
「お前の中で出さないと終われないんだよ」
「無理……苦しい……」
息をする事によって、自ずと開いている体内を閉じようとした。しかし、中に異物が挟まっているので閉じる事ができない。その為異物感がして苦しい。
「何度もすれば慣れるよ。それまで我慢してくれ」
選択肢はユーリには無いのだと言うようにしてヴィクトルは言った。そう言われた瞬間は忿懣したのだが、体を揺さぶられているうちにヴィクトルがそんな風に言うのは当然であるという事に気が付いた。
どんなに嫌でも子供を孕むまで、この行為に耐えなくてはいけないのだ。早く終わって欲しいと願いながら、ユーリはヴィクトルの大きな物を受け止め続けた。
四章 石楠花
呼び鈴の音が聞こえて来ると同時に、ユーリは伏せていた顔を弾かれるようにして上げる。
「来た」
今日来る予定になっている相手は、まるで体内に時計が埋め込まれているかのように時間に正確な日本人だ。約束の時間十分前になっているので、家にやって来たのは思っている人物で間違い無い。
ソファーに寝転んでスマートフォンを見ていたユーリは、七分丈のズボンのポケットにそれを入れながら起き上がる。
ソファーを離れると、心を弾ませながら玄関まで行く。
ヴィクトルの元で暮らすようになってから、既に三ヶ月が経過している。その間に会ったのは、一緒に暮らしているヴィクトルと近所にある店の店員ぐらいだ。ヤコフにすらもこの三ヶ月対面していない。
選手を外されたので練習をする必要が無くなったが、練習場に行ってはいけないと言われてはいない。行けば滑らせて貰えるのだろうが行っていないのは、女であるという事を皆に知られている筈だからだ。
皆にとってユーリは偽り者でしかない。冷たい目で見られる事になるに決まっている。
事情を話せばまだそんな視線がましになるのかもしれないが、リンクメイトの殆どとそんな話しをする事ができるほど親しく無い。
三ヶ月振りにヴィクトル以外の相手とまともに話す事ができるのだと思うと、自然と頬が緩んでしまう。ダイニングキッチンを出て玄関まで行くと、訪問を喜んでいる事を相手に知られないようにユーリは表情を取り繕う。
それは、やって来ている相手がそんな顔を見せる事ができない者であるからだ。
扉を開けると、眼鏡を掛けた垢抜けない容貌をした青年が姿を現す。日本人にしては大柄な青年は、ユーリの姿を見ると眼鏡の奥にある目を眇めた。
「ユリオ。久しぶり」
今日やって来る事になっていたのは、ロシアにやって来てからそろそろ一年が経過する勇利だ。
同じ名前であるので、勇利からはユリオという渾名で呼ばれている。他にも、ヴィクトルにも勇利と共にいる時は区別をする為にその名前で呼ばれている。
「よく来たな。上がれよ」
まるで自分の家であるかのようにして勇利に向かって言った。
「お邪魔します」
「靴はそこで脱いだら良いから」
日本人は家の中で靴を脱ぐ習慣が無いので、どこで靴を脱げば良いのかという事を悩むかもしれない。そう思いユーリは、玄関を入って直ぐの場所にある棚を指さしながら言った。その横には、ユーリが外に出る時に履いている靴も置いてある。
「有り難う」
棚の横に勇利が向かったので、その後に履くスリッパを出す。再び有り難うと言ってスリッパを履くと、勇利は被ったままになっていたニット帽と茶色のダッフルコートを脱いだ。
勇利は野暮ったい格好をしている事が多い。ヴイクトルはそんな勇利の格好が気になるようだが、ユーリは気にした事が無い。
「これお土産」
現れた時から持っていた、決して大きく無い茶色の紙袋を勇利が差し出して来た。
「わざわざ何か買って来てくれたのか」
何を持って来てくれたのだろうか。紙袋の見た目とわざわざ買って来てくれたという事から、中身は食べ物である気がする。
お菓子なのかもしれない。そう思うと口の中に唾液が溢れる。早く食べたくなり、紙袋の中から白い箱を取り出す。
「ドーナツだ!」
蓋を開けた事によって見えたのは、白や白群。鴇色などという鮮やかな色のドーナツであった。
見た目も美味しそうであるのだが、漂って来ている香りも甘く食欲をそそる物である。
「後で食べようね」
今直ぐに食べたいと思っている事を勇利は察したようだ。そんな事を言われると、手を伸ばす事ができなくなってしまう。
食欲によって今まで気が付かなかったのだが、ここで食べるのは行儀が悪い行動であるという事に気が付く。その事もあって、ドーナツを食べるのは後にする事にした。
「こっち来いよ」
渋々箱の蓋を閉めると、勇利と共に部屋の奥へと入って行く。
勇利を先程までいたダイニングキッチンに連れて行くつもりだ。
家主のようにして出迎えたが、ここは自分の家では無くヴィクトルの家である事は分かっている。
ヴィクトルと懇意にしている相手であっても、ヴィクトルが留守の間勝手に上げる事はできない。ヴィクトルには今朝、勇利が来る事を伝えている。そして、その部屋に通すという事を告げている。
「さすがヴィクトルの家って感じだね」
部屋の中に入ると、物珍しそうな顔で勇利はダイニングキッチンの中を見ていった。そんな勇利の態度は、この部屋に入るのが初めてであるとしか思えないものである。
「あれ、来た事無かったのかよ」
ここに来てから一度も勇利は来ていない。それは、ユーリがいるからなのだと思っていた。
ヴィクトルとコーチと弟子という関係を超えて仲が良いので、ユーリが滞在するようになる迄は頻繁に遊びに来ていたのだと勝手に思っていた。
「無いよ」
勇利を家に招きたくないとヴィクトルが思っているとは思えない。その為、何故自宅に上げた事が無いのかという事が不思議である。
「そっか。お前だったら良いって言うに決まってるから、また来いよ」
勇利が遊びに行きたいと言った事が無いからなのかもしれない。そして、遊びに来たいと勇利が言わないので、ヴィクトルは誘っていないのかもしれない。
「分かったよ」
勇利が頷いた事に満足すると、邪魔になるコートを勇利から受け取る。それをハンガーで部屋の端に掛けると、先程貰ったドーナツが食べたくなった。
ドーナツを食べるのならば飲み物が必要だ。
「何か飲み物取って来るけど、お前も飲むか? ドーナツ食ったら喉渇くだろうし」
「そうだね。ある物で良いよ」
「何があったかな」
冷蔵庫にはユーリのオレンジジュース。それに、ヴィクトルの酒。食事の際に飲む為の物であると共に、酒を割る為の炭酸水が常に入っている。
その他には、ヴィクトルが人から貰って来た飲み物が入っている。最後に冷蔵庫を開けた際に、普通のコーラ飲料とチェリー風味のコーラ飲料を見かけた。ヴィクトルが飲んでいなければ、それらがまだある筈だ。
台所にある冷蔵庫まで行くと、ユーリは扉を開ける。
ヴィクトルが飲んでいなかったので、どちらも冷蔵庫にあった。
「コーラとチェリーコークのどっちが良い?」
「チェリーコーク、最近飲んで無いな」
日本人である勇利はチェリーコークを飲んだ事が無いかもしれないと思いながら質問したのだが、飲んだ事があるらしい。
「じゃあチェリーコークで良いか?」
「うん」
勇利がチェリーコークにしたので、ユーリも同じ物にする事にした。
冷蔵庫から赤紫色の缶を取り出し、食器棚からグラスを二つ取り出す。流し台のキッチンカウンターで、それに氷を入れてからチェリーコークを注ぐ。
普通のコーラ飲料と見た目は殆ど変わらないチェリーコークが入ったグラスを持ってダイニングまで戻ると、ユーリは勇利にグラスを差し出す。
「ほら」
「有り難う」
「そこ座って良いぜ」
許可も無く勝手に座ってはいけないと思ったのだろう。側にソファーがあるというのに、勇利はそこに座らずに立ったままになっていた。
グラスを受け取った勇利がソファーに漸く座ったので、ユーリは持って来たもう一つのグラスを横にある黄色のスツールに置こうとする。それは椅子であるのだが、物置としてヴィクトルが使っていたのでユーリもいつもそう使っている。
「持つよ」
台所に残して来たドーナツを取りに行く為にグラスを置こうとしたのだという事に、勇利は気が付いたのだろう。そう片手を差し出しながら声を掛けて来た。
「悪い」
勇利がグラスを持っていてくれるようなので頼む事にした。勇利にグラスを渡し台所まで戻ると、銀色のキッチンカウンターに置いてある箱の中身を食器棚から取り出した皿に置く。
目の前にすると、再びドーナツが食べたくなってしまった。勇利の元まで運べば食べる事ができると思いながら、皿を持ってソファーまで行く。
ソファーに座るまで我慢するつもりであったのだが、その前まで行くと耐える事ができなくなり一つ手に取り齧り付いてしまった。
「うめー」
「それは良かった」
皿をスツールに置くと、勇利からグラスを受け取り横に座る。
勇利が買って来てくれたドーナツは、美味しそうな見た目をしているだけで無く味も良かった。甘いのだが決して甘すぎない物で、今食べている物はキャラメルの味がした。
他の色の物は味が違うのかもしれない。そう思うと、まだ食べている途中であるというのに、別の物も食べたくなってしまう。
勇利が買って来てくれたドーナツは全部で六つだ。二人なので三つ食べる事ができるという事だ。残り二つはどれを食べようかという事を考えながらドーナツを頬張っているうちに、手の中にあるドーナツが無くなった。
「あ、悪い。お前も食べるよな」
次のドーナツを取ろうとした時、座ったままでは勇利の手が届かない場所にドーナツが乗った皿を置いてしまっている事にユーリは気が付いた。
食欲旺盛な勇利が持って来るだけで食べない筈が無い。手が届かないので食べていないのだろう。
皿を差し出すと勇利がドーナツの一つを手に取った。
「ありがとう」
すんなりと取った事から、思っていた通り手が届かないので食べていなかったのだという事が分かった。食欲によってその事に気が付かなかった事を、ユーリは反省した。
「それで良いのかよ?」
確認をしたのは、勇利が取ったのが最も地味な見た目の物であったからだ。わざわざそれを選んだのは、遠慮をしたからなのかもしれない。
「これで良いよ」
「遠慮しなくても良いんだぜ。そんな地味なのにしなくても」
何故そんな事を言って来たのかという事が分かったという様子へと勇利がなった。
「僕はこっちの方が良いから」
「そうなのか」
控えめな笑みを浮かべながら勇利が言った言葉を不思議に思いながら、ユーリは膝の上に皿を置く。そこに置いたのは、勇利の手が届くからだ。
(そういや、日本で食べたお菓子って地味なのが多かったな)
ヴィクトルを追いかけて日本の長谷津まで行った際、勇利の実家である温泉施設で一週間ほど過ごしている。その間食べた日本のお菓子は、どれも地味な見た目をしていた。
甘さも控えめの物ばかりであったのだが、どれも美味しかった事をよく覚えている。勇利が地味な物を選んだのは、そちらの方が慣れ親しんだ物であるからなのだろう。
二つ目のドーナツを手に取ると、飲み物を飲みながらドーナツを食べていく。
思っていた通りドーナツによって味が違っていた。二つ目のドーナツはチョコレート味であった。こちらの方が好きな味だと思いながら食べていくうちに、それも無くなってしまった。
最後のドーナツを食べようと思っていると、先に勇利の手が皿に伸びて来た。
「これ何処で買ったんだ?」
美味しかったのでまた食べたい。行ける距離にある店ならば行きたいと思いながら勇利に尋ねた。
「練習場の近くに新しくできたお店だよ」
「へー」
ここから練習場までは、車でなければ行く事ができない距離だ。ヴィクトルに買って来て欲しいと頼むしか無いだろう。
ヴィクトルも甘い物が好きであるので、美味しいドーナツがあると言えば買って来てくれるかしれない。そ可能性は高いので言ってみよう。
ユーリもドーナツを取り食べ始める。
最後のドーナツは苺味であった。食べ終えてしまうのを寂しく思いながらも食べると無くなってしまった。その途中皿に手を伸ばして来た勇利も、ユーリを追うようにして最後のドーナツを食べ終えた。
邪魔になる皿をスツールに置きチェリーコークを飲む。それを飲み終えグラスもスツールに置くと、同じようにチェリーコークを飲んでいた勇利から話し掛けられる。
「元気そうで良かった」
安堵したようにして勇利がそう言ったのは、事情を知っているからだ。
勇利は現在ユーリも使っていたリンクを使っているが、ロシアの選手では無いので、同じリンクを使っている他の選手と交流が殆ど無い。その為、ユーリの事は勇利の耳には入っていなかった。それにも拘わらず事情を知っているのは、ユーリが話したからだ。
数日前、ユーリが練習場に姿を見せなくなった事を不審に思った勇利から連絡があった。
その時勇利は、ユーリが病気で練習をする事ができないのだと勘違いをしていた。それ以外に、リンクに現れない理由を思い浮かばなかったそうだ。
勇利の勘違いを否定した後、何も知らない勇利に本当の事を話すべきかという事をユーリは悩んだ。その結果話すと、こうやって会いに来てくれる事になった。
「ユリオが女の子だなんて全く気が付かなかった」
まだ信じられないという様子で勇利は言った。
好意を持っている相手であるからなのだろう。矯めつ眇めされても不快になる事は無かった。
「今まで俺が女だって事に気が付いた奴なんかいねえんだか、お前が気が付かないのは当然だろ」
勇利の事を鈍感であると思いそう言ったのでは無い。情に厚そうな見た目に反して、他人に対する興味が薄い事を知っているからだ。
笑って勇利はユーリの言葉を受け流した。それは、何故そんな風にユーリが思っているのかという事を察し、それに対して反論する事ができなかったからなのだろう。
薄情であるという自覚が勇利にはあるのだろう。
「それでどうなの?」
好奇心旺盛とは言えない性格をしている勇利が現状を尋ねて来たのは、どうなのかという事を知りたいからでは無い。ユーリが聞いて欲しいと思っている事を知っているからだ。
数日前連絡があった際、こんな事を勇利に言っても仕方が無いという事は分かっていたのだが、話す相手がいないので誰かに聞いて欲しかった不満を軽く話していた。
先日話した際には話す事ができなかった不満が、堰を切ったように口から出る。
「毎日毎日セックスしなきゃいけねえの辛い。この生活がまだまだ続くんだって思うと嫌になる。それに、セックスの時ヴィクトル変なことばっかりするし」
「変なことって?」
質問して良いのだろうかという様子で勇利は言っていた。
ただ聞くだけで無く話しに反応をして貰う事ができた事により、一層話しを聞いて貰いたくなる。
「俺が感じてるの見るのが好きだって言って、舐めたり触ったり変な事言ったり変な格好させんだよ」
「そうなんだ」
勇利が引いているのが反応から分かり、言い過ぎてしまった事をユーリは知った。
「悪い」
今までそういう話しを誰かとした事が無かったので、何処まで話して良いのかという判断がつかなかった。
「いや、良いよ。聞いたの僕だし」
これ以上この話しを続けない方が良いのだろうかと迷っていると、勇利からそう声を掛けられた。
気を遣ってそう言ってくれたのかもしれないが、そう言われると続きを話したくなる。まだ話し足りていなかったので、ユーリは続きを話し始める。
「色々されて気持ちよくない事はねえんだけど、毎日だと疲れる。毎日セックスばっかだからってのもあんのかも」
「そう。気分転換に誰かと遊びに行ったら。ミラとか」
ミラ・バビチェヴァは三つ年上のリンクメイトだ。
ミラは面倒見が良い性格をしている。そんなミラは孤立していたユーリを頻繁に構っていた。その為、リンクメイトの中で最も話しをする相手であった。
「まだミラとは会えねえ」
ミラの事も長い間騙していた。そんなミラにどんな顔をして会えば良いのかという事が分からない。
「そう」
何故そんな風に言ったのかという事を察したのだろう。勇利はそれ以上その事について触れる事は無かった。
数日前に連絡があった際も今も、勇利はこの状況から逃げ出した方が良いのでは無いのかという事を言って来る事は無かった。それは、そんな事を言って本気にされても責任を取る事ができないからだけでは無いだろう。
それが無理な事である事に、ロシアについて詳しくなくともなんとなく気が付いているのだろう。
「じゃあ、ヴィクトルにどっか連れて行って貰うとか」
「他の奴が言ったら連れて行ってくれるだろうけど、俺が言っても連れて行ってくれる筈がねえよ」
他の相手に対しては人当たりの良いヴィクトルに、ユーリは以前から素っ気ない態度を取られている。そんなヴィクトルの態度は、スケート連盟からの命令を受けてから一層冷たいものへとなっていた。
ヴィクトルの態度が悪化したのは、面倒ごとに巻き込まれてしまった事に忿懣しているからなのだろう。
「ヴィクトル、ユリオには何故か冷たいよね」
何故そんな態度で接するのかという事が、不思議であるというようにして勇利は言った。
ヴィクトルがユーリに対してだけ態度が冷たい事について、勇利から言及された事は今まで無い。その為その事に気が付いていないのだと思っていたのだが、言わなかっただけで気が付いていたようだ。
以前から気が付いていたのだとは思えないので、ロシアに来てユーリと共にいるヴィクトルの姿を見る機会が増えてから気が付いたのだろう。
「何でなのか俺にも分からねえ。多分、俺の事が嫌いなんだろ」
それ以外に他の相手とは違う態度を取られる理由が考えられないので、そうであるとしか思えない。
「そうかな?」
勇利はそうであるとは思えないという様子で言っていた。
「そうだよ。そうじゃなきゃ、何で俺にだけ冷たいんだよ」
そうであるとは思えないのだが、それに対して反論をする事ができないという様子で勇利はある。
「俺のせいで面倒に巻き込まれたから、前よりずっと俺に対する態度が冷たくなったし」
「そう」
同情したようにして勇利は言った。
何も解決していないが、それでも溜まっていた不満を話した事によって胸が軽くなった。話しを聞いてくれた勇利に感謝したのだが、それを言えるような素直な性格では無い。
心の中で感謝する事しかできなかった。
ヴィクトルが戻って来るまでいるのだと思っていたのだが、女の子しかいない部屋に長居をすると誤解されてしまうと言って、勇利はこの後帰ってしまった。
女扱いされたのが初めてであったのでその事に驚くと共に、誰もそんな誤解などしないと思った。それを勇利に伝えたのだが、ここにこれ以上いる事はできないと言うだけであった。
五章 木蓮
美しい曲線を描いたグラスに入っているオレンジジュースを飲みながら、ユーリは目の前にいるヴィクトルに視線を遣る。
ヴィクトルは手に持っているタブレットを見ながら珈琲を飲んでいる。ヴィクトルと同じように珈琲を飲まずにジュースをユーリが飲んでいるのは、珈琲が飲めないからだ。
大人が飲む物であるので憧れはあるのだが、苦いだけであるとしか思えず飲む事ができない。
先程ヴィクトルと共に、昨日買って来てくれたデリカテッセンを朝食として食べた。
ヴィクトルが買って来たのは、茸とほうれん草のキッシュ。そして、サラダとスープである。スープは鶏肉と野菜のトマトスープとクラムチャウダーの二種類あった。どちらを食べるのかという事を選ばせてくれたので、ズッキーニを使っている為緑色をしたクラムチャウダーをユーリは選択した。
ヴィクトルがデリカテッセンを買って来たのは、サラダが美味しいと評判の店だそうだ。そうヴィクトルが言っていた通り、新鮮な野菜と使ったサラダはとても美味しかった。また食べたくなるような味であった。
ここに来てから食事はヴィクトルが買って来たデリカテッセンか、頼んだデリバリーばかりだ。ヴィクトルは全く料理をしないので、食事はデリカテッセンかデリバリーか外で食べるかばかりであったらしい。
(そろそろデリカテッセンもデリバリーも飽きたんだよな)
自宅にいた時食事は自分で作る事が殆どであった。
決して料理が好きだという訳では無い。それにも拘わらず面倒な自炊をしていたのは、健康や体型の事を考えてでは無い。
健康の事を考えるような歳ではまだ無い。そして、スケーターとしては幸運であるのだろう。どんなに食べても太らない体質であるので、食べる量や食べる物について節制した事は今まで無い。
外食は高いからという理由だけで自炊していた。
仕方無く作っていたのだが、長年遠征の時以外は毎日料理をしていたからなのだろう。作らないと作りたくなってしまった。
(なんか作りてーな)
ヴィクトルが買って来るのや頼むのは、ロシア料理よりも西洋料理が多い。そちらの方が好きなのかもしれない。しかし、ユーリの得意料理はロシア料理だ。
料理を始めたばかりの頃は、実家で祖父に教えて貰ったロシアの家庭料理を作っていた。作れる物を増やそうと思いインターネットで調べて作るようになった物も、ロシア料理ばかりである。
「ユーリ」
「何だ?」
声を掛けて来たヴィクトルは、手に持ったままになっていた花弁のような形をしたカップをテーブルに置いた。
いつもならばヴィクトルは、練習に行く為に出かけている時間である。しかし、今日は練習もその後のコーチ業も休みであるので家にいた。
「これから出かけようか」
「何処に?」
ここに来てヴィクトルと共に出かけたのは、食事しに行った時だけである。先程食事をしたばかりであるので、それが目的であるとは思えない。
「直ぐに分かるよ」
教えるつもりが無いのだという事が、その返事から分かった。
何処に行くつもりであるのかという事を知りたい気持ちはあったのだが、追求しても無駄であるので諦める事にした。
そして、嫌だと言うつもりは無い。それは、何処に行くつもりであるのかという事は分からないが、家に居るのは退屈であるので出かけたかったからだ。
「分かったよ。出かける準備すれば良いんだな」
「ああ」
飲みかけであるオレンジジュースを飲みグラスを台所に運ぶと、ユーリはヴィクトルが使ったカップと共にそれを洗う。
わざわざヴィクトルが使った物まで洗ったのは、洗い物がシンクに残っているのが嫌だったからだ。それ以外に理由は無い。
ヴィクトルが運転している車が停止する。
「着いたよ」
掛けていたサングラスを外したヴィクトルがシートベルトを外したので、車に乗った後ユーリも締めていたシートベルトを外す。
ヴィクトルは車に乗った際、必ずサングラスをしていた。車に乗る際はいつもサングラスをしているのだろう。
小柄なユーリと対照的に大柄なヴィクトルは、華がある美形である。そこに存在するだけで、周りの空気を変えてしまうような男だ。
そんなヴィクトルにはサングラスがよく似合っていた。サングラスをしている姿は、映画の中に出て来る俳優のようだ。
車を降りるとヴィクトルも車を離れた。
ヴィクトルが車を停めたのは、世界で最も初期に作られた百貨店の駐車場だ。何度も改修を重ねているその百貨店の中には、今は裕福層向けの店が入っている。
自宅から行く事ができる距離にあるのだが、高級百貨店であるここに行く用事が無かったので来たのは初めてだ。
持ち物の殆どをヴィクトルは高級ブランド品で揃えているので、ここにはよく来るのかもしれない。
何か買いたい物があって、ここに来たのかもしれない。しかし、それならばわざわざユーリを連れて来る必要があるとは思えない。
不思議に思いながらヴィクトルの後を付いて行く事によって、建物の中へと入る事になった。
歴史的価値のある建造物のような見た目をした建物の中もまた趣があるものであった。まるで美術館や博物館の中にいるようだ。
一階には化粧品の店を集めた区画と鞄売り場があるようだ。ヴィクトルが用事があるのはそんな一階では無いらしい。鞄売り場を抜けた先にあるエレベーターに乗り、二階へと移動した。
二階にあるのは、若い女性向けの服屋ばかりである。こんな所に何の用事があってやって来たのかという事が分からない。目的を知りたくて、ユーリは隣に立っているヴィクトルへと視線を遣る。
ヴィクトルはユーリの視線に気が付いていないような態度であるが、こんなにもあからさまに見られているというのに気が付かない筈が無い。気が付いていながら無視をしているのだろう。
顔を歪めていると、ヴィクトルがフロアの中に並んでいる店の一つへと入って行った。
その店の入り口にあるマネキンは、他の店の前にある物よりも贅沢であるのだが婉然たる物だ。その事からだけで無く、中にある室内装飾からも一際高価な物を売っている店なのだという事が分かる。
こんな高そうな服屋に入ったのは初めてだ。
決して服に興味が無い訳では無い。それどころか、服を買うのは好きな方だ。しかし、浪費したくないからだけで無く、服など着る事ができればどんな店の物でも同じだと思っているので、所謂ファストファッションと呼ばれている安価な服を売っている店でばかり購入している。
物珍しさから店の中を落ち着き無く見ていってしまう。
店の中に置いてあるのは女物の服だけだ。ヴィクトルが着るような服は売っていないので、誰かに贈る為の物をここに求めに来たのかもしれない。
ヴィクトルが足を止めると、店の雰囲気に調和した服装と髪型をした女性がやって来た。
「何かお探しでしょうか?」
長い髪を美しく纏めた清潔感のある女性は、声を掛けて来た台詞の内容からだけで無く、荷物を持っていない事からもこの店の店員であるのだという事が分かる。
「彼女に似合う服を選んでくれないか? 予算は気にしないでくれ。彼女に似合う服ならば、どんな値段でも構わないよ」
「なっ!」
ユーリの服を買う為に、ヴィクトルはここに来たらしい。
予想もしていなかった理由であったので、ユーリは目を見張った。ユーリが隣で驚愕しているというのに、ヴィクトルは全くそれを意に介していない様子である。
「かしこまりました。では、こちらへ」
店員に促されたが、何故ヴィクトルがユーリの服を買おうとしているのかという事が分からないので従う事ができない。
狼狽していると、ヴィクトルから催促するような視線を向けられる。店員に付いて行けという事なのだろう。まだ理由を知る事ができていないが、今直ぐには教えてくれそうに無い様子であるのでそれに従う事にした。
ユーリがやって来るのを待っている店員の元へと行く。
「お好みのお洋服などありますか?」
「ねえ」
男物の服ならばこんな風な物が好きだというのはあるが、女物の服で着たいと思う服は無い。店員が尋ねて来ているのが、今着ているような男物では無く女物であるのだという事は分かっている。
「そうですか。かしこまりました。好きなお色などはありますか?」
「特にねえ」
服を探す事に協力する気が無くてそんな風に答えたのでは無い。女物の服を自分が着るという事を想像すらした事が無かったので、何も思い浮かばなかっただけだ。
ユーリのそんな返事を聞いても、店員は人当たり良い笑みを浮かべたままであった。
店員が歩き出したのでその後を付いて行く。前を歩いていた店員は、ワンピースが並んでいる一画まで行くと、足を止めてユーリと服を交互に見始めた。その表情は真剣なものである。
ディスプレイに掛かっているワンピースは、店の入り口にあるマネキンが着ていた物と同様に燦たる物ばかりだ。どれを店員がその中から選ぶのかという事が気になる。
「こちらのワンピースなどいかがですか?」
そう言いながら店員は、ディスプレイから取り出したワンピースをユーリに見せた。
「ワンピースってよりもドレスじゃねえか」
店員が手に持っているのは、深紅の薔薇を思わせる赤いワンピースだ。オフショルダーになっているそんなワンピースには、細かな刺繍が施されている。
爛熟しているように見えそうな色であるというのに少女趣味であると感じるのは、スカートの部分がふわりと広がり首元が花弁のように波打っているからなのだろう。
「もう少し落ち着いた物の方がよろしかったですか?」
「何でも良いよ」
気に入らないと思い先程の台詞を言ったのでは無い。
普段着るには華美過ぎるのでは無いのだろうか。周りの者の視線を集める事になるのでは無いのだろうかと思ったからだ。
「では、ご試着されますか?」
「そうだね。試着して来なよ」
ユーリが返事をする前に、側までやって来ていたヴィクトルがそう言った。
わざわざ試着する必要など無いだろう。細身であるので、買った服が大きすぎる事はあっても小さすぎた事は無い。丁度良い大きさでは無かっても、着る事ができない事は無い筈だ。
そんな理由から試着する必要は無いと思っていたのだが、ヴィクトルが試着をさせたいようなので従う事にした。
「では、こちらへ」
店員に視線をやるとそう声を掛けられた。視線をやった事により、試着する事にしたのだという事へと店員は気が付いたようだ。
店員の後を付いて行き、店の端にある試着室まで行く。
高級そうな店の中にある試着室は、簡素な物では無く優雅な物であった。まるで小さな部屋のようである。カーテンによって区切られているそんな試着室の中に入ると、店員から腕に掛けていたワンピースを渡される。
店員が臙脂のカーテンを閉めたので、ユーリは絨毯が敷き詰められた更衣室の奥に行く。
姿見の横には優美な淡香の革張りの椅子がある。そこにワンピースを置くと、着ている服を脱いでいく。
今日は黒いスキニーパンツと淡い紫色のジップアップのパーカーという格好だ。パーカーを脱ぎズボンを脱ぐと、タンクトップとボクサーパンツという格好へとなる。
ワンピースは肩が出る物であるので、タンクトップを着たままだとそれが出てしまう事にユーリは気が付いた。
タンクトップも脱ぎパンツ一枚になる。心許ない気持ちになりながら、ユーリはワンピースを手に取った。
先程は気が付かなかったのだが、ワンピースは触り心地の良い生地でできていた。着ると気持ち良いだろう。肌触りが気になりながら、ワンピースを下から被る。
「どうやって着るんだ?」
下から被って着るのだと思っていたのだが、実際にそれをした事によりそれでは着る事ができないのだという事が分かった。
女物のような衣装を着た事は何度もあるのだが、女装をさせようなどと考える粋狂な人間は周りにいないので、女物を着るのはこれが初めてだ。その為、女物の服の着方に悩んでしまう。
ワンピースを見ていく事により、ユーリは横にファスナーがある事に気が付いた。
これを外してから被るのかもしれない。そう思いファスナーを下ろし、再度ワンピースを下から被る。
「これで良いみてーだな」
今度はワンピースを着る事ができた。正解であったのだという事が分かり胸を撫で下ろすと、ファスナーを上げ先程脱いだ服を手に取る。
部屋の奥に鏡があるのだが、自分の格好が気にならなかったのでそれで確認せずにユーリはカーテンを開く。
外には、先程ここまでユーリを案内した店員と共にヴィクトルの姿があった。談笑をしていた二人の視線がユーリに向かう。
ユーリの姿を見ると同時に店員が明るい顔へとなった。
「よくお似合いですね。まるで絵本に出て来る妖精のようですね。こんなにも可愛らしかったら不安になりますね」
ユーリへと向けていた視線を、店員がヴィクトルに移した。店員の発言から、ヴィクトルの妹か何かだと思われている事が分かった。
ヴィクトルとは似ている部分が一つも無い筈だ。
髪の色も瞳の色も顔立ちも全く違う。ユーリは気性が激しそうに見えるのだが、ヴィクトルは反対に温厚な性格をしているように見える。それなのにそんな勘違いをしたのは、他に関係を思いつかなかったからなのだろう。
ヴィクトルとの年齢差は十二歳ある。友達同士には見えない年齢であるだけで無く、そんな雰囲気が無いからだろう。実際に友達では無いので、それは当然だ。
「そうだね」
本気でヴィクトルがそんな事を思う筈が無いので、同意をしたのは調子を合わせる為なのだろう。
試着室から出る為に、中に入る時に脱いだ靴を履こうとする。しかし、先程まで履いていたハイカットスニーカーがそこから無くなっている事に気が付いた。
その代わり、ワンピースよりも少し濃い色をしたピープトゥが置いてある。ワンピースによく合いそうな物であるので、これを先程まで履いていた靴の代わりに履けば良いという事なのだろう。
今まで女物の服を着た事が無いので、当然ヒールのある靴など履いた事が無い。安定感が悪そうな細く高いヒールの靴を履いて、ふらつかないのかという事を不安に思いながらも靴を履く。
(意外に安定感があんだな)
憂患していたように蹌踉けてしまう事は無かった。
女性の多くは、こんな靴を履いて何事も無く歩いている。走っている者すらも見かける。それを考えると、安定感があるのは当然なのかもしれない。
靴を履き終えるのを待っていた店員に、小振りな真珠のネックレスを首に付けられる。首元が大きく空いているデザインでワンピースがあるので、何も付けていないと首が寂しいと店員は思い用意したのだろう。
「いかがですか?」
店員が離れたので姿見に視線を遣る。
「良いんじゃねえのか」
全く女物の服を着た自身の姿を想像する事ができなかったのだが、女物の服を着た己の姿を見ても違和感はしなかった。この服の方が本来の性別からは正しい物であるのだから、それは当然なのかもしれない。
そして、女物の服を着た自分の姿を見て不快になるかもしれないと思っていたのだが、そんな気持ちが沸き上がって来る事は無かった。
「いかがですか?」
ヴイクトルにも店員は感想を求めた。
「とてもよく似合ってる。君に選んで貰って良かったよ」
褒められた事により満足そうな顔へとなるだけで無く、店員は誇らしげな様子へとなっていた。それは、褒めた相手であるヴィクトルの趣味が良いのだという事が、服装や持ち物などから分かっているからなのだろう。
ヴィクトルは洒落っ気がある事で有名な男だ。
再びこちらを見ていたヴィクトルが、急に訝しげな顔へとなる。
「もしかして上に何も着て無いのかい?」
確認するようにしてヴィクトルは言った。急に様子が変わったのは、上に下着をつけていない事に気が付いたからのようだ。
「そうだよ。タンクトップ着てたんだけど、着たままだと服から出て不格好だからな」
「ブラは?」
「んなもんした事ねえよ」
顔を手で覆うと、ヴィクトルは呆れたような様子で溜息を吐いた。その姿は大袈裟であると思うようなものである。
「してないのは夜だからだと思ってたんだけど、いつもして無かったのか。下着も買ってあげないと駄目みたいだね」
「んなもん買わなくて良いよ。女もんの下着なんか着たくねえ。それに、俺胸ねえから必要ねえし」
今まで男として生活して来たので、女物の下着を身につけた事が無い。その為、そんな物を身につける事に抵抗があった。
「駄目だよ、ちゃんと付けないと。それでも君は女の子なんだから。この後下着を売ってる階に行こう。どうせなら、今着る分だけじゃなくて幾つか買っておいた方が良いね」
ヴィクトルはユーリに、これから毎日女物の下着をつけさせるつもりであるようだ。
「いつもの下着が楽だからそれで良い」
「駄目だよ。付けてないのは恥ずかしい事なんだよ」
恥ずかしい事であると言われると、それ以上嫌だと言う事ができなくなってしまう。諦めて従う事にしたのだが、まだ女物の下着を身につけたくないという気持ちがあったので、分かったと言う事はできなかった。
しかし、ヴィクトルは従う事を決めたのだという事に気が付いたようだ。満足そうな様子へとなったヴィクトルの視線が店員に向かう。
「彼女が身につけている物を全部貰うよ」
「有り難うございます」
ワンピースだけで無く、装飾品と靴までヴィクトルは購入するらしい。
この服をいつ使うのかという事が疑問になる。この服は祝賀会などに参加する際に着るようなものだ。しかし、招宴に参加する予定など当然のことであるのだが無い。
「着替えて来る」
女物の服を着て不快になる事は無かったが、いつまでもこんな格好をしていたくない。ユーリは着替えをする為に更衣室に戻ろうとした。
「その格好のままでいいよ」
「こんな動き難い格好のままでいつまでもいられっか」
「駄目だよ」
ヴィクトルの表情や口調は、逆らう事を許さないものであった。
「クソがっ」
不本意ながらヴィクトルに従う事になり、思わず暴言を吐いてしまった。ユーリの口が悪い事を知り尽くしているヴィクトルは、それを全く気に掛ける事は無かった。
話しが終わるのを待っていた店員に声を掛けると、ヴィクトルは店の端にあるレジに支払いをする為に向かった。
クレジットカードで支払いをヴィクトルが済ませると、先程まで着ていた服が入った紙袋を他の店員が差し出して来た。支払いをしている間に、他の店員が荷物を纏めてくれたらしい。それを受け取り店を出ると、先程言っていた通りヴィクトルに下着売り場へと連れて行かれた。
女物の下着を売っている店は、可愛らしい甘い色で統一されていた。そんな店の中にいるのは、店員も客も女性のみであった。
同性であるので、居心地の悪さを感じる必要は無いのだという事は分かっている。それを感じるべきなのは、全く何も気にしていないヴィクトルの方だ。それでも入ってはいけない場所へとやって来ているかのような気持ちになっていると、更衣室で採寸をされる事になった。
今まで女物の下着を購入した事が無いので、自分のブラジャーのサイズを知らない。計って貰った事によって分かったサイズは、六五のAであった。
平均がどの大きさなのかという事は知らないのだが、それでも普通よりも小さいのだという事は分かっていた。しかし胸が大きくなりたいと思っていないので、それについて何か思う事は無かった。
今日着る分だけで無く幾つか買っておいた方が良いと言っていたヴィクトルは、同じ大きさの下着を幾つも購入した。そんなに必要無いと言ったのだが聞き入れて貰う事ができず、支払いを済ませてしまった。
「有り難うございました」
品の良い笑みを浮かべた女性から下着の入った紙袋を渡される。先程服を買った店で渡された紙袋は上品な濃紅であったが、今渡されたのは淡い色彩の物だ。店の傾向が違っているからなのだろう。
「それじゃあ、準備も整ったし行こうか」
店を離れこれからどうするのかという事を質問しようとすると、その前に隣に立っているヴィクトルがそう言った。
「服を買いに来たんじゃなかったのかよ」
出かけた目的はユーリの服を買いに行く事なのだと思っていたのだが、そうでは無かったのだという事が分かった。これから何処かに行く為に服を購入したらしい。
先程この格好で行く場所として思い浮かんだのは招宴であるが、それは無いだろう。ヴィクトルがこれから行こうとしているのは別の場所である筈だ。
「そうだよ」
「何処に行くんだよ?」
「それは着いてからのお楽しみだよ」
何処に連れて行こうとしているのかという事を全く予想する事ができなかったので答えを知りたかったのだが、ヴィクトルは詰問しても答えそうに無い様子である。
「そうか」
答えを聞き出す事を諦めそう言うと、ユーリは目尻を下げたヴィクトルと共に百貨店を出て車に戻る。
六章 薮椿
美しい景色を堪能する事ができる窓際の席でユーリが食べているのは、洗練された見た目の料理である。
ヴィクトルが運転する車で連れて行かれたのは、近くの美しい薄青の劇場だ。世界的に有名なそこは、バレエとオペラ専門の劇場である。
その劇場には服装規定【ドレスコード】があるのだろう。家を出た時の格好ではこの劇場には入る事ができないので、ヴィクトルは服を購入する事にしたのだと思っていた。
しかし、席まで行きヴィクトルにその事を伝える事によって、昔は正装をして来るのが当たり前の場所であったが、今はどんな服装でも構わないという事を知った。再び何故こんな格好をさせられたのかという事を疑問に思いながら、ユーリはこの劇場で最もチケット代が高い座席からバレエを鑑賞した。
わざわざその席を選んだのは勿論ヴィクトルである。ヴィクトルが支払いをしたので、そんな高い席をわざわざ選ばなくても良いと言う事はしなかった。
幼い頃からバレエを習っていたが、決してバレリーナを目指していた訳では無い。スケートの為だけに練習をしていた。その為、技術を高める為にバレエの映像は何度も観ているが、劇場で観るのは初めてであった。
何故こんな所にわざわざ連れて来たのだろうかと思いながら最初は観ていたのだが、直ぐに引き込まれてしまい気が付いた時には夢中でバレエを観ていた。
そしてその後連れて来られたのが、高級ホテルの中にあるフランス料理店であるここだ。
格式の高い店である事が、内装からだけで無く客層からも分かるこの店で出て来たメニューに書いてあった金額は、昼食の時間であるとは思えないようなものであった。それに驚いている間にヴィクトルが注文したのは、最も高いコースである。
ヴィクトルがここも支払いをしてくれる事が分かっていたので、それについてユーリは何か言う事はしなかった。
その後運ばれて来た料理は、舌を楽しませる物であるだけで無く見目が良い物ばかりであった。
普段食事をする際綺麗に食べる方では無いので、テーブルマナーを知らないと思われてしまう事が多い。しかし、パーティーなどで食事をする機会が多かったのでそのぐらい知っている。ナイフとフォークを使って、周りから無作法だと思われない仕草で食事をしている。
「これ美味いな」
高級感の漂う店であるので行儀良く食べているが、口調まで丁寧なものにするつもりは無い。ここにいるのはヴィクトルだけであるので、そんな事をする必要は無い。
「そうだね。このワインによくあうよ」
ユーリが飲んでいるのは炭酸水であるが、ヴィクトルが食事の合間に飲んでいるのは赤ワインだ。ボトルで取ったので、テーブルの端にはワインクーラーが置いてある。
酒が飲める歳では無いので全く詳しく無いのだが、それでも見た目と上質な物を好むヴィクトルが選んだ物である事から、高価な物なのだという事が分かる。
「ユーリも飲む?」
手に持っていたナイフとフォークを置くと、ヴォクトルはワインのボトルに手を伸ばそうとした。
テーブルにはユーリの分のワイングラスも置いてある。ヴィクトルはそれにワインを注ぐつもりのようだ。
「未成年だぞ」
ユーリが未成年であるという事をヴィクトルが知らない筈が無い。知っていながら酒を勧めて来たヴィクトルに些か呆気に取られた。
「ちゃんと気にするんだ」
感心したようにして言うと、ヴィクトルはワインに伸ばしていた手を戻した。
冗談であるのかもしれないという思いがあったのだが、本気であるのだという事がそんなヴィクトルの発言と反応から分かった。その事により一層呆れた。
「当たり前だろ。それに、十八になっても俺は飲むつもりはねえよ」
「何で?」
心底不思議そうな様子でヴィクトルは言っていた。酒好きであるヴィクトルは、その言葉を理解する事ができないのだろう。
「お前らのせいだ。酔っ払って暴れたり絡んだりしてるの見たら、あんな風になりたくないから飲まないって思うに決まってるだろ」
酒を飲まない事をユーリが決めているのは、ヴィクトルだけで無く勇利も原因だ。
普段の姿を見ていると全くそんな風になるようには見えないのだが、勇利は酒を飲むと豹変する。周りにいる相手に絡み手に負えなくなってしまう。
「俺も?」
何故そこに自分も含まれてしまうのだろうかという顔へとヴィクトルはなっている。
泥酔している間の事を朧気にしか覚えていない者は多いそうだ。ヴィクトルもそうなのかもしれない。その為、自分の酒癖が悪い自覚が無いのかもしれない。
勇利も酔っ払っている間の事は覚えていないそうなので、その可能性はある。
「当たり前だろ。酔っ払って今まで散々俺にも絡んで来ただろ」
「そうだっけ」
全く身に覚えが無いというようにしてヴィクトルは言った。その事から、思っていた通り酒を飲んだ際の事を覚えていないのだという事が分かった。
「それで、何でわざわざ俺にこんな格好させて、バレエなんか観に連れて行ったんだ?」
女であるという事が露見する前であれば、演技の幅を広げる為に連れて行ってくれたのだと思っただろう。しかし、選手を続ける事ができなかった今はそんな事をする必要が無いので、その理由では無い事は間違い無い。
こんな服装にヴィクトルが何故させたのかという事が、未だに分からぬままになっている。
「ユーリにその格好をさせたのは、男の子みたいな格好してるのしか見た事が無いユーリを着飾ったら、どんな風になるのかって事に興味があったからだよ。本当は化粧もしてみたかったんだけどね。それは次の機会の楽しみに取っておくよ」
「そんな理由かよ。で、満足したか?」
漸く知った理由は、そんな事であったのかと思うようなものであった。
「そうだね。楽しかったよ。さすがロシアの妖精って言われてただけはあるね」
ヴィクトルの賛美にユーリは大袈裟なほど顔を歪めた。
「それは、俺が男だってみんな思ってたからだよ。俺が女だって事知ってたら、あそこまで容姿を取り沙汰する事なんか無かった筈だ」
自分の見目が良い方であるという事は知っている。周りから容姿を頻繁に褒められているので、その事が分かっていない筈が無い。しかし、それは決してどの業界でも通用する程では無いとユーリは思っている。
「自分の容姿にもっと自信があるのかと思ってたよ」
己の容姿を利用する事が多かったので、そんな風に思っている者が多い事は知っている。その為、ヴィクトルもそんな風に思っていたのだという事を知っても、腹が立つ事は無かった。
「自信があるんじゃ無くて、他人からこう見られてるって事を知ってるだけだ。使えるもんは使った方が良いから利用したけど、自分の容姿なんてどうでも良い」
容姿を褒められて嬉しいと思った事は一度も無い。綺麗や可愛いと言われると、外見しか見ていないのだと思うだけであった。
「綺麗な方が良いよ。眺めてて楽しいからね」
「お前はそうだよな」
ヴィクトルは美しい物を愛しているだけで無く、己の容姿に自信を持っている。そんなヴィクトルを理解する事はできなかったが、軽蔑するつもりも無い。
「ユーリは俺の容姿にも興味が無いからね」
その事を不満に思ってはいないのだが、そんな相手が周りには他にいないからなのだろう。ヴィクトルは苦笑いを浮かべていた。
「興味ねーんだから仕方ねえだろ。容姿を褒められたいんなら、お前の容姿が好きだって奴のところ行ったら良いだろ。いくらでもいんだから」
ヴィクトルが思っている通り、ユーリはヴィクトルの顔に興味が無い。
ヴィクトルの顔が整っているという世間の評価を否定するつもりは無い。確かにそうであると思うのだが、そう思うだけでヴィクトルの顔を見てその他の感想が湧き上がった事が無い。
「そうだね」
「それで、何でバレエなんか観に連れて行ったんだ?」
服を購入した理由は分かったのだが、そちらの理由はまだ分からないままになっている。
「勇利から、ユリオが可愛そうだから何処か連れて行ってあげたらどうかって言われたからだよ」
「……あいつがわざわざそんなこと」
勇利がヴィクトルにそんな事を言ったのは、先日愚痴を零したからなのだろう。勇利は決してお節介な性格では無いので、わざわざそんな事をヴィクトルに言っていた事を知り驚いた。
「ユリオの事が心配だったからだよ」
「マジかよ。あいつが俺の事心配なんてするなんて」
勇利の事を冷徹な人間であると思っている訳では無い。他人に余り興味を持つ事ができない性格である事を知っていたので、そんな風に思ったのだ。
「勇利はユリオの事を選手として認めてるからね」
「マジかよ。いつからだ?」
去年のグランプリファイナルで勝つ事はできていたが、自分は勇利の眼中に無いのだとユーリは思っていた。
勇利はユーリにとって憧れの選手である。そんな勇利に、いつからそんな風に思って貰えていたのかという事が気になった。
「去年のグランプリファイナルじゃないかな」
「そっか」
確かにそう言われると、あの前と後では勇利の態度が変わったかもしれない。言われるまで気が付かなかったのは、勇利は表情の変化に乏しく考えている事が分かり難いからだ。
日本人にそういう者が多いのだが、日本人であるからそうだと言うつもりは無い。日本に行っている間様々な日本人と接した事により、日本人にも表情豊かな者が大勢いる事を知っている。
「勇利が選手続行する事にしたのは、ユリオの演技のおかげでもあるからね」
「そっか」
グランプリファイナルで勇利が選手を引退するという事を知り、こんなところで止めて欲しく無いという思いを込めて演技をした。気持ちが伝わっていたのだという事を知り、自然と頬が緩む。
「ユリオの演技を見て気持ちが変わったのは、勇利だけじゃないよ」
誰の事を言っているのかという事を推し量る事ができず、ユーリは首を傾げた。
「俺もユーリの演技を見て、やっと戦いたい相手に出会えたって思って選手復帰を決めたんだ」
「マジかよ……」
ヴィクトルが選手に復帰する事を決めたのは、勇利が引退をする事を決意したから。そして、勇利の演技を見て気持ちが変わったからなのだと、今まで勝手に思っていた。
ユーリの演技を見て復帰する事を決めたのだという事を今まで欠片も想像していなかった為、言葉を失ってしまうほど驚いた。
「ライバルって存在にずっと憧れてた。ライバルがいれば、もっと自分を高める事ができる気がしてたから。でも、そんな相手に出会う事ができず来てしまった。もうそんな相手には出会える事は無いんだって諦めてた。そんな時に、ユーリが現れたんだよ」
ヴィクトルの発言は、争う相手がいないと言っているようなものである。不遜であると感じそうなものであるというのに全くそれを感じなかったのは、実際にその通りであるのだという事を知っていたからだ。
ヴィクトルの発言を聞きユーリが思った事は、孤独な王様であるという事は知っていたが、そんな風に思っていた事には気が付かなかった。思っていたよりもヴィクトルは空虚であったのだという事だけである。
同情してしまいそうになったのだが、ヴィクトルはそんな事など望んでいない。それが分かっていたので、ユーリはそんな気持ちを押し止めた。
「ずっと出会いたかったライバルが、こんなに近くにいるとは思っていなかったよ」
ヴィクトルはユーリを見詰めたまま唇で指を押さえた。ヴィクトルは何か考え事をしている時、そんな仕草をする事がある。その事から、ユーリを見たまま何か考えているのだという事が分かった。
過去の事を思い出しているのだろうか。そんな風に感じる様子だ。しかし、いつの事を思い出しているのかという事まで推し量る事はできなかった。
黙ってヴィクトルが再び言葉を放つのを待っていると、目を眇めると共に指を離した。
「正直、ユーリの事はただの弟弟子の一人だとしかずっと思ってなかった。そんな相手よりも自分の方が大切だし優先するのは当然だ。だから、ユーリに振り付けをあげるって約束を忘れちゃったんだろうね」
ヴィクトルが思い出していた事というのは、忘れられてしまった約束を果たして貰う為にユーリが日本まで追いかけて来た時の事なのかもしれない。
ヴィクトルは確かに忘れっぽいが、健忘症では無いのでどんな事も忘れてしまう訳では無い。約束を忘れてしまったのは、その約束がヴィクトルにとって重要な事では無かったからだという事には気が付いていた。
それでも、そうであったのだという事を確信するような事を言われ、硝子の破片が刺さったかのように胸が痛んだ。
「ユーリの演技をグランプリファイナルで見て、やっとライバルに出会えた。戦いたいって思ったのに、直ぐにそんな俺の気持ちをユーリは踏みにじったんだよ」
ヴィクトルから射貫くような強い眼光で見られる。
スケート連盟から命令されて以来ヴィクトルが忿懣していたのは、面倒ごとに付き合わされてしまう事になったからだけであるのだと思っていた。しかし、それも理由であったのだという事を、その発言を聞く事によって知った。
それが分かった事によって、ヴィクトルが立腹するのは当然であると思った。それと共に、ライバルにして欲しいと頼んだ訳では無いのだが、それでも悪い事をしてしまったような気持ちへとなる。
「やっとライバルができたと思ってたから、ユーリが女だって事を知った時ショックを通り越して怒りが湧き上がって来た」
急にヴィクトルの表情が変わり、先程までは張り詰めていた空気であったというのにそれがすっと消え去る。自嘲するようにしてふっとヴィクトルは笑っていた。
「だからって、ユーリは俺よりも十二も年下だ。まだ子供だ。そんな事で怒りをぶつけて良い相手じゃない。それが分かってるのに、何でユーリに対してだけは感情を抑制できないのか自分でも理解できない。確かに子供みたいだって言われる事はあるけど、実際にはお前にじじいって言われるぐらいには大人だ」
じじいと言う声は刺々しいものであった。
ユーリから見れば、ヴィクトルは遙かに年上で大人である。それもあり軽い気持ちでそう言ったのだが、ヴィクトルが思ってた以上にその言葉に傷ついていたのだという事を知った。
それを知っても、尚もその言葉を使うほど捻くれた性格はしていない。もうその言葉を使わない事をユーリは決めた。しかし、それを言ってヴィクトルを安心させる事ができるほど、大人になる事はまだできない。
「だから、相手がユーリ以外だったら、あんな風に怒りをぶつける事は無かったと思う」
顔を顰めたと思うと、ヴィクトルは額に流れ落ちて来ていた髪を鬱陶しそうに払いのけた。
「ユーリ相手だと何故か自分の気持ちを偽れないんだ。気持ちを偽って他人を楽しませるのは、得意な筈なんだけど」
出会ったばかりの時から、ヴィクトルに他の相手とは違い素っ気ない態度を取られていた訳では無い。顔を合わせるようになったばかりの頃は、他の相手と同じように人当たりの良い笑みを向けられていた。
いつからなのだろうか。交流をするようになって暫くが経過してからである気がする。そのぐらいから、ヴィクトルに冷たい態度を取られ素っ気ない事を言われるようになった。
最初は何かしたのだろうかと思っていた。しかし、それから態度が変わらなかった事から、何かあったのでそんな態度になったのでは無いのだという事が分かった。
そして、日本に行った頃にはそんなヴィクトルの態度に慣れていた。
「ユーリが何で性別を偽ってたのかって事は、ヤコフから聞いてる。それでも怒りが収まらなかった事の方が不思議だよ」
何故性別を偽っていたのかという事をヴィクトルに話さなかったのは、それを話したからといってヴィクトルが同情する事が無いという事が分かっていたからだ。そして、ヴィクトルが理由を知りたいと思っていないと思っていたからだ。
「理由を知っても許せないぐらい、俺に期待してたって事じゃねえのか? それか、俺の事がそれだけ嫌いだって事じゃねえのか」
自然と言い方が自虐的なものへとなってしまった。ヴィクトルにその言葉を軽く受け流されるだろうと思って言ったのだが、受け流されてしまう事は無かった。
「ユリオにはそれだけ期待してたからって事は確かにあるんだろうけど、それだけじゃないと思う。でも、嫌いだからっていうのは違うよ。俺の今までの態度考えたら、ユリオにそんな勘違いされるのは仕方ないんだろうけど、ユリオの事は嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃねえのかよ」
冷たい態度を取られるのは嫌われたからだという結論に至り、今までそう思っていた。しかし、そうでは無いらしい。
それ以外に理由が考えられないのでヴィクトルの言葉を疑ったのだが、本気で言っているとしか思えない様子である。それは、嫌われてはいなかったという事である。それが分かり胸がすっと軽くなった。
その事を気にしていないつもりであったのだが、気にしていたらしい。
「そうだよ。今までお前に冷たく接して来てしまった事については謝るよ。その事についても、勇利からどうかと思うって言われたんだ」
「そんな事まで」
勇利はお節介という言葉とは無縁である。そして、他人の事に口を出すような性格ではない。その事を知っていたので、まさかそんな事を言うとは思っていなかったので驚いた。
「勇利に言われるまで、自分の態度が行き過ぎたものだって事に気が付いてなかった。……本当に、何でこんなにお前に対しては自分を偽れないんだろうね。こんな相手はお前が初めてだよ」
心底自分の行動が理解できないという態度でヴィクトルは言っていた。
「これからはまたユリオにも優しく接するよ」
「無理すんなよ。今のままで良いよ」
優しくしたいと思っていない相手から優しくされても嬉しい筈が無い。それどころか、気持ちが重くなってしまうだけである。それならば、今まで通りの態度で接してくれた方が良い。
「本当に今のままで良いの?」
そんな事を言って、後悔するに決まっているというようにしてヴィクトルは言った。
「それで良い。別にお前に無理なんかさせたくねえし」
「そう。じゃあ、今まで通りに接するね」
それで良いと本気で思っているので、ヴィクトルがあっさりと同意した事に対して何か思う事は無かった。
その時ふと、ユーリは結局助けてもらった事に対して何も言わないままになっている事に気が付いた。感謝の言葉を述べるのならば今しか無いだろう。
「トイレで助けてくれて、サンキュ。お前が来てくれなかったら、あのままあいつらに好き勝手にされてた」
「でも、結局俺に好き勝手にされるじゃない」
「確かにそうだけど」
ヴィクトルの言う通りであるのだが、感謝しているのだからそんな細かい事を論わなくても良いとしか思えない。ヴィクトルの言葉にユーリはむっとした。
「だからそんな事気にしなくて良いよ」
これでこの話しは終わりであるというようにしてヴィクトルは言った。先程の発言はユーリを怒らせる為のものでは無く、気を遣って言ったものであったのだという事が分かった。
ヴィクトルに気を遣われたのなど初めてかもしれない。
先程態度を変えないと言ったばかりであるというのに、そんな事をしたことを不思議に思いながら、ユーリはまだ食事の途中である事を示す置き方で皿に置いたナイフとフォークを手に取る。食事を再開すると、同じようにまだ食事を終えていないヴィクトルも食事を再開した。
食事を終えた後は映画に行こうと言われ、ヴィクトルが選んだ映画を見た。更に今度はヴィクトルの買い物に付き合うと、夕食を取る時間へとなっていた。
夕食も外で取る事になり済ませて家に戻ると、家を出た時はまだ早い時間であったというのに、夜も深まった時間へとなっていた。
七章 矢車菊
浅葱色をした琺瑯の鍋は、まるで玩具のような見た目をしている。しかし、それは美味しく料理を作る事ができると有名で高価な物だ。そんな中にある白茶をしたビーフストロガノフが、ぐつぐつと煮えて来た。
ビーフストロガノフは、細切りにした牛肉と野菜をスープで煮込み、その中にサワークリームを入れた料理である。そのまま食べるのでは無く、ご飯やパスタと一緒に食べる料理だ。その為、バターライスを用意している。
「そろそろ良いな」
一緒に食事を取る予定であるヴィクトルが戻って来ていないので、まだ皿には盛り付けるつもりは無い。コンロの火を止めると、ユーリは途中になっていたサラダ作りに戻る。
今日の夕飯としてユーリが作っているのは、ビーフストロガノフとホワイトビーンズのサラダ。そして、ボルシチと鮭のムニエルだ。
どれも何度も作った事のある料理であるので、味に自信がある。ヴィクトルも申し分無いと思う筈だ。
ここに来てから一度も料理をしていなかったというのにユーリが食事を作っているのは、昨日ヴィクトルと話しをした際、会話の流れから暇なので晩ご飯ぐらい作ると言ったからだ。
最初はヴィクトルはその言葉を本気にしていなかった。その理由は、ユーリが料理を作る事ができないと思っていたからだ。
自宅では自炊していたので料理ぐらいできる。そう告げたのだが、まだヴィクトルは懐疑している様子であった。それでも料理を作る事を認めてくれたヴィクトルから、これで食材の支払いはしたら良いとクレジットカードを渡された。
遠慮する理由は無いので、ヴィクトルが練習に行く為に出かけた後スーパーマーケットへと行き、それを使い食材を購入した。自分で金を払うのでは無いからだけで無く、舌が肥えたヴィクトルも食べるので普段よりも高い食材を購入した。
ヴィクトルは料理をしないのだが、台所には一通りの料理を作る事ができる器具が揃っていた。一応購入はしたのだが、それらを使わないままになっていたのだろう。どれも美味しい料理を作る事ができると有名なメーカーの高価な物であるというのに、使った形跡が無かった。
勿体ないと思いながらそれらを使って、ユーリは料理を作った。
サラダができあがったので、優雅な見た目の皿に彩りよく盛り付けるとテーブルに運ぶ。
既にテーブルには鮭のムニエルも運んでいる。残りの料理はヴィクトルが戻って来てから盛り付けるので、夕飯の準備が済んでしまった。
いつもならばそろそろ戻って来る時間であるが、直ぐに帰宅して来るという都合の良い事は起きないだろう。少し待つ事になる筈なので、ソファーに行った方が良いだろう。
ユーリは机を通り過ぎると、ダイニングにあるソファーまで行く。そこに腰を下ろし足を上げ肘置きに背中を預けると、にゃあと鳴きながら先程まで部屋の端にいたピョーチャが側にやって来た。
ヴィクトルに迷惑を掛けないと約束していたので、ここに来てから数日前までは宛がわれた部屋からピョーチャを出さないようにしていた。
しかしどんな気まぐれなのか、ヴィクトルから部屋に閉じ込めているのは可愛そうなのでは無いだろうか。部屋から出しても構わないと言われた。その為、今は家の中を自由に歩き回っている。
マッカチンと喧嘩をしてしまう事を最初は懸念していたのだが、上手く共存する事ができている。高齢で大人しく寝ている時間が長いマッカチンは、今は部屋の端にあるペッドベッドで寝ている。
(エプロン持って来りゃあ良かったな。買おうかな)
腹部へと乗ったピョーチャの頭を撫でながら、ユーリはそう思った。
自宅で料理をする際は必ずエプロンを着けている。それは服が汚れてしまうからだけでは無い。エプロンをすると、料理が美味くなるような気がしたからだ。
その為味見をしているが、エプロンをつけなかったのでヴィクトルの口にあうかという事が心配になってしまう。
(早く帰ってこねえかな)
勇利に忠告されたヴィクトルに外に連れ出された日から、ヴィクトルの態度は物腰柔らかなものになったままだ。
最初は、ああ言ったが態度を改善した方が良いと思い、無理をして態度を変えたのだと思っていた。しかし、そうでは無くそれは自然な変化であるのだという事が分かった。
心に溜まっていた物を吐き出した事により、すっきりしたのかもしれない。
ヴィクトルの態度が変わったからなのだろう。ここに来たばかりの頃のように、ヴィクトルに家に戻って来て欲しく無いと思う事は無くなっていた。
しかし、こんな風に早く戻って来て欲しいと思ったのは初めてである。
(折角作ったもん食べて欲しいって思うのは当然なんだから、そう思うのは普通だろ)
そう思っていると、玄関の方から物音が聞こえて来た。
(帰って来た!)
ヴィクトル以外にこの家にやって来る可能性があるのは、週に数回やって来る家政婦だけだ。掃除と洗濯を自分でやるような人間では無いヴィクトルは、家政婦にそれらを任せていた。
そんな家政婦が来る日では今日は無い。それに、いつも来るのは昼間である。その事からだけで無く、そろそろ帰って来る時間である事からもヴィクトルなのだという事が分かった。
体を動かすと腹部に乗ったままになっていたピョーチャが離れたので、ユーリは跳ねるようにしてソファーを離れる。足音を聞きながら扉に向かい部屋を出ると、廊下には思っていた通りヴィクトルの姿があった。
「お帰り」
「ただいま」
声を掛けると、ヴィクトルがきょとんとした顔をしながらそう言った。
声を掛けただけであるというのに、何故そんなにも驚いているのかという事が一瞬は分からなかった。しかし、直ぐに今までこんな風に出迎えた事が一度も無いからだという事にユーリは気が付いた。
急に自分の行動が恥ずかしくなっていると、ヴィクトルが側までやって来た。
「良い匂いがしてるね。何か買って来たの?」
昨晩ヴィクトルに今日の晩ご飯は自分が作ると言ってある。クレジットカードまでユーリに渡しているというのに、ヴィクトルはそんな話しをした事を忘れているようだ。
「今日は俺が作るって、昨日言っただろ」
「そうだっけ」
ヴィクトルはそんな話しをした事を本気で忘れているようだ。それは、料理ができるというユーリの言葉をまだ信じていないからなのだろう。
(クレカぱくっぞ)
呆れた後内心毒づくと、ユーリはヴィクトルと共に部屋の中に入る。
部屋の中にいた時は気が付かなかったのだが、ダイニングキッチンの中はビーフストロガノフとボルシチの香りが充満していた。
ヴィクトルの鼻にもこの香りが届いている筈である。ヴィクトルの反応が気になり見ると、視線がテーブルに並んでいる料理に向かっていた。料理を見て驚いている様子である。
「今から温めるからちょっと待ってろ」
ヴィクトルの反応に満足しながら、ユーリはビーフストロガノフとボルシチを温め直す為に台所に向かう。
コンロでそれらを温め直し皿に盛り付けテーブルに運んでいると、荷物を下ろしたヴィクトルがやって来た。ヴィクトルの視線は、運んでいる皿に向かっている。皿の中身が気になっている様子だ
「できたから座れよ」
「ああ」
ユーリの言葉に従いヴィクトルが椅子へと座る。ヴィクトルの前と、その向かい側にある椅子の前に皿を置く。食事の準備が済んだので、ユーリも椅子へと腰を下ろす。
「本当に料理できたんだね」
ヴィクトルはテーブルに並んでいる料理を瞠目しながら見ていっていた。
「だから自炊してたって言っただろ」
そこまでユーリの言葉をヴィクトルが信じようとしない事が不思議である。
料理をしそうにないように見えるのだろうか。料理をする事ができるという話しをした事が無いだけで無く、それに関する話題を出した事が今まで一度も無いからなのだろうか。どちらも理由であるのかもしれない。
「そうなんだけど」
返事をしながらヴィクトルが再び料理を見る。
「スープはボルシチ?」
「そうだよ。食って良いぜ」
早く食べたいという様子へとなっていたヴィクトルにそう声を掛けると、即座に用意してあったスプーンに手を伸ばした。ヴィクトルがまず食べたのは、先程質問をしたボルシチだ。
「美味しい」
一口食べると顔を明るくさせながらヴィクトルはそう言った。表情から、気を遣ってそう言っているのでは無く、心の底からそう思い言っているのだという事が分かった。
味見をしているがそれでも不安であったので安堵しながら、ユーリも食事をする為にスプーンに手を伸ばす。
「それは良かった」
まずはヴィクトルが食べているボルシチを食べ、ビーフストロガノフを食べる。一通り料理を食べ味の確認をすると、ユーリは咀嚼していた物を飲み込みながらヴィクトルへと視線を遣る。
既にボルシチを半分ほど食べ終えているヴィクトルは、ビーフストロガノフを食べていた。
「全然料理しねーんだな」
「時間が勿体ないってのもあるけど、俺が作った物より誰かが作った物の方が美味しいからね。料理には自信が無いんだ」
返事をしながらも、ヴィクトルはまだ料理を食べたままになっていた。会話よりも食べる事が優先だという様子だ。
ヴィクトルは美味しいと思う物を食べている時と、そうでは無いと思っている時の態度が全く違う。今の姿は、美味しいと思っている物を食べている時のものだ。
まだ訊きたい事があったのだが、今は話しかけない方が良いだろう。話しをするのは食事が終わった後にする事にした。
食事を再開する事によってビーフストロガノフを食べ終わりヴィクトルを見ると、既に手元にある料理の殆どが無くなっていた。しかしヴィクトルはまだ満足していない様子である。
「ビーフストロガノフのおかわりいるか?」
「いる」
即座に返事をしたヴィクトルから、空になっている皿を差し出された。
ヴィクトルの姿は飢えた子供のようである。笑ってしまいそうになりながら皿を受け取ると、ユーリは台所に行き冷めてしまっているビーフストロガノフを温め直す。
(多めに作っておいて正解だったな)
残しても明日食べるかどうかという事が分からない。食べきれる量にしておいた方が良いかもしれない。そう思ったのだが、残った分は明日自分が食べれば良いのだ。そう思い、ユーリは多めに料理を作っていた。
ビーフストロガノフがぐつぐつと煮え始めたので火を止めると、先に皿へと盛り付けていたバターライスにそれを掛けてテーブルに戻る。ヴィクトルの前に皿を置くと、決して無作法では無いのだが普段よりも勢いよくビーフストロガノフを食べ始めた。
目を細めながらそんなヴィクトルの姿を一頻り見詰めた後、ユーリは食事を再開した。ユーリが食事を終えたのは、おかわりをしたヴィクトルが食べ終えたのとほぼ同時である。
食事をしながら飲んでいた炭酸水が無くなったので、緑色の瓶の中に入っている炭酸水をグラスに注ぐ。ヴィクトルのグラスも空になっていたので、その際ユーリはヴィクトルのグラスにも炭酸水を注いだ。
瓶を置き炭酸水を飲むと、和やかな空気がヴィクトルとの間に流れている事に気が付いた。そろそろ話し掛けても大丈夫だろうと思い、先程する事ができなかった質問をする事にした。
「最初っから料理しなかったのか?」
ヴィクトルの演技には憧れていたが、信奉者では無いのでヴィクトルの過去を調べた事は無い。それでも、家族が近くにいるという話しもそんな様子も無いので、ヴィクトルもユーリと同じように出身はここサンクトペテルブルクでは無いのだろう。
スケートの為にここにやって来た当初から、自炊をせずに済む程の金があったとは考えられない。賞金を貰うようになる迄は、ユーリと同じように自炊をしていた筈だ。
「こっちに来たばかりの頃はしてたよ。でも得意じゃないから、賞金を貰うようになってから直ぐに止めちゃった」
「そうなんだ」
思っていた通り最初はしていたのだという事が分かった。
ヴィクトルが作った料理が、どんな物であったのかという事が気になる。先程料理に自信が無いと言っていたが、何でもそつなくこなすヴィクトルが作る物が、食べる事ができないほど酷い物であるとは思えない。
「ユーリはずっと自炊してるの?」
「ああ。こっちに来てからずっとしてる。でも、実家にいた時もじーちゃんの手伝いはしてたぜ。じーちゃんは料理が得意なんだ」
「母親は料理はしなかったの?」
普通は母親が料理はするものである。祖父が料理をしていた事をヴィクトルは不思議に思ったようだ。
「ああ。……俺の家族の話はヤコフから聞いてるんだっけ?」
女であるという事を隠していた理由をヤコフから聞いているという事は、ユーリの家族の事をヴィクトルは聞いている筈だ。
その事をヤコフが話していたとしても、自分に何の了承も無く話した事に対してユーリは怒るつもりは無い。その話しを巻き込まれる事になったヴィクトルにするのは、当然であると思っていたからだ。
「少しだけね」
「そうか。俺の母親はそれなりに売れてたアイドルだったんだ」
少しだけしか聞いていないという事は、ユーリの母親が一世を風靡したアイドルであった事は知らないのかもしれない。そう思いながら告げると、ヴィクトルが息を飲んでいた。
その事から、思っていた通り聞いていないのだという事が分かった。
「一番人気があった頃の母親の顔が、今の俺とすけー似てるらしいから見たら分かると思うぜ。ネットで似てるって言ってる奴見かけた事もあるしな」
「そうなんだ」
ユーリは、勿論母親がアイドルであった時代を知らない。しかし、十二歳年上であるヴィクトルは、名前ぐらいは聞いた事があるかもしれない。
そんな母親の名前が気になっている様子であったが、それは触れない方が良い事であると思ったのだろう。ヴィクトルはその事を訊いて来る事は無かった。
母親の事を話すのは必要最低限にしておきたかったので、それに気が付いていたが教えるつもりは無い。
「母親はまだアイドルだった時に俺を妊娠したらしい。引退して俺の父親と結婚するつもりだったみたいなんだけど、認知もして貰えず逃げられたらしい。それがショックで、鬱ぎ込んじまった」
母親がアイドルであった事。更にそんな母親が産んだ私生児である事を世間に知られれば、騒ぎになる事は分かっていた。その為、ユーリはこの事をずっと隠していた。
それにも拘わらず、ヴィクトルにその事を話そうと思った大きな理由など無い。何故か分からないのだが、話しても良いと思ってしまったのだ。
「それからずっと母親は調子が良くなったり悪くなったりを繰り返してて、まともに俺の面倒なんかみれる状態じゃ無かった。だから、俺はじーちゃんに育てられたようなもんなんだ」
「周りの普通の家の子が羨ましく無かった?」
そう質問したヴィクトルの様子は、好奇心から聞いているものでは無かった。何故そんな顔を今しているのかという事は分からないのだが、悲哀に染まったものであった。
「そりゃあ羨ましかったぜ。スケート終わった後に母親が迎えに来てくれてる奴が羨ましいって思った事もある。でも、俺にはじーちゃんがいてくれたから。じーちゃんがいなかったらきっと俺は駄目になってた気がする。ちゃんとじーちゃんが俺に愛情を注いでくれたからな。そんなじーちゃんをどうしても悲しませるような事はしたくねえ」
暫く会っていない祖父の顔を思い出した事により胸が締め付けられた。
スケート連盟から子供を作って差し出せと言われた事を、祖父には当然話していない。そんな事を話せば、悲しませる事になる事が分かっていたからだ。
「羨ましいな」
「え?」
今の話しを聞いて、ヴィクトルがそんな風に思った事が不思議である。今の話しは、決して憧れるような内容では無い筈だ。
「俺もそういう存在が欲しかったな」
ヴィクトルの声色は心底羨ましそうなものであった。そんな風に言われると、今まで気になっていなかったヴィクトルの家族の事が気になってしまう。
「お前の家族のこと聞いても良いか?」
「家族か」
ヴィクトルはまるで彫刻像のように整った笑みを浮かべていた。その笑顔は冷たさを感じるものである。今まで見た事が無い種類の笑みに、ユーリは引き込まれてしまう。
「俺が育ったのは孤児院なんだ」
「孤児院……?」
孤児で育ったという事は、ヴィクトルは親と死に別れているか親に捨てられた子供という事である。全く想像もしていなかった過去であるので、驚きから息を飲んでしまった。
その反応は無遠慮なものであったかもしれないとユーリは思ったのだが、ヴィクトルは全くそれを気に掛けていない様子である。
「そうだよ。親に捨てられたから俺には親はいない。だから、母親には愛して貰う事ができなかったみたいだけど、愛してくれる存在がいたユーリが羨ましいなって思ったんだ」
「そうか……」
親に捨てられたという言葉を聞き、ヴィクトルに対する印象ががらりと変わったような感じがする。それは、今までヴィクトルの事を、何でも持っている恵まれた人間であると思っていたからなのかもしれない。
「家族がいた事が無いから、家族ってものが俺にはよく分からないんだ。だから結婚したいって思った事が無い」
三十歳にもう直ぐなろうとしているというのに、浮いた話しが多く身を固めようとする素振りがヴィクトルに全く無かったのはそれが理由であったらしい。
誰かに縛られたく無い。まだ遊びたいからなのだと今まで勝手に思っていた。
「子供なんて考えた事も無かった」
急にヴィクトルの声の音域が低いものへとなった。
子供を作れと命令されてしまった事に対して、面倒な事に巻き込まれてしまったと思い憤慨しているのだと思っていた。そんな気持ちもあるのだろうが、それ以外にも今言ったような気持ちもあったらしい。
今までヴィクトルに迷惑を掛けてしまった事に、それほど申し訳ないという気持ちは持っていなかった。しかし、急に悪い事をしてしまったという気持ちへとなった。
「巻き込んで悪い」
「本当にね」
ヴィクトルがユーリに対して心にもない事を言うような男では無い事は知っている。その為、本音を言われても腹が立つ事はなかった。それに、ヴィクトルがそんな風に思うのは、当たり前の事であると思っている。
「でも、まあ仕方ないから最後まで付き合ってあげるよ」
悪戯をする子供のような顔で、ヴィクトルが笑いながらそう言った事により重くなっていた胸が軽くなる。
「そうか。悪いな」
「その代わり、これから毎日ご飯作って欲しいな」
「えっ……そんな事で良いのかよ?」
ヴィクトルが何か要求しようとしている事に気が付いた時、無茶な事を言われるのだと思っていた。しかし、実際にヴィクトルが言って来たのは、そんな事で許されるのだろうかと思ってしまうものであった。
「ユーリが作ってくれたご飯、家庭料理みたいで嬉しかったんだよね」
ヴィクトルがそんな風に思ったのは、家族を知らないからなのだろう。ヴィクトルの言葉が胸に突き刺さり、じんじくとした痛みがそこから全身に広がっていく。
「そうか。……だったらまた作ってやるよ」
同情してしまった事を、ヴィクトルに知られないように然りげない態度で告げた。
ヴィクトルがそんな事など望んでいない事が分かっているからだけで無く、それはヴィクトルの自尊心を傷つけるものである事が分かっていたからだ。
「本当?」
ヴィクトルは欲しい物を貰う事ができて喜んでいる子供のような顔をしていた。それを見る事によって、自然と頬が緩んでしまう。
「ああ」
「じゃあ、明日はオムライスが良いな」
「分かったよ」
更にヴィクトルは、オムライスにビーフシチューを掛け中にチーズを入れて欲しいと要望して来た。小さな子供を相手にしているような気分になり小さく笑いながら、ユーリは分かったと返事をした。
瞼を閉じながらヴィクトルの厚い唇を感じる。
入浴を済ませ寝室に行くと、当たり前のような顔をしてヴィクトルに体を引き寄せられ唇を奪われた。寝室に行くといつもそうである。
子供を孕む為にここにいるので、ヴィクトルの行動は当たり前のものである。それが分かっていても、ここに来たばかりの頃は抵抗感があった。
しかし、もう数える事ができないほど肌を重ねているからなのだろう。ユーリもヴィクトルの行動は当然のものであると思い、それを不満に思う事は無くなっていた。
「ん……はっ……」
唇を重ねるだけで無く、ヴィクトルに舌を絡みつけられる。
初めは自分も何かしなくてはいけないのだという事を知らなかったので、一方的にされるだけで何もしなかった。しかし何度もする事によって、されるだけでは駄目なのだという事を知った。そして、自分からも舌を絡めるようになっていた。
絡みつけられては絡みつける事を反復していると、首や耳朶を撫でられる。
「んぅ……ん……」
触られている場所にそくぞくとしたものを感じ、甘い声が出てしまう。
淫らな声を出してしまう事に、未だに慣れる事ができない。恥ずかしさから赤面していると、唇が離れ愛撫するのをヴィクトルが止めた。
交わるようになったばかりの頃のように、上手く息継ぎができず空気が足りない状態になってしまう事は無くなっていた。しかし、口付けの最中に体が熱くなるようになってしまっていた。
興奮してしまっている事を恥ずかしく思っていると、ヴィクトルが目を眇めた。
「今日はいつもとちょっと違った風にしてみない?」
「変なのはいやだ」
ヴィクトルが普通では無い事をしようとしているのだと思い、ユーリは身構えた。
確かに行為に慣れて来ていたが、そんな事をするのにはまだ抵抗がある。これからも、そんな事をしたいと思う事があるとは思えない。
「変な事なんかしないよ」
心外であるという態度でヴィクトルは言っていた。しかし、まだヴィクトルの言葉を信じる事ができず、ユーリは警戒したままになっていた。
「そんな警戒しないでよ。傷つくな。変な性癖は無いから安心してよ」
小さく笑いながら言ったヴィクトルの様子は、本当にそうなのだと思う事ができるものである。今言ったように、特殊な性癖は持っていないのだろう。
「それなら良い。じゃあどんな事するつもりだ?」
「恋人同士だって設定でしよっか」
「んな事して楽しいのか?」
確かに変な事では無いのだが、そんな事をして楽しいのだろうかと思うような提案であった。
「俺は楽しいよ」
「わーったよ。そう言うんだったら付き合ってやんよ」
恋人同士という設定でするのと、今までの行為がどう違うのかという事が全く分からない。しかし、ヴィクトルがそう言うのならば従う事にした。
「そう。じゃあ、今から終わる迄お前と俺は恋人同士だからね」
「お前と恋人同士か」
ヴィクトルと自分が付き合う事になったらどうなるのだろうかという事を、ユーリは想像しようとした。しかし、全く頭に思い描く事ができない。
「嫌そうだね」
眉間に皺を寄せてしまった事により、不愉快になっているのだと勘違いさせてしまったようだ。
「嫌っていうか、お前と恋人同士になんのを全く想像できねえんだよ」
「俺も想像できないけど」
そういう事かという顔へとなった後ヴィクトルが告げた発言に、ユーリは表情を歪めた。
「だったらそんな設定ですんの無理じゃねーか?」
お互いに想像する事もできないのならば、恋人同士に演技でもなる事ができないように思える。
「でも、楽しそうだからやってみたい」
中身の分からない玩具を目の前にした子供のような顔をしてヴィクトルが言うので、ユーリは諦めて一時だけヴィクトルの恋人になる事にした。
「分かったよ」
返事をすると満足そうな顔へとなったヴィクトルが、ユーリの顎へと手を添えると共に顔を近づけて来る。
「またキスすんのかよ?」
先程口付けを交わしたばかりであるというのに、ヴィクトルは再び唇を塞ごうとしているとしか思えない。
声を掛けたのは、決して口付けをするのが嫌だからでは無い。先程したばかりであるというのに、何故改めてもう一度しようとしているのかという事を疑問に思ったからだ。
「さっきのキスは、恋人同士のキスじゃなかったからね」
「キスにも違いがあんのかよ」
口付けなどどれも同じであると今まで思っていた。
「そうだよ。だからもう一度しようね」
「分かったよ」
子供に言い聞かせるようにして言われた事を不満に思いながらも、同意した。
時折ヴィクトルから子供扱いされる事がある。そうされる度に無性に腹が立っていた。
反応をするのでヴィクトルが面白がってからかうのだという事は分かっていても反応してしまうのは、まだヴィクトルにそう扱われても仕方が無い子供であるからなのだろう。
(クソ……早く大人になりてえ)
如何なることも己でする事ができる大人になりたいと思った事は今までもあるのだが、今までそう思う反面大人になりたくないという気持ちも持っていた。
それは、男女差が明確になる大人になってしまうと、性別を誤魔化す事が難しくなる事が分かっていたからだ。それを心配する必要が無くなってしまったので、今はただ大人になりたいとだけ思っていた。
ヴィクトルが再び顔を近づけて来たので瞼を閉じると、唇に軽く弾力がある唇が触れる。
今までそんな風に、優しく唇を重ねられた事など無い。これが恋人同士の口付けなのだろうか。今までと全く違う口付けに狼狽していると、優しく髪や耳朶を触られる。
「んぅ……ん……」
口付けをした際ヴィクトルに体をいつも触られているのだが、触り方が全く違っていた。
大切な物でも扱うようにして触られると、甘い気持ちへとなってしまう。そして、ヴィクトルの大切な存在になったように勘違いしてしまいそうになる。
(馬鹿かよ)
勘違いしてしまいそうになっている自分に対して、そう思っている事ができたのは最初だけだ。口付けが濃厚なものになり更に愛撫される事によって、何も考える事ができなくなってしまった。
「ん……っ……はっ……」
生温い湯の中に沈んでいるような心地へとなっていると、重なったままになっていた唇が離れる。
口付けが終わったようだ。今までそんな事など思った事は無いというのに、まだ唇を重ねたままでいたくなった。
物足りなさを感じていると、瞼に唇を落としたヴィクトルが今度は頬へと唇を落として来た。
「んっ……」
「この部屋着も可愛いんだけど、もっと可愛いの買ってあげようか」
ヴィクトルにうなじへと唇を落としながら、灰色の部屋着の上から体を撫でられる。
今日着ているのは、自宅から持って来た二種類のセットアップのうちの片方だ。どちらもスエット生地のそれは、片方が灰色で片方が黒だ。洗濯をしながら、交互にそれらを着ている。
「不満なのかよ?」
色気が無い格好であるという事にはユーリも気が付いていた。しかし、何も言って来ないのでこの服に文句は無いのだと思っていたのだが、そうでは無かったようだ。
「そんな事は無いよ。その服も可愛いって言っただろ」
ぐずっている小さな子供の機嫌を取るようにしてヴィクトルは言った。
この服は、ヴィクトルが可愛いと思う筈が無いような物である。本音では無い事は間違い無い。
ヴィクトルが本心に反した事をユーリに言うのは、珍しい事だ。ヴィクトルの発言に対してそう思うだけで無く、そんな言い方をされたのは初めてであると思った。
今は恋人同士であるので、そんな言い方をしたのだろう。それが分かっていても、胸にくすぐったいものを感じてしまう。
「んっ……はっ……」
既に何度も体を重ねているので、ヴィクトルはユーリの感じる場所を把握している。弱い場所を服の上から念入りに触られ、甘い痺れをそこに感じ熱い吐息が零れてしまう。
「可愛いよ」
額に唇を落としながらそう言ったヴィクトルに、感じる場所を責められる。
衷心【ちゅうしん】より言っているのでは無いのだという事が分かっていても恥ずかしくなるので、そんな事など言わないで欲しい。しかし、含羞している事を知られたく無いので、それを言えない。
唇を噛み締める事よって恥ずかしさに耐えていると、ヴィクトルが小さく笑った。
「いっぱい気持ちよくしてあげるね」
部屋着に手を掛けたヴィクトルに、それを脱がされる。
その手付きはいつもとは違っていた。ヴィクトルはユーリの顔を見ながら、ゆるゆると服を脱がしていっていた。
いつもよりもこちらの方が恥ずかしい脱がし方だ。
「こっちの方がよく似合ってるよ」
部屋着を脱いだ事によって現れた下着を見て、ヴィクトルは口元を緩めながらそう言った。
今ユーリが身につけているのは、先日出かけた際にヴィクトルが買った物の中の一つである。淡い色の可愛らしい下着ばかりヴィクトルが買ったので、それはレースをふんだんに使った少女趣味な物だ。
買って貰ったというのに身につけない訳にはいかない。それに、行為の際にヴィクトルに下着を見られるので、身につけていない事に気が付かれてしまう。そう思い身につけるようになった。
しかし、ヴィクトルは下着を見ても目を眇めるだけで、何か言って来る事は無かった。何も言うつもりは無いのだと思っていたので、今更になってそんな事を言われると戸惑ってしまう。
くすりと笑ったヴィクトルに下着を脱がされる。その手付きも、部屋着を脱がせる時と同じようにゆっくりとしたものであった。
羞恥で体を真っ赤にしていると、露わとなっている小さな胸を触られる。
優しく慎ましやかな膨らみを揉まれると、淡い痺れをそこに感じるだけで無く興奮して来た。
「んぅ……」
乳房だけで無くヴィクトルは乳首も愛撫した。摘まんでは親指で念入りに優しく撫でられる。
「あっ……んぅ……」
「感じてるんだね」
最初からそこを触られて感じていたのだが、体を重ねる度にヴィクトルが乳首を執拗なほど愛撫するからなのだろう。以前よりも明らかに快楽が深いものへとなっていた。
反応から感じている事など明らかである。嘘など言っても無駄であるので首を縦に振り認めると、ヴィクトルに更にそこを嬲られた。
「あっ……ああっ……」
手だけで無く口唇でも、熟れた尖りをたっぷりと可愛がられる。
尾てい骨から体が溶けてしまいそうになり、足の根元が熱くなって来る。びくびくと体を震わせていると、ヴィクトルが唾液によっててらてらと濡れた乳首から口を離した。
「足を広げて」
今までのように命令するようにして言うのでは無く、お願いするようにしてヴィクトルは言っていた。
そんな風に言われると、嫌がる事ができなくなってしまう。足を広げたく無かったのだが、仕方なくユーリは足を広げる。
まだ行為が始まったばかりであるというのに、秘部がしっとりと濡れているのを感じる。その事に気が付かないで欲しいと思ったのだが、ヴィクトルが気が付かない筈が無かった。
「濡れてるね」
蜜液によって濡れた部分にヴィクトルの視線を感じ、恥辱によって体が熱くなる。
「どうして欲しい?」
恥ずかしさから顔を伏せてヴィクトルが秘めた部分に触れるのを待っていると、そんな言葉が聞こえて来た。
「どうしてって……」
これからどうするのかという事を、ヴィクトルはユーリに選ばせようとしているようだ。
「ユーリがして欲しいことしてあげるよ。嘘は駄目だよ」
何もしなくて良いと言いたいのだが、嘘は駄目だと言われているのでそれを言えない。
して欲しい事はある。しかし、それはすんなりと言えるような内容では無い。言葉に詰まっていると、ヴィクトルから催促するような目で見られる。
これ以上黙っている事はできないのだという事を、ユーリは察した。
「……なめて欲しい」
消え入りそうなほど小さな声で言う事しかできなかった。
そんな風に言うなど自分らしくないと思ったのだが、そんな事を大きな声で言える筈が無い。
「舐めて欲しいんだ。どこを?」
「……あそこ」
「あそこ?」
何処なのかという事がそれでは分からないというようにして言っているが、分かっていない筈が無い。ユーリに何処なのかという事を言わせたいので、分かっていない振りをしているのだろう。
その証拠に、ヴィクトルの視線は濡れた場所へと向かっている。
「……やだ、恥ずかしい」
言わなければ、ヴィクトルを満足させる事はできないだろう。それが分かっていたので言おうとしたのだが、恥ずかしい単語を口にする事ができなかった。
「仕方ないな。可愛い顔が見れたから許してあげるよ」
再び額にヴィクトルが唇を落とした。
愛おしい相手にするようにして、先程から何度も唇を押しつけられている。恋人同士という設定に今はなっているので、ヴィクトルはそんな事をして来ているのだ。
そうされる度に恥ずかしくなるので、止めて欲しくなっていた。顔を手で隠していると、足の間へとヴィクトルが顔を沈めた。
「あっ……んぅ……ん……」
媚肉を丹念に舐められ快感に翻弄される。
最初は全体を舐めていたヴィクトルであったが、肉の粒を重点的に舐めるようになった。感じる場所であるそこは、包皮を剥いて舐められると更に快感が強くなる。
「ああっ……んぅ……あっ……!」
指先まで痺れるほどの快感によって、はしたない嬌声が次々と口から溢れてしまう。まるで満杯になったコップから水が溢れているようだ。
「ユーリ、気持ちいい?」
「んぅ……きもちい……あっ……イくっ……あっ……」
まだ愛撫が始まったばかりである。早々に達してしまうのは恥ずかしいことであるという事を知っていたので、耐えようとした。しかし、既に限界へと近づいていたので、それを回避する事はできなかった。
「んぅ……あっ……んんっ……」
快楽の渦に飲み込まれている間も、ヴィクトルは肉芽に舌を這わせたままになっていた。その為、一度の絶頂では終わらず、その後何度も追い詰められてしまう事になった。
ヴィクトルが舐めるのを止めた事によって、漸く快楽の檻の中から解き放たれた。
「んっ――」
気怠さを感じながら息を乱していると、ヴィクトルの舌が蜜口の中へと入って来た。
入れては出す事を繰り返されると、密壺にむずむずとしたものを感じる。
ヴィクトルと体を重ねるようになったばかりの頃は、そんな事をされても内臓を触られているような気持ちへとなるだけであった。しかし、最近舌を入れられるとむず痒くなるようになっていた。
「はっ……んぅ……」
体内を締め付けては緩める事を繰り返してむずむずに耐えていると、体内に指が入って来る。優しく指を抜き差ししながら、ヴィクトルに頬や額などに唇を押しつけられた。
「はっ……あっ……」
唇が触れている場所にじんわりとした熱を感じていると、指が出て行きヴィクトルが足の間へと入って来た。愛撫をしながら上着を脱いでいたヴィクトルは、今は上品な色をした上着と揃いのズボンだけになっている。
ズボンと共にその下に履いている黒い下着をヴィクトルが下ろす事によって、大きな肉の塊が姿を現す。存在感があるそれは、何度見ても目が離せなくなってしまうような物だ。
こんな大きな物が体内に入っても痛くない事が不思議だ。
「挿れるよ」
声を掛けて来たヴィクトルに対して首を縦に振ると、秘裂に男性器の先端を宛がわれる。
体内を押し広げながら塊が体の中に入って来る。初めてそれを受け入れた時は苦しくなってしまうほどの異物感がしたのだが、今はそれが殆どしなくなっていた。
「はっ……んぅ……」
体から力を抜いた方が楽に受け入れる事ができるのだという事を、今までの経験から知っている。体から力を抜いていると、ヴィクトルが体内で性器を動かし始めた。
「あっ……んぅ……ん……」
先程体内を舌でかき混ぜられた時と同じように、粘膜にむずむずとしたものがしている。それは、剛直で擦られる事によって強くなった。
「ユーリ、もしかして気持ちよくなってる?」
「あっ……多分……」
肉芽を愛撫された時に感じる快感と、今感じているものは全く種類が違っている。その為、感じているのだと断言する事ができなかった。
「そう。じゃあもっと気持ちよくしてあげないとね」
ヴィクトルが激しく腰を動かし始めた。
「あっ……んぅ……」
強く体内を抉られ、びりびりとしたものをそこだけで無く背中にも感じる。まるで全身が性感帯になっているようだ。腰に触れているヴィクトルの手を、先程までよりもまざまざと感じる。
「はっ……あっ……んぅ……」
「いい声だね。もっと声出して」
「やぁ……恥ずかしい……」
ふるふると首を横に振って嫌がっている間も、ヴィクトルは腰を動かしたままになっていた。
「あっ……ああっ……きもちい……あっ……」
そんな事を言うつもりは無かったのだが、無意識にそう言っていた。
「そう、良い子だね。もっと声出して」
先程までそんな恥ずかしい事はできないと思っていたのだが、褒められると更に声を出したくなってしまう。
「あっ……んっ……きもちい……あっ……」
手を伸ばして来たヴィクトルに、優しく頭を撫でられる。全身が敏感になっているので、そんな事にすらも今は感じてしまう。
「んぅ……あっ……」
「愛してるよ、ユーリ」
勘違いをしては駄目だ。これは、恋人同士という設定であるから言っているだけのものである。本心では無い。
そう思いながらも、ヴィクトルと本当に恋人同士になったような気持ちになってしまう。
「ユーリ」
名前を呼ぶ声すらも、優しく愛おしそうなものであった。そんな声で名前を呼びながら体内を穿たれ続けると、熟していた実が弾けてしまいそうになる。
「だめぇ……イく……あっ……んぅ!」
達してしまいそうだと思っていると、絶頂感に意識を飲み込まれた。
余韻によってぶるぶると体を震わせている間もヴィクトルが動き続けたままになっていたので、その後も何度も小さな絶頂へと上り詰めた。
何度も続く絶頂に身震いしていると、再び名前を呼ばれるだけで無く愛を囁かれる。その言葉で胸が熱くなっているのをユーリは感じながら、瞼を閉じた。
八章 芍薬
「準備できた?」
バスケットを閉め準備が終わると、それを見計らっていたかのようにダイニングキッチンに入って来たヴィクトルから声を掛けられた。
「できたぜ」
「じゃあ行こうか」
「ああ」
テーブルの上には先程まで中身を詰めていた赤褐色のバスケットだけで無く、キャンバス生地のトートバッグも置いてある。
どちらにも持って行く物が入っている。ユーリがそれを手に持つと、ヴィクトルが側までやって来た。
「俺が持つよ」
「頼む」
持っていた荷物の片方であるトートバッグを、ユーリは差し出す。トートバッグを受け取ったヴィクトルが出入り口に向かって歩き出したので、その後を付いて行く。
玄関まで行き外に出ると、地下駐車場まで行く。これから行く場所は、車で無ければ行く事ができない場所である。
助手席に乗り込むと、運転席に乗ったヴィクトルから先程渡したトートバッグを受け取る。荷物を膝の上に置きシートベルトを締めると、車が走り出し駐車場を出た。
勇利から苦言を呈されたヴィクトルに遊びに連れて行かれてから、休みになると出かけようと言われるようになった。一緒に出かけたのが、思いがけず楽しかったからのようだ。
最初はヴィクトルの変化に戸惑ったのだが、出かけるようになってから既に三ヶ月ほど経過している今は慣れていた。
暫くは街の中を走っていた車であるが、窓から見えている景色が緑の多いのどかなものへとなった。車が走り出すと共に流れ始めた音楽を聴きながら、そんな風景を眺めていると広い駐車場の中に車が入る。
「着いた」
「ああ」
車が停まったので、満杯とまではいかないが車が多く停まっている駐車場の中でユーリは車を降りる。
ヴィクトルと共にやって来たのは、中心街から車で三十分ほどかかる場所にある緑豊かな公園だ。
再びヴィクトルがトートバックを持ってくれたので、ユーリはバスケットだけを持って芝生や木々が見えている方へと向かう。
「結構人いんだな」
公園の芝生には恋人同士だと思われる二人組だけで無く、家族なのだと思われる者や友達同士であるのだと思われる集団もいた。
「そうだね。今日は天気が良いからなのかもね」
「かもな」
今日は朝から快晴である。しかし気温がこの時期にしては高くないので、過ごしやすい。
「食べてるの見るとお腹空いて来た」
そう言ったヴィクトルの視線は、芝生にレジャーシートを敷き食事をしている家族に向かっていた。食欲旺盛なヴィクトルは、公園で遊んでいる者たちよりも、持って来た料理を食べている者の方が気になるようだ。
「もう少しだ」
「ダイニングに行った時、美味しそうな匂いがしてたから楽しみだ」
ヴィクトルの視線がバスケットに向かう。そこに入っている料理が気になるようだ。空腹になっている幼子を相手にしているような気持ちになりながら、ユーリはヴィクトルと共に食事を取る場所を探す。
この公園には、ユーリが作ったお弁当を食べる為にやって来ている。外でお弁当を食べる事になったのは、昨晩明日はどうするのかという事を話していると、ヴィクトルがそれを提案したからだ。
公園で食事をしたいという事を聞いた時は、何故わざわざ外で食べるのだろうか。何処で食べても同じであるとユーリは思った。しかし、ヴィクトルが行きたいというのならばと思い同意した。
だがお弁当の準備をしていると楽しみになり、公園にやって来た今は心が弾んでいた。
何処で食べようかという事を話しながら公園の中を進んで行くと、湖が見えて来た。
眺めの良いその湖の周りには、ぽつぽつと人の姿がある。自分たちもここでお弁当を食べようという事になり、人の少ない場所を探した。
決して騒がしいのが苦手で、そんな場所を探しているのでは無い。ヴィクトルだけで無くユーリも、ロシア。特にホームリンクのあるここサンクトペテルブルクでは、有名人であるからだ。
「ここにしよっか」
「そうだな」
家族連れから少し離れた場所であるので、ここならば周りを気にする必要はなさそうである。同意すると、ヴィクトルがトートバッグの中からレジャーシートを取り出した。
それは、お弁当の材料を買いに昨晩スーパーマーケットに行った際に購入した物だ。店には青と黄色とピンクの物が置いてあった。二人でどれにするのかという事を悩んだ結果、青になった。
絵の具のような鮮やかな青色をしたレジャーシートに上がると、ここまで持って来たバスケットを中心で開ける。
中には、食べ物だけで無く飲み物も入れてある。おかずが入っているプラスティック保存容器とサンドイッチが入っている小さな籠を並べた後、グラスを二つ取り出す。更に炭酸水を取り出すと、それをグラスに注ぐ。
「準備できたぜ」
レジャーシートの上で今か今かと待っていたヴィクトルは、声を掛けると直ぐにサンドイッチに手を伸ばした。
「パンこれにしたんだね」
パンをしげしげ見ながらヴィクトルは言った。パン屋までヴィクトルに連れて行って貰ったのだが、何を買ったのかという事を聞かれなかったので教えていなかった。
「これが美味しそうだったからな」
ヴィクトルに連れて行かれたのは、いつも行っているパン屋の二倍近い値段の店であった。自分が支払いをするのならば絶対に来ないと思いながら、ユーリはパンを買った。
「ん。美味しい」
美味しそうにヴィクトルはサンドイッチを頬張っていた。
「それは良かった」
ヴィクトルの姿を見ていると食べたくなったので、ユーリもサンドイッチに手を伸ばす。
(美味え)
ライ麦パンにモッツァレラチーズとトマトを挟んだサンドイッチは、想像以上に美味しかった。
今まで作ったサンドイッチよりも美味しいのは、パンが違うからなのだろう。しかし、進んであの店でパンを買う事は無いだろう。
サンドイッチだけで無くおかずも食べる。ピクニックの為に用意したおかずは、チーズオムレツとハンバーグ。そして、グラタンとエッグマカロニサラダなどだ。冷めても美味しい味付けにどれもしている。
ヴィクトルと約束をしたからだけで無く何もする事が無く暇であったので、作った夕食を喜んで貰ってから殆ど毎日食事を作っている。毎日作っても苦痛になった事が無いのは、ヴィクトルが美味しそうに食べてくれるからだ。
時折話しをしながらおかずやサンドイッチを食べていくうちに、用意している物が無くなった。
「デザートあるぜ」
まだ満足していない様子であるヴィクトルそう声を掛けながら、ユーリはバスケットの中からパウンドケーキを取り出す。ケーキがあるのだという事を知り歓喜した様子へとなったヴィクトルは、中心にパウンドケーキを置くと待っていられないという様子でそれに手を伸ばした。
「お菓子も作れるなんて凄いね」
「お菓子はそんなに作らないから、簡単なもんしか作れねーけどな。作れるのは、こないだお前に作ってやったクッキーと、このパウンドケーキぐらいだ」
先日の夜中に、ヴィクトルが急に甘い物が食べたいと言い出した。
コンビニエンスストアに行けば購入する事はできる。しかし、もう出かけるような時間では無い。明日にしようと言うと、ヴィクトルは不満そうな様子へとなった。
まだ甘い物を欲したままになっているヴィクトルを見ていると可愛そうになり、ユーリは家にある物でクッキーを作った。その時もヴィクトルは、今のように喜んでいた。
「そうなんだ。あれも美味しかったけど、これも美味しいよ」
「そうか。……っ!」
チョコチップと胡桃が入ったパウンドケーキをユーリも食べながら返事をすると、突然横から誰かにしがみつかれた。
「おねーちゃん」
驚きから目を見張っていると、腕に両手を回しているふっくらとした頬の可愛らしい少女から笑いかけられた。可愛らしいワンピースを着たその少女に見覚えが無い。誰かと間違えているのかもしれない。
「どっから来たんだ?」
「おねーちゃん」
少女はユーリの質問に答えようとせず、もう一度呼び掛けて来た。どうやら少女は返事をして欲しいらしい。
長らく男として生活していたので、お姉ちゃんと言われたのは初めてだ。それに返事をするのを気恥ずかしく思ってしまう。しかし、返事をした方が良いだろう。
「ああ」
嬉しそうな顔へとなった少女の視線が、吸い寄せられるようにしてパウンドケーキに向かう。
「美味しそう」
少女の瞳は、宝石でも見つけたかのように輝いていた。作った物に対してそんな反応をされると頬が緩む。
「食べても良いぜ」
「やったー!」
小躍りしそうな様子へとなっている少女に、新しく手に取ったパウンドケーキを一つ差し出す。
ぱっと腕から離れパウンドケーキを受け取ると、少女は大きく口を開けてそれを食べ始めた。少女の食べている姿は、そんなに美味しそうに食べられると嬉しくなってしまうと思うようなものである。
「アレーチカ!」
目を眇めて少女を見詰めていると、少し離れた場所からアリフィヤの愛称を呼ぶ女性の声が聞こえて来た。
「ママ!」
少女の母親なのかもしれないと思っていると、側にいる少女がそう言った。その事から、思っていた通りであるのだという事が分かった。
こちらに駆け寄って来ていた女性が側までやって来ると、パンケーキを食べ終えた少女が母親の元まで行く。
「ママ。おねーちゃんにケーキもらった」
「まあ。ごめんなさい!」
娘が見ず知らずの相手からお菓子を貰った事を知り、既に慌てていた女性が血相を変えた。
「勝手にやって悪いな」
少女が欲しがるのであげてしまったが、母親の許可無くあげて良かったのだろうかと今更になってユーリは思っていた。
「大丈夫です。お姉さんにお礼した?」
女性からもお姉さんと呼ばれてしまった。その呼び方に慣れていないので、くすぐったいものを感じる。
「ありがとう!」
母親のスカートを掴んでいる少女が、先程食べたケーキが美味しかったと母親に訴え始めた。それを聞き嬉しさからついつい口元が緩んでしまう。
「それは良かったわね。折角のデートを邪魔してすみません。ほら、お姉さんにバイバイしようね」
「ばいばい」
デートとは何のことだろうかと思っていると、少女が名残惜しそうにしながら小さく手を振って来た。少女にユーリも手を振ると、二人は離れていった。
二人は少し離れた場所に敷いてるレジャーシートの元にいたようだ。そこには、女性と歳が変わらないように見える男性の姿がある。男性は少女の父親なのだろう。レジャーシートまで戻ると、少女はそんな男性に向かって身振り手振りで話し始めた。
ユーリは少女から事の成り行きを黙って見守っていたヴィクトルに視線を移す。
「お姉さんなんて初めて言われた」
「その格好だからね」
ヴィクトルはユーリが着ている服を見ながら言った。
今日ユーリが着ているのは、ヴィクトルが先日買って来た袖がフレアになっている珊瑚色と白の配色が可愛らしいワンピース。それに、インヒールの白いブーツだ。
先程少女とその母親に男だと思われなかったのは、その格好が原因だ。
ユーリを気まぐれに着飾った事により、ヴィクトルはユーリの服を買う事に目覚めてしまったようだ。あれから、似合いそうな服を見つけたと言っては服を買って来る。
それはどれも可愛らしい物ばかりであった。
「お前とカップルに見えるとはな」
デートという言葉を聞いた時には何故そんな事を女性が言ったのかという事が分からなかったのだが、ヴィクトルと恋人同士に間違われているのだという事に気が付いた。初めてそんなものに間違われた。
「兄妹の方が良かった?」
「どっちかっていうと、親子じゃね?」
「親子は酷いな。十二歳しか離れて無いのに」
苦笑いしながらそう言っているが、ヴィクトルはそう見られても仕方ない事が分かっている様子だ。
子供がやって来たので食べるのを中断していたパウンドケーキを、ヴィクトルが再び食べ始める。ユーリもまだ食べ終えていないパウンドケーキを食べていく。
一つ食べると満足する事ができたので、パウンドケーキを食べているヴィクトルを炭酸水を飲みながら眺める。
ヴィクトルが頻繁に服を買って来るのは、ご飯を作って貰っているお礼の意味もあるのかもしれないと、美味しそうに食べているヴィクトルを見て思った。
お金があるので、ヴィクトルは好意をお金で示す所がある。仲の良い相手に、高価な物を贈っている姿を何度か見た事がある。――否、今までそう思っていたのだが、高価な物を贈る理由は違うのかもしれない。
好意を表現する方法を、それしか知らない不器用な男なのかもしれない。
炭酸が最初よりも抜けている炭酸水を飲んでいると、少し離れた場所から女の子の声が聞こえて来る。
先程パウンドケーキを渡した少女の声であるように思えた。視線を遣った事により、思っていた通りであるのだという事が分かった。
少女は芝生で父親に遊んで貰っていた。楽しそうな光景にユーリは目を眇める。
「良いよね、子供は何もしなくても誰からも愛されるんだから」
聞こえて来たヴィクトルの言葉は、幼子を羨んでいるものである。
普通は大人が言う台詞では無いのだが、それは不意に零してしまった本音だとしか聞こえない。
ヴィクトルが他人に何の見返りも求めずに、愛嬌を振りまいているのでは無いのだという事には気が付いていた。
ヴィクトルは愛想を振りまかずとも、周りに人が集まるような存在である。それなのにわざわざ何故そんな事をするのかという事だけで無く、何を求めてそんな事をしているのかという事を以前から不思議に思っていた。
今漸くその理由が分かった。人から愛されたいという気持ちからであるようだ。
ヴィクトルがそんな風に貪欲なまでに他人から愛される事を望んでいるのは、生い立ちが原因なのかもしれない。愛を知らずに育った事により、得る事ができなかった愛情を必要以上に相手に求めているのだろう。
(ガキかよ)
そんな風に思ったが、決してヴィクトルの事を軽蔑している訳では無い。今ユーリの胸の中に湧き上がっているのは、庇護しなくてはいけないか弱い存在を目の前にしているようなものである。
ヴィクトルは実際には脆弱などでは無い。ユーリよりも遙かに立派な体をした大人である。そんな感情を持つのはおかしいという事は分かっているのだが、その気持ちを消し去る事ができない。
更にその感情が愛おしいというものへと姿を変える。
(なんだよこの気持ち……)
先程までとヴィクトルが別人のように見える。そして、輝いているように見える。誰かがこんな風に見えたのは、初めてだ。
訳が分からず動揺していると、見詰められたままになっているヴィクトルが怪訝な顔へとなった。
見過ぎてしまったのだという事が分かり、ユーリはさっと視線を逸らし、誤魔化そうと握ったままになっているグラスに入っている炭酸水を飲む。
グラスを握ったままになっていたので生ぬるくなっているだけで無く、炭酸が更に抜け水と呼んだ方が良い物へとなってしまっている。
不味いそれを飲むのを止めると、何故ヴィクトルの事を急に愛おしいなどと思ってしまったのかという事について考える。
(ヴィクトルの事が好きなのかも)
好きだとも嫌いだとも言えない相手であったヴィクトルの事を知る事によって、好意を抱いてしまったようだ。
そう思った後、その気持ちは本当に純粋な好意なのかという事が疑問になる。ただ好きであるだけならば、特別な存在には見えない筈だ。
(まさか……)
頭の中に浮かんだ考えは、認めたく無いようなものである。
即座にそれを否定したのだが、本当にそうなのだろうか。そうで無ければ特別な存在に見える事は無いのではないだろうかと、気持ちが揺らいでしまう。
(こいつの事が好き……?)
違うと何度思っても、そうであるのかもしれないという思いが姿を現す。徐々に違うと強く否定する事ができなくなり、最後には否定する事自体もできなくなってしまった。
(なんでこんな奴の事なんか)
恋愛感情をヴィクトルに対して抱いてしまっている事を認めると共に、そう思わずにはいられなかった。
ユーリは溜息を吐きながら、握っていた事すらも忘れていたカップを置く。その時、急に吐き気がこみ上げて来た。
「……っ」
このまま吐いてしまいそうになり手で口を押さえると、吐き気はすっと消えた。
再び気分が悪くなるかもしれないと警戒していたのだが、再び気分が悪くなってしまいそうな気配は無い。
「大丈夫?」
口から手を離すと、ヴィクトルから気遣わしげな様子でそう声を掛けられた。口を押さえている姿を見て、気分が悪いのだという事に気が付いたようだ。
「平気だ」
「昨日も気持ち悪そうにして無かった?」
食事が終わり片付けをしている最中、今と同じように急に気持ち悪くなっていた。何も言って来なかったので見られていないのだと思っていたのだが、そうでは無かったらしい。
「最近ちょっと体調悪いんだよな」
ここ最近、先程と同じように急に気分が悪くなる事があった。気分が悪くなったのが今日と昨日だけでは無いのだという事を知ると、ヴィクトルが不安そうな顔へとなる。
ヴィクトルを一層心配させてしまう事になったのだという事が、それを見て分かった。
「大丈夫だって。大したことねえから。さっきまで元気だっただろ?」
大きな子供をあやすようにして言ったのだが、ヴィクトルは顔を曇らせたままである。
「病院は行ったの?」
「いや、まだだけど」
気持ちが悪くなっても先程のように直ぐに元通りになっていたので、病院には行っていない。ユーリの返事を聞きヴィクトルの顔が曇る。
「今から行っても診療時間が終わってるだろうから、明日の朝行くんだよ」
病院に行くのなど面倒である。そして、大した事が無いので病院に行く必要は無い。そう思ったのだが、ヴィクトルが真面目な顔をして言うので素直に言葉に従う事にした。
「分かったよ」
返事を聞くと、漸くヴィクトルが安心した様子へとなった。そんなヴィクトルの姿を見ていると、ふわふわした気持ちへとなる。
ヴィクトルにこんな風に心配されたのが初めてであるので、そんな気持ちへとなってしまったようだ。理由は分かったのだが、それでも何故そんな気持ちになってしまったのか不思議だ。
一頻り考えた事により理由が分かった。ヴィクトルの事が好きだからそんな気持ちへとなったようだ。
人を好きになると、今まで感じなかった事を感じるようになるらしい。面倒臭いとそれに対して思いながらも、決してそれは嫌では無かった。
この後暫く公園で過ごした後、ユーリはヴィクトルと共に片付けをして公園を離れた。
九章 酔仙翁
「妊娠されてますね」
「はあ?」
医者の言葉の意味を理解する事はできているのだが、全く予想していなかったものであった為、驚きからそんな言葉が口を衝いて出た。
怪訝な顔をしながら見詰めたのだが、焦げ茶色のドクターチェアに座っている医者は眉ひとつ動かす事は無かった。
練習に行くヴィクトルを見送り使い終えた食器を片付け、掃除や洗濯などをした後、昨日病院に行くという事をヴィクトルと約束したのでユーリはここにやって来た。
ここはヴィクトルの元で暮らすようになってから、月に一回妊娠しているかどうかという事を確認する為に来ている病院だ。妊娠しているかどうかという事を確認するのでは無いというのにこの病院にしたのは、いつも行っているからという理由だけである。
この半年、毎日のようにヴィクトルと妊娠をする可能性がある行為をしている。しかし、お腹の中に子供がいるかもしれないという事を欠片も思っていなかった。
それは、この半年どんなに行為を重ねても身籠もる事が無かったからだ。
「でも、俺は調子が悪いからみて貰っただけなのに」
妊娠しているという事実を易々と信じる事ができなかったのは、先程までしていた検査は妊娠しているかどうかという事を確認するものでは無かった筈であるからという理由もある。医者から風邪かもしれないと言われて検査をしていた。
「もしかしてと思ったので、同時に妊娠検査もさせていただきました。吐き気は妊娠の初期症状ですね」
医者の言葉を信じるしか無い状況である。まだ信じられないという気持ちを持ったままであったが、医者の言葉を信じる事にした。
「そうなのか。……どのぐらいなんだ?」
お腹の中にいる子供がどれだけ育っているのかという事が気になった。
「それは、内検査をしてみないと分からないですね。しかし、前回の診察が一ヶ月ほど前なので、三週以内だという事は間違い無いです。この後内検査をしましょう」
「あ、ああ」
内検査は何度か受けている。医者にとっては慣れた行為であるのだろうが、ユーリにとっては何度しても慣れる事ができないものである。他人の前で足を広げるという行為は、屈辱を感じるものだ。
「スケート連盟には、こちらから連絡しておきます。プリセツキーさんにはこのまま入院していただきますので、必要な物があれば持って来てもらってください」
「えっ……何で?」
何故医者がそんな事を言ったのかという事が理解できずユーリは混乱した。出産の際に入院をしなくてはいけないが、それまではそんな事をする必要は無い筈だ。
「プリセツキーさんのお腹の中にいるお子さんは、国の物です。何かあると困るので、子供ができたら入院させるようにスケート連盟から言われているんです」
子供に何かあったので入院しなければいけないのかもしれないと不安になっていたのだが、そうでは無いのだという事が分かった。しかし、理由を知った事により安堵する事はできなかった。
子供は国が育てるという事を聞いていたのだが、今までその事をすっかり忘れていた。
(こいつは取られるって事なのかよ)
そう思った事により、急にお腹の中に新しい命が存在しているのを感じる。自然とまだ膨らみの欠片も無い腹部に手が伸びた。
「内検査の準備をしますので、診察室の前でお待ちください」
事務的な口調で医者から告げられる。
まだ混乱したままになっていたが、医者から退室する事を促されてしまったので、このままこの診察室の中にいたままでいる事はできない。椅子から腰を上げ、部屋の中に入って来た際に籠へと入れた荷物を手に取る。
廊下に出ると、ユーリは診察室の前にある椅子へと腰を下ろした。
お腹の中には子供がいるのだ。呆然としながらそう思った後、昨日公園で会った少女の事を思い出す。
(……やだ)
お腹の中にいる子供は、直ぐにあの少女のように大きくなるのだ。そう思う事によって、子供を渡したく無いと思った。
産まれて来た子供を取られてしまう事を想像するだけで、底知れぬ恐怖を感じてしまう。
子供は自分で育てたい。しかし、それをスケート連盟に告げても了解してくれるとは思えない。スケート連盟にとってユーリとヴィクトルの子供は、ダイヤモンドの原石のような大切だ。
(ヴィクトルに言えば。……駄目だ)
思い浮かんだ案を、考える間も無く即座にユーリは否定した。
自分の子供を国に渡したく無いと、ヴィクトルも思う筈である。そう思ったのだが、ヴィクトルが子供を望んでいない事を思い出した。そんなヴィクトルが、子供を渡したく無いと思う筈が無い。
(だけど……渡したく無い)
子供を己の元に留めておく他の方法を、ユーリは眉根を寄せながら苦慮した。
ぱたぱたと足音を立てながら足早に廊下を進んでいた看護師は、別の看護師の元まで行くと足を止める。
「プリセツキーさん見なかった?」
「あの金髪の可愛い男の子みたいな子?」
「そう。さっきから捜してるんだけど見当たらなくて」
医者に呼んで来るように頼まれたユーリが病室の前にいなかったので、看護師はユーリの姿を病院の中で捜していっていた。
こんなにも看護師が慌てているのは、ユーリが国から任されている存在であるからだ。何かあると責任問題に発展する可能性がある。
「さっき見かけたわよ」
「どこにいたの?」
漸くユーリを見かけたという者を見つけ、看護師はもう一人の看護師に詰め寄った。そんな看護師の気迫に押された様子へともう一人の看護師はなっていた。
「青い顔して病院から出て行ってたわよ」
「出て行った……!」
心配していた事が現実になってしまった事が分かり、看護師は青ざめた顔色へとなっていた。
十章 薔薇
練習場から自宅までの道のりを愛車で進む。
今乗っているいるのは、去年買い換えたばかりの高級車と呼ばれる車だ。スケート連盟から高級車を贈られているのだが、去年車を買い換えてからはこちらばかり乗っている。
ヴィクトルの収入は、高額な賞金やスケート連盟からの給与。勇利のコーチ代などというスケート関係のものだけでは無い。他にも雑誌のモデルをしたり、テレビに出演したりして稼いでいる。
スケートの収入だけで、普通の者ならば一生手に入れる事ができないような額を稼いでいる。それにも拘わらず更にスケート以外でも金を稼いでいるのは、昔から目立つのが好きであるのでモデルをしたりテレビに出演したりするのが嫌いでは無いからだけでは無い。
幾ら金を稼いでも、物足りなくなってしまうからという理由もある。
決して恵まれていたとはいえない生まれである事が、そんな風に思ってしまう原因なのかもしれない。
(ユーリに似合うと良いんだけど)
そう思いながらヴィクトルは、バックミラーに視線を遣る。
後部座席には虹色の、まるで砂糖菓子のように優しい色合いの紙袋が置いてある。その中に入っているのは、練習が終わった後寄った若い女性向けのファッションブランドで購入した服だ。
先日雑誌を見ていると、ユーリに似合いそうな服があった。気になったので店に行くと、その服以外にも何着か似合いそうな物があった。金には困っていないので、それらの服を全て購入した。
どれもお伽噺の中に出て来るお姫様が着ていそうな、甘い色や形の物だ。
ユーリが少年のような服装をしているのは、性別を誤魔化していたからなのだと思っていた。しかし、それもあるのかもしれないが好んでそんな格好をしているのだという事を知った。
だが、妖精と呼ばれてしまうのを頷く事ができる容貌をしたユーリには、可愛らしい格好の方が似合う。その為、可愛い服を着た姿が見たくてそんな服ばかり買ってしまう。
(嫌そうな顔をしながらも着てくれるって事は、本気で嫌だって思ってるって事じゃないだろうし)
ユーリの服を買う事を、ヴィクトルはこれからも止めるつもりは無い。
視線を前に戻し車を走らせていると、信号が赤になったので停車する。
(もう半年になるのか)
信号を眺めていると、不意にユーリが家にやって来てから。そして、スケート連盟からユーリと子供を作るように言われてから、半年も経過しているのだという事に気が付いた。
ユーリが性別を偽り本当は女であったのだという事を知った時は、血が沸騰しているのを感じるほど憤慨した。その後ユーリに毒のある態度で接してしまったのだが、勇利から苦言を呈され反省をした。
態度を改める必要は無いとユーリから言われたのだが、本音をぶつける事によって気持ちが晴れたからなのだろう。刺々しい態度を取る事は無くなった。それどころか、優しく接する事ができるようになった。
それは良い変化であったのだろう。ユーリとの共同生活がそれまでは苦痛であったのだが、それからは楽しいと思えるものへとなった。
少し前の事であるというのに、家に戻るのが苦痛であった頃を今は懐かしく思ってしまう程だ。
(何でユーリには自分を偽れないんだろうね)
優しく接する事ができるようになったが、今もまだ他の相手に対するように自分を偽る事ができないままだ。その事について何度も考えたのだが、一度も理由が思い浮かばないままになっている。
何故あんな子供に対して、自分を偽る事ができないのかという事が不思議だ。ユーリと同じ年頃の他の相手に、同じような対応をする己の姿を想像する事すらもできない。
ユーリの事を子供だと思っていないのかもしれない。思い浮かんだその考えを否定する事ができなかったのは、ユーリを抱いた際にこんな子供など抱けないと思わなかったからだ。
ユーリ以外の同じ年頃の少女が相手であれば、抱く事はできなかっただろう。ユーリの事を子供であると認識していると思っていたのだが、それは口だけで実際はそうでは無かったようだ。
ユーリの事を子供であると思っていないのだという事は分かったが、ユーリに対してだけ何故自分を偽る事ができないのかという答えは、どんなに考えても出て来ない。頭を悩ませていると信号が青になったので、ヴィクトルは再び車を走らせる。
車内に流れている最近好んで頻繁に聞いている音楽を聴きながら道を進んで行くと、自宅がある集合住宅が見えて来た。
駐車場がある地下へと入り車を停めて建物の中に入ると、エレベーターで自宅がある階まで向かう。
(今日の晩ご飯は何だろ?)
自宅に戻る事が今は楽しみになっているのは、戻ると温かく美味しい料理が待っているからという理由もある。誰かが家で料理を作って待ってくれているというのは、初めての経験だ。
今まで既に何人であるのかという事が分からなくなっているほどの人数の女性と関係を持ち、何人もの女性と付き合って来た。しかし、手料理を作ってくれた者は一人もいない。
付き合っている相手がヴィクトルに料理を作らなかったのは、ヴィクトルがそんな事を望んでいないと思っていたからのようだ。
それを知った時、素人の料理よりもプロが作った物の方が美味しい。作って欲しいなどと思っていない。そう思ったのだが、それは虚勢であったのだという事が今になって分かった。
本当は誰かに、料理を作って欲しかったらしい。そして、家で待っていて欲しいと思っていたようだ。
(それがユーリになるなんてね)
心の中でそう呟くと、エレベーターの扉が開いた。廊下に出て扉の前まで行き、ポケットの中から取り出した鍵を使い錠前を解除する。
(あれ?)
部屋の中に入った瞬間、いつもと違う事にヴィクトルは気が付いた。
料理をユーリが作るようになってから、家に戻ると料理の美味しそうな香りがしていた。しかし、今はそんな香りがしていなかった。それに気が付いた後、物音がしていない事にも気が付いた。
ヴィクトルが戻って来る時間になっている事に気が付かず、ユーリは眠っているのかもしれない。料理ができていない事と物音がしない理由は、それしか思い浮かばない。
自分を巻き込んだのだから、料理を作るのは当然だなどと思っていない。料理はユーリが好意で作ってくれている物であると思っている。その為、料理ができていない事を不満に思う事は無かった。
(いつも作ってくれてるし、今日は何か頼んだら良いよね)
今から作るとユーリは言うだろうが、毎日作ってくれているユーリに無理をさせるつもりは無い。そんな事を考えながらダイニングキッチンまで行き部屋の中に入る。
部屋数が多いため余っている部屋があったので、そんな部屋の一つをユーリに与えている。しかし、ユーリは自室にしているそんな部屋で過ごすよりも、ダイニングキッチンやリビングで過ごしている事が多かった。
(あれ? ここじゃ無かったんだ)
ダイニングキッチンにあるソファーで寝ているのだと思っていたのだが、部屋の中にはユーリの姿は無かった。
ヴィクトルは荷物を床に置くと、ユーリの姿を探しリビングまで行く。しかし、そこにもユーリの姿は無かった。
「ユーリ?」
何処に行ったのだろうかという事を思いながら他の部屋も見ていったのだが、ユーリの姿を見つける事はできなかった。
家の中にいないという事は、外出しているという事である。昼間に食材を買いにスーパーマーケットなどに行く事はあるようなのだが、戻って来た時にユーリがいないのは初めてだ。
ユーリには友達がオタベックしかいない。カザフスタン在住であるので、そんなオタベックの元に遊びに行ったとは考えられない。
他にユーリが行きそうな場所を考えた事によって思い浮かんだのは、ヤコフの元妻であるリリア・バラノフスカヤの元である。
(それは無いか)
シニアデビューに際して、ユーリはリリアの元で生活をしていたそうだ。そんなリリアの元にいるかもしれないと思ったのだが確認する前に否定をしたのは、女であるという事が露見してから連絡を取っていないようであったからだ。
ユーリが連絡を取っていないのは、リリアだけでは無い。リンクメイトの中で最も親しかったミラとも連絡をしていないようだ。それは、今まで騙していたので合わせる顔がないからのようだ。
(勇利の所とか)
勇利とは連絡を取り合っており、時折ユーリの話題に名前があがる。そんな勇利の元に行ったのかもしれないと思ったのだが、先日まだ家に遊びに行った事がないという事を言っていた事を思い出した。
遊びに行く事になったのならば、その事を言って来る筈だ。それに、女の子を一人で家に上げる事はできないと勇利から言われたと言っていた。勇利の所でも無いとしか思えない。
何処に行ったのかという事の見当が全くつかない。
(メッセージが来てるかも)
ユーリから連絡は来ていないと思っていたのだが、連絡が来ているというのに気が付いていなかっただけという可能性もある。そう思い、ヴィクトルはズボンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
思っていた通りメッセージが届いていた。
(え……?)
ユーリの名前と共にロック画面に表示されている文章にヴィクトルは驚いた。ごめんという文章だけがユーリから送られて来ていた。
何故ユーリが謝罪しているのかという事が分からない。原因が全く思い浮かばずヴィクトルは苦い顔をしながらホーム画面を開くと、ユーリに電話を掛ける。
呼び出し音を聞きながらソファーへと腰を掛ける。
そろそろ電話に出そうであるというのに通話が繋がらない。ユーリが電話に出ない事を不思議に思っていると、呼び出し音が留守番電話に切り替わった。
再度電話を掛けたのだが今度も通話が繋がる事が無く、留守番電話になった。
「ユーリ?」
電話に出る事ができない状況へとなっているのだけである。それは心配するような出来事では無い。そう思いたいのだが、先程見たメッセージが頭にちらつき胸に湧き上がっている不安な気持ちを消し去る事ができない。
この少し後、ヴィクトルは家の中からピョーチャも居なくなっている事に気が付いた。
十一章 壺珊瑚
ここに来るしか無いと思いここまでやって来たのだが、中に入って良いのかという事が分からず躊躇ってしまう。
中に入らなければ、ロシアから決して近く無いここまで来た意味が無い。それに、他に行く場所が無い。下ろしていたマスクを元に戻すと、ユーリはキャリーカートを引きながら正面玄関を目指す。
ロシアで身を隠しても、国が拘わっているので見つけ出され何処かに閉じ込められてしまう事になるとしか思えない。そんな事になれば、産まれて来た子供を奪われてしまう事になる。
国外に逃げなくてはいけないと思う事によってまず浮かんだのは、唯一の友達であるオタベックの元であった。しかし、オタベックの元に行くという案を即座に却下した。それは、オタベックに本当は女であるという事を伝えていないからだ。
ヴィクトルの元で過ごすようになってから幾ばくか経過したある日、スケート連盟から引退の理由は怪我によりこれ以上競技を続ける事ができなくなったというものにするという連絡があった。オタベックには真実を伝えずに、その引退理由を伝えてある。
オタベックの事を親友であると思っていながら嘘を吐いたのは、オタベックが友達になろうと言って来たのは、ユーリの事を男であると思っていたからだという事が分かっていたからだ。初めてできた友達を失いたくなかった。
しかし、このままオタベックを騙かし続ける事は無理だという事は分かっている。いつか話さなければいけないのだが、今はまだ腹を据える事はできない。
他に頼る事ができる相手を考えた事によって浮かんだのは、シニアデビューをする前に一週間ほど滞在した勇利の実家である。
あそこならば、子供が生まれる迄の間いさせてくれるかもしれない。ユーリはそう思い病院を抜けだしヴィクトルの家に戻った。そして、ロシアを離れる準備を直ぐにしてここまでやって来た。
海外には遠征で行き慣れているのだが、一人でロシアを離れたのは前回日本に行った際だけである。今回も何の問題も無く日本まで行けるのかという事を不安に思っていたのだが、ここまで滞りなくやって来る事ができた。
前回は不安にならなかったのに今回は不安になったのは、お腹の中に子供がいるからなのだろう。
「いらっしゃい。あれ、ユリオくんじゃないの。どうしたの? 日本にまた遊びに来たの」
勇利の実家であるゆ~とぴあ かつきの中に入ると、入って直ぐの場所にある受付にいた勇利の父親である利也から声を掛けられた。暫くここにいさせて欲しいと頼む為にやって来たというのに、返事に躊躇してしまう。
「あらあら、ユリオくん」
言葉に詰まっていると、勇利の母親である寛子もやって来た。客がやって来たと思い表に出て来たのだろう。
ここで過ごしたのは一週間だけであるのだが、濃密な一週間であったからなのだろう。実際の日数よりも長くここにいたように感じる。そんな日々が二人の姿を見ると脳裏に蘇った。
「あれ、ユリオ」
二人の姿を目を眇めて見詰めていると、更に勇利の七つ上の姉である真利もやって来た。
ユーリにユリオという渾名を付けたのは、弟の勇利とは反対に派手な風貌の真利である。最初は勇利に名前を取られたように感じて渾名を嫌悪していたのだが、親しみを込めて呼ばれているうちにそんな風に呼ばれるのが嫌では無くなった。
三人は、ユーリが何故ここにやって来ているのかという事を不思議に思っている様子である。何も知らないのだから当然だろう。早く話さなければいけないと思い、ペットキャリーを地面に置きキャリーから手を離す。
前回はピョーチャを置いて来たが、今回は連れて来ている。それは、前回と違いもうロシアに戻るかどうかという事が分からないからだ。
「ここに暫くいさせてくれ!」
「暫く? どうしたの」
勢いよく捲し立てるようにして言うと、真利が狼狽した様子でそう言った。突然現れた相手から、そんな事を言われれば困惑するのは当然だろう。受け入れてくれるだろうかと不安になりながら理由を告げる。
「お腹に子供がいるんだ。ロシアにいたままだと、子供を取られちまうからここまで逃げて来た。……子供をどうしても渡したく無いから、子供が生まれるまでここにいさせて欲しい」
「子供? えっ……」
ユーリが女であるという事を知らない三人は、話しを聞き全員面食らった様子へとなっていた。
今まで欺いていたのだという事実は、できる事であれば伝えたくないものである。しかし、こんな事を頼んだというのに、三人に真実を話さない訳にはいかない。
「俺、男じゃねえんだ。本当は女なんだ。ずっと嘘吐いてた。……ごめん」
「何でそんな嘘なんか。それよりも、子供を取られるってどういう事なの?」
未だに困惑した様子へとなったままの真利がそう言った。
「女だってスケ連にバレて、男として選手だった俺にもうスケートは続けさせられないからって、子供作ってその子供をスケーターにするって言われたんだ」
その相手は三人も知っているヴィクトルであるのだが、相手が誰なのかという事を告げる事はできなかった。
ヴィクトルは巻き添えを食うただけであるのだが、ユーリよりも十二歳も年上であるので、そのせいで悪い印象を持たれてしまう可能性があったからだ。
「何それ。そんな理由で子供作らせて、更にユリオから子供を取り上げようとしてるの」
語調からだけで無く、表情からも真利が激怒しているのだという事が分かった。
「そういう事情なら暫くここにおらったらええね」
黙って話しを聞いていた寛子の言葉に胸を撫で下ろした。
「有り難う」
ここならばいさせてくれるかもしれないと思いやって来たのだが、決して三人の肉親である勇利とは親しいとは言えない仲である。その為、三人からすればユーリはただの他人でしかない。迷惑がられてしまうかもしれないと不安になっていた。
体に入っていた力を抜くと、小柄な寛子に体を抱きしめられ幼子にするように頭を撫でられる。
「大変だったね。これからはここでゆっくりしたらええよ」
寛子の言葉は胸に染みこんでいくようなものであった。
感情が高ぶり瞳に涙が溢れる。
泣くのは格好悪いこと。恥ずかしい事であると思っているので、人前で泣くのは嫌いだ。瞳から今にも溢れてしまいそうになっている涙をユーリは堪えようとした。しかし、堪える事ができなくなってしまった。
「ふっ……んぅ……」
体裁を整える事ができなくなり、赤子のように声をあげて泣き出した。ユーリが泣き止むまで、寛子は体を抱きしめ頭を撫でたままでいてくれた。
母親というのは、本来全てを受け止めてくれる存在であるのかもしれない。まだどんな母親になりたいのかという事を考えていなかったのだが、寛子のように何があっても子供を受け入れる事ができる存在へとなりたいと思った。
これからはお腹の中の子供のために生きなくてはいけない。そうユーリは決意すると共に、泣くのはこれで最後にする事を決めた。
★ ★
料理ができあがったと厨房の中にいる料理人から声を掛けられたので、ユーリはカウンターに置いてある料理を木製の盆に乗せる。
一緒に置いてある紙には、三という文字が書いてある。三番の机にこの料理を運べば良いという事だ。
ゆ~とぴあ かつきの食堂では、出来上がった料理を何処に運ぶのかという事は置いてある伝票を見て確認する事になっていた。しかし、ユーリが日本語を読む事ができないので、料理と一緒にそれを運ぶ机の番号が書いてある紙が置かれるようになっていた。
飲食店で働いた事が無いので、手伝いをするようになったばかりの頃は料理を運んでいる最中に盆から落としてしまいそうに何度もなった。しかし今は、何か不測の事態でも起きなければ、そんな風になる事は無くなっている。
頻繁に顔を見かける中年男性の元まで行くと、ユーリは料理を机に置く。
「ユリオちゃん有り難う」
ビールを飲んでいた中年男性が話しかけて来た言葉は日本語である。
勝生家や西郡家は皆英語を話す事ができるのだが、日本人が皆英語ができるという訳では無い。それどころか、英語を話せない者の方が圧倒的に多い。その為、ここで客から話しかけられる言葉は日本語が殆どだ。
最初は全くそんな日本語を理解する事ができなかったのだが、毎日聞く事によって今はある程度理解する事ができるようになっている。その事に対して、寛子からは「ユリオくんはかしこいね」と褒められている。
何かできると直ぐに褒めてくれる寛子は、ユーリにとって第二の母親のような存在だ。
「相変わらずユリオちゃんは可愛いね」
「本当。モデルさんみたいだよな」
「そうそう。こんな可愛い子都会でもなかなかいないよ」
楽しそうに話しかけて来ている二人は、この温泉施設の経営者の息子である勇利がスケーターである事は知っているようなのだが、スケートに詳しくないようだ。その為ユーリの事を知らず、海外から日本に働きに来ている外人である思っているようだ。
以前日本に来た際、日本にはロシアよりもスケートに興味の無い者が多いのだという事を知った。しかし、ここで生活するようになって、思っていたよりも更に興味が無い者が多いのだという事を知った。
スケートに興味が無い者がこんなにもいる事は、スケート大国のロシアでは考えられない事である。しかし、その事を不満に思った事は無い。それは、そのおかげで静かにここで生活する事ができているからだ。
「こんな可愛い子に運んで来て貰ったら、余計に美味しくなっちゃうね」
「本当に」
ユーリの事を気に入っていて二人が話しかけて来ているのだという事と、それ以上何もするつもりが無いのだという事は分かっている。その為、親しそうに二人から話しかけられても不快になった事は無い。
こうやって話しかけて来る者の中には、ナンパ目的の者もいる。執拗に言い寄って来る者もいるので、声を掛けて来る相手には警戒するようになった。
「そろそろ産まれるんじゃないの?」
ここに来たばかりは全く膨らんでいなかったユーリの腹部であるのだが、今は妊婦であるという事が誰から見ても分かるようになっている。ユーリは、大きなお腹を見ながら質問して来た男に対して首を縦に振った。
「男の子なの、女の子なの?」
「おんなのこだって先生いってた」
少しならば日本語を話す事ができるようになっているので、日本語で返事をした。
片言の日本語は客を和ませるもののようだ。二人ともユーリが話すといつも白い歯を零す。
「へーそうなの。ユリオちゃんに似てたら可愛いだろうな」
楽しみであるというようにして言った男の言葉に、もう一人の男が同意した。
二人の事は嫌いでは無いが、いつまでも話しに付き合っていると他の仕事ができない。ユーリは小さく頭を上げた後二人の元を離れた。
カウンターに戻り運ばなくてはいけない物は無いのかという事を確認したのだが、無かったので何か運ぶ物ができるまで食堂の端で待っている事になった。
食堂で料理を運ぶ事だけがユーリの仕事では無い。ここで仕事をするようになったばかりの頃はできる事が少なかったのだが、今は完璧に日本語を理解し話す事ができなければできない仕事以外はするようになっている。
食堂の中を見ていっていると、他の仕事をしていた真利がやって来た。
「ユリオ、そろそろお昼休憩入って良いよ」
昼食は空いた時間に順番に取る事になっているので、順番になるといつも呼びに来てくれる。返事をしようとすると、館内着の上から半被を着た寛子がやって来た。
手伝いをするようになってから、ユーリも二人と同じようにこの温泉施設の館内着をきている。
「買い出しに行って来てくれる?」
寛子がやって来たのは、真利に買い出しを頼む為であったようだ。
「急ぐ?」
「そうね」
「今座布団片付けている途中だから、それが終わってからでも良い?」
真利が分かったと返事をせずに急ぐのかという事を確認したのは、直ぐに買い物に行く事ができない状況であったからなのだろう。
「俺が行く」
「ユリオは今からご飯でしょ」
真利から弟に言い聞かせるようにして言われた。
弟がいるので、真利は年下に対して自然とそんな風に言ってしまうようだ。それを不快に思った事は無いので、文句を言った事は無い。
「まだお腹減って無いから平気。それに、医者に動いた方が良いって言われているし。俺が行って来る」
買い出しに代わりに行こうとしているのは、今言った事だけが勿論理由では無い。二人には世話になっているので、役に立ちたいという事も大きな理由の一つである。
「そうね。じゃあユリオくんにお願いしようかとね」
行くとユーリがもう決めている事に気が付いたので、寛子はそう言ったのだろう。それが分かっていても、仕事を任せてくれた事が嬉しくて頬が緩んでしまう。
買って来て欲しい物をポケットに入れてあるメモ帳に書くと、買い出し用の財布を寛子から受け取る。そして、以前滞在していた時にも使っていた部屋へと向かう。
そこを今回も自分の部屋としてユーリは使わせて貰っている。その部屋に置いてある上着を館内着の上から羽織ると、ユーリは寛子の元へと戻った。
「じゃあ行って来る」
寛子の元には、積み重なった座布団を持った真利の姿があった。偶然寛子の元にやって来ていたというよりも、ユーリを見送る為にそこにいたという様子である。
「気を付けてよ」
「何かあったら電話するとよ」
真利の後に寛子が優しい笑みを浮かべながらそう続けた。
「分かってるって」
そう言って二人と別れ入り口まで行くと、そこにいる利也から声を掛けられた。利也の言葉にも返事をしてからユーリは建物を出た。
もう直ぐ夏へとなるのだが、海の近くにあるこの街の空気はまだ冷たいものである。
ユーリが長谷津にやって来てから、既に八ヶ月が経過している。妊娠何週目であるのかという事をまだ調べて貰っていなかったので、こちらに来て直ぐに産婦人科に行き調べて貰った。その結果、三週目であるという事が分かった。
それから八ヶ月が経過した今は三十二週目へとなっており、いつ子供が生まれてもおかしく無い正期産になっている。
子宮が大きくなり動機や息切れをするようになったユーリを見た寛子から、気を遣って手伝いをする必要はもう無い。子供が生まれるまでゆっくりしていて良いと言ってくれている。
しかし、何もせずにはいられなかったので、大丈夫だと言って説得をしてまだ働かせて貰っていた。
長谷津に来たばかりの頃はただ置いて貰っているだけであったのだが、何もせずに置いて貰うというのはどうなのだろうかと思うようになった。
前回は短期間であったので無料で置いて貰ったが、今回は長期間である。更に二度目であるのと、勇利とは決して親しいという間柄では無い。その為、今回は謝礼を渡すつもりであった。
しかし、ここにやって来た事情を知っている勇利の両親と真利から、持っているお金は子供の為に使った方が良いと言われお金を受け取って貰う事ができなかった。
確かに子供を育てるにはお金が掛かる。お金は少しでも残しておいた方が良いだろう。そう思いユーリは、申し訳ないと思いながらもその言葉を受け入れていた。
考えた末に、温泉施設を手伝わせて欲しいと寛子に申し出た。最初は妊婦である事を理由に渋っていたのだが、説得する事によって手伝わせて貰える事になった。
今までスケートしかした事が無く働いた事が無かったので、最初は戸惑ったり苦労したりする事も多かった。しかし、八ヶ月近く働いている今は仕事に慣れる事ができていた。
温泉施設から歩いて行く事ができる商店街まで行くと、頼まれた物を個人商店で買っていく。
何でも揃っているスーパーマーケットも、歩いて行く事ができる距離にある。しかし、買い物は商店街の個人商店でして欲しいと寛子から言われているので、そこでするようにしていた。
最初はその理由が分からなかったのだが、買わないと個人商店が潰れてしまうからなのだという事が今は分かっている。
「あら、ユリオちゃん」
食品を買い店から出ると、腕にビニール袋と手提げ鞄を掛けた女性から声を掛けられた。
声を掛けて来たのは、ゆ~とぴあ かつきの近所で暮らしている女性だ。女性は夫と子供と共に時折温泉に入りに来ている。その際に話した事があるので、ユーリの顔を覚えていた。
「こんにちは。お使い?」
女性は手に持っているビニール袋を見ながら質問をして来た。
「はい」
「そう。えらいね。これ持って行きなさい」
がさごそとビニール袋の中を漁った女性から、手の平から少しはみ出る程度の大きさをしたスナック菓子を差し出される。
女性がスナック菓子を取り出したのは、先程ユーリが買い物をした小さなスーパーマーケットの袋だ。先程そこで買った物を女性はユーリに渡そうとしてるらしい。
女性がわざわざ買った物を気軽に貰う事などできず受け取る事を躊躇してしまう。
「遠慮せず貰ってね」
手を差し出す事ができずにいると、女性から朗らかな笑みでそう言われた。
また受け取っても良いのだろうかという気持ちがあったのだが、遠慮せずに受け取った方が女性が喜ぶのだろうと思い、受け取る事にした。
「ありがとうございます」
「お腹の子供が元気に産まれると良いわね」
「はい」
お腹の赤ん坊の事を気に掛けてくれた女性に頭を下げると、ユーリは女性と別れ商店街の中を歩き出す。
商店街の中を歩いていると、他にも声を掛けて来る者がいた。声を掛けて来た者は皆、先程の女性と同じようににこやかな顔をした者ばかりである。
外国人の少ないこの街では目立つ外見をしたユーリを、最初は遠巻きに見る者もいた。しかし、ゆ~とぴあ かつきで働いているのだという事が周知されたからなのか、今はそんな風に見て来る者はいなくなった。そして、知らない者からも親切にされる事が多くなった。
商店街を離れゆ~とぴあ かつきに向かっている途中、白い花が咲いた木が並んでいる場所の横を通る。
その白い花の名前を最初は知らなかったのだが、共にここを歩いている時に寛子から山梔子と言うのだと教えて貰った。甘い香りを漂わせている山梔子は、それを知らない誰かに教えたくなるような存在である。
「じいちゃん」
教えたい相手として浮かんだのは祖父の姿だ。
何も言わないままでいる事はできないので、祖父にはスケート連盟が決めた引退理由である怪我をしたので続ける事ができなくなったという事を告げてある。それから、祖父には連絡していない。
怪我をしたという嘘を信じた祖父は、その事を心配していた。心が痛くなったのだが、本当の事を言えば自分が娘と一緒に行かなかったからだと自責の念に駆られる事が分かっていた。その為、言える筈が無い。
祖父の事を思い出した事により年齢の近いヤコフの事を思い出す。ヤコフにもここにいる事を伝えていない。長谷津にユーリがいる事を知っているのは、勇利だけだ。
勇利も最初はその事を知らなかったのだが、帰省した勇利と会い知られる事になった。その際にここにやって来た事情を話し、ヴィクトルだけで無く他の者にもここにいる事を伝えないで欲しいと懇願した。
それを聞き入れてくれたので、誰にも話していない筈だ。
(ヤコフに何か無いと良いんだけど)
ヤコフはユーリに欺かれていただけである。それでも、スケート連盟にユーリを庇うような事を言ってくれたようなので、ユーリが姿を消した事により責任を取らされていないかという事が心配になった。
勿論、心配な相手はヤコフだけでは無い。巻き込んでしまったヴィクトルの事も心配だ。しかし、子供を渡す事はできないので、ロシアに戻る事はできない。
(これからどうするかそろそろ考えないとな)
いつまでも勇利の実家の世話になっている事はできないという事は分かっている。
勇利の実家を出て暮らす事を考えなければいけないのだが、少しは慣れたとはいえ日本で子供と二人っきりで生活をする事は不安だ。しかし、そんな我が儘を言っている事はできない。
焦燥感からユーリは空いている方の手を腹部に伸ばす。
(早く産まれて来ねえかな)
子供が生まれて来る事に不安が全く無い訳では無い。それどころか不安ばかりであるというのに、早くお腹の中にいる子供に会いたかった。
妊娠が発覚したばかりの時はそんな事まで考えが至らなかったのだが、お腹の中にいるのは愛する相手との間の子供だ。誰が相手であっても子供は可愛いのだが、ヴィクトルとの子供であると思うと愛おしさは一入である。
腹部を優しく撫でていると、体の内側から赤ん坊に蹴られたのを感じる。
「元気だな。早くお前と会いてえな」
こんな風に胎動を感じる度に自然と頬が緩んでしまう。お腹の中の子供に話しかけていた時、名前を呼ぶ声が聞こえて来た。
「ユーリ」
ここでは皆ユリオという渾名で呼ぶ。ユーリと呼ばれた事にだけで無く、聞き覚えのある声のものであった事に、ユーリは目を丸くして驚いた。
聞こえて来たのは、他人の声と聞き間違う事が無いような特徴的な声である。こんな声をした者が他にいるとは思えない。しかし、頭に思い描いている人物がここにいる筈が無い。
ユーリは顔を強ばらせながら恐る恐る振り返る。
「……ヴィクトル?」
十二章 姫檜扇
ここにいる筈が無いヴィクトルの姿を見た事によって頭が真っ白になり、持っていたビニール袋が手から離れる。
がちゃっという割れた音を聞く事によって、中に入っていた卵が割れたのだという事が分かった。だが今は、その音を聞いても卵を割ってしまった事に対して、狼狽する事はできなかった。
(逃げねえと)
ヴィクトルがここに来ているのは、ユーリをロシアに連れ戻す為であるだろう。そして、子供をスケート連盟に渡す為であるだろう。それ以外に理由が考えられないので、間違い無い。
拳を握りしめて踝を巡らせると、ユーリはその場から走り出す。それと同時に、ヴィクトルの声が聞こえて来た。
「ユーリ!」
ヴィクトルに呼び止められたのだが、足を止める事などできない。そんな事をすれば捕まってしまう。ヴィクトルを無視して走っていたのだが、お腹が大きいので思うように走る事ができない。
このままではヴィクトルに捕まってしまう事になる。そう思うと焦燥感が高まった。だが、これ以上速度を上げる事ができない。
「ユーリ!」
足音からヴィクトルが側まで迫っているのを感じていると、腕を背後から掴まれると同時に名前を再び呼ばれた。
これ以上走り続ける事ができなくなり足を止めると、ヴィクトルに体を抱きしめられる。
「――っ!」
「ロシアに帰ろう」
突然抱きしめられた事に狼狽していると、ヴィクトルのそんな言葉が聞こえて来た。思っていた通り、ユーリを連れ戻す為にヴィクトルはここにやって来たのだという事が分かった。
「無理だ」
ヴィクトルから逃れようと体を大きく揺らしたのだが、体を拘束している腕の力が緩む事は無かった。
力でヴィクトルに勝つ事など不可能であるという事が分かっていても、抵抗する事を止める事ができない。ユーリは尚も体を揺らした。
「何で無理なんだい?」
問い掛けて来たヴィクトルの声は、憤怒しているとは思えない優しいものであった。迷惑を掛けられヴィクトルは怒っているのだと、ユーリは今まで思っていた。
「こいつを渡したくねえんだ」
暴れるのを止めると、ユーリはそう言いながら腹部に手を重ねた。直ぐにそこから手を離すと、その手を強く握りしめた。
「迷惑かけちまった事は謝る。だけど、どうしても俺はこいつを渡したくねえんだ。だから、ロシアには一人で帰ってくれ」
懇願したからといって、ヴィクトルがすんなりと聞き入れる筈が無いという事など分かっている。子供を絶対に渡すつもりが無いので、何を言われても帰ってくれという言葉を続けるつもりだ。
「その事なら心配ない」
「えっ……どういう事だ?」
子供を渡したく無いという事に対してヴィクトルがそう言ったようにしか思えず、思わぬ返答にユーリは慌てふためいた。
「子供を渡す必要は無いよ。俺と一緒に子供は育てよう」
「えっ……」
何故そんな事をヴィクトルが言ったのかという事を推測する事ができず、困惑する事しかできない。
騙してロシアに連れて戻り、子供を奪うつもりかもしれない。そう思っていると、ヴィクトルが更に言葉を続けた。
「ユーリがいなくなった後、直ぐに病院から連絡があったんだ。妊娠を知らされたお前が、病院からいなくなったって。それを聞いて、子供を渡したく無くなってしまって逃げたのかもしれないって思った。ユーリが考えそうな事だからね」
体を抱きしめている腕の力が緩んだ事により、ヴィクトルの顔を見る事ができた。その顔は慈愛に満ちたものであった。
それは、先程の発言がユーリを騙くらかす為の台詞では無かったのだという事を示すものである。それが分かってもまだ安心する事ができなかったのは、何故そんな事を言ったのかという事がまだ分かっていないからだ。
「部屋の中から荷物が無くなってる事が分かって、それを確信した。どこに行ったのかって事を考える事によって浮かんだのは、二カ所だ。唯一の友人のオタベックの元と、暫く過ごした勇利の実家だ」
「すげー」
ヴィクトルの推測は完全なものであったので、ユーリは無意識にそう言っていた。
自分の思っていた通りであったのだという事が分かり満足したのだろう。ヴィクトルは小さく笑った。
「どちらなのかって考えた結果、お前がオタベックに女だって事を話して無いって言ってた事を思い出したんだ」
そんな事を話しの流れで言ったが、その時ヴィクトルはそれを聞き流している様子であった。その為、その話しを覚えていた事に驚いた。
「それならお前が行ったのは、勇利の実家で間違い無いって思ったんだ」
自分の考えは当たっていただろうとヴィクトルが表情だけで言っていたので、ユーリも表情だけでそれを肯定した。
「本当は直ぐに追いかけたかった」
急に沈んだ表情になったと思うと、そう言いながらヴィクトルが体を抱きしめている腕に再び力を込めた。先程よりも体を抱きしめている力は強いものであった。突然の変化に戸惑わずにいられる筈が無い。
「だが、その前に問題を解決しないといけないと思ったんだ。今のままじゃユーリを追いかけて日本に行って連れ戻しても、産まれて来た子供を国に奪われてしまう事になるからね。スケート連盟の元に、産まれて来た子供を自分たちに育てさせて欲しいって頼みに行く事にしたんだ」
「マジかよ……」
ヴィクトルの言葉を信じていない訳では無い。ヴィクトルの声色は、それが真実である事を示すものである。それなのにそう言ったのは、無意識にその言葉が口から出てしまったからだ。
疑っているのでは無いのだという事が分かっているのだろう。ヴィクトルの乾いた笑い声が耳元でした。
「俺が頼めばどうにかなる筈だと思ってたんだけど、なかなか受け入れて貰う事ができなくて、今まで掛かっちゃった。……直ぐに迎えに来れなくてごめんよ」
「何で……」
様々な感情が胸の中で混ざり、言いたい言葉を一度で言い切る事ができなかった。
ヴィクトルはそんな言葉の続きを促すような事はせずに、ユーリが続きを話すのを黙って待っていた。漸く気持ちが少し落ち着き、続きを話す事ができるようになった。
「お前子供苦手だろ」
子供が苦手であるというのに、何故そんな事をスケート連盟にヴィクトルが言ったのかという事を理解する事ができなかった。
「苦手だなんて言った覚えは無いんだけど」
体を解放したヴィクトルは、首を傾げながらそう言った。
「だって子供なんて考えた事も無かったって言ってただろ」
その後に聞いた子供を羨んでいる発言からも、ヴィクトルは子供が好きでは無いとしか思えなかった。その為、ヴィクトルは子供が苦手なのだと思っていた。
「そういう理由か。苦手だとは言わないけど、確かに子供が好きだって思った事は無いよ。だけど、ユーリが俺の子供を妊娠してるんだって事を知った時、その子供をユーリと育てたいって思っちゃったんだ。……ユーリと同じように子供を渡したく無いとも思った」
「何でそんな事なんか」
何故そんな風にヴィクトルが思ったのかという事を知りたい。
「そう思った時は何でなのかって事が分からなかったんだけど、スケート連盟を説得してる間に、そんな風に思ったのはユーリの事が好きだからなんだって事に気が付いた」
「お前が俺の事を好きな筈なんか」
ヴィクトルの告げた理由は、易々と信じる事ができないものである。
「だって、……お前が俺を好きになる理由なんて無い」
すんなりと信じる事ができなかった原因は他にもあるのだが、最もたる理由は、どんなに考えてもヴィクトルから恋い慕われる理由が分からなかったからだ。
ヴィクトルの周りには、ユーリよりも魅力的な女性が溢れている。そんな中から、男であると偽る事ができるほど女らしさが無いユーリを選ぶ必要は無いとしか思えない。
「好きになるのになんて理由は無いんだよ」
小さな子供に言い聞かすような態度で、ヴィクトルは言っている。普段ならば子供扱いされていると思い憤慨する態度であるのだが、今はそんな風に思う事は無かった。
「そんな理由じゃ納得できねえよ」
「困ったな」
困ったと言いながらも、ヴィクトルは顔を綻ばせていた。
自分の気持ちを信じて貰う事ができずにいるというのに、何故そんな顔へとなっているのかという事が理解できない。それはヴィクトルの言葉を信じる事ができない一因である。普通、自分の言葉を信じて欲しくて必死になる筈だ。
「好きになった理由を説明する事はできないけど、ユーリの事をずっと好きだった事を証明する事はできるよ」
「どうやってだよ?」
ヴィクトルのユーリに対する今までの態度をどれだけ思い出しても、恋愛感情を抱いていたのだと思えるようなものは一つも浮かばない。どのようにしてヴィクトルが証明するつもりなのかという事が気になる。
「俺は君にだけは自分を偽る事ができなかっただろ? それが君の事を好きだった事を証明してる」
「それが証明になるのかよ?」
好きな相手には自分を偽る事ができなくなるのが普通なのだろうか。反対に、好きな相手には良い所を見せたくなり、偽ってしまうように思う。
「なるよ」
自信に満ちた態度で言われた事により自分の考えに自信を持つ事ができなくなっていると、笑みを浮かべたままになっているヴィクトルが更に言葉を続けた。
「俺は自分の事をどんな事に対しても器用な人間なんだと思ってたんだけど、恋愛に関してはそうじゃなかったみたいだ。それどころか、不器用な方だったみたいだ。だから、好きな相手に気持ちを偽るような事ができなかったんだ。俺の気持ちを信じてくれた?」
完全に自分の考えに自信が無くなり、ヴィクトルの言う通りであるのかもしれないと思っていた。しかし、まだ微かに残っている信じる事ができないという気持ちが原因で頷く事ができない。
軽率に信じると言う事ができないような内容であるので、仕方ないだろう。
「ユーリの事が好きなんだって事にずっと気が付く事ができなかったのは、ユーリの事を男だと思ってたのと、ユーリがまだ子供だったからだよ。俺は小さな子供を好きになるような趣味も、男を好きになるような趣味も無いからね。好きになる筈が無い相手だっていうのに、ユーリの事を好きになってしまってたんだ」
最初は微笑んでいたというのに、徐々にヴィクトルの表情は真摯なものへと変わっていった。そして口調は訴えかけるようなものへと変わった。それは、ユーリの胸に響くようなものである。
「これで信じてくれた?」
「……ああ。信じる」
漸くユーリが気持ちを信じたからなのだろう。ヴィクトルは安堵した様子へとなっていた。
優しい目つきでユーリを見詰めていたヴィクトルに、今度は宝物でも触っているかのように優しく抱きしめられる。もう猜疑心は無くなっているのだが、それでもそんな風に抱きしめられた事により、ヴィクトルから本当に愛されているのだという事をユーリは感じた。
「ユリオ!」
ヴィクトルに暫く抱きしめられたままでいた後ゆ~とぴあ かつきへと戻ると、真利が寛子と共に冷静さを欠いた様子で出て来た。
常に落ち着いた様子の勇利とは反対に、真利は喜怒哀楽が激しい。そんな真利だけで無く寛子も慌てふためいた様子へとなっていたので、ユーリは狼狽した。
「なかなか戻って来ないから心配したとね」
二人が心配そうな様子へとなっていたのは、戻って来るのが遅くなってしまったからのようだ。
普通ならば、そんな事ぐらいでここまで心配しないだろう。ユーリが臨月間近の妊婦だからなのだろう。二人を心配させてしまった事に罪悪感がした。
「悪い。直ぐに戻るつもりだったんだけど、ヴィクトルに会って話してたら戻って来るのが遅くなっちまった。それと卵割っちまった」
戻ってから処分しようと思い、ここまで持って戻って来た白いビニール袋に視線を遣る。
卵の他にも、ラップフィルムなどの買って来て欲しいと頼まれた物がそこには入っている。割れた卵によって、それらは使う事ができないほど汚れてしまっている。
ユーリを信じて買い物を頼んでくれたというのに、満足に買い物をして来る事ができず気持ちが沈んでしまう。
「そんな事はどうでも良かとよ」
頼まれた物を駄目にしてしまった事を寛子が全く怒ってない事が分かり安堵していると、包み込むような笑みを浮かべた寛子に頭を撫でられる。落ち込んでいる時、いつも寛子はこんな風に何も聞かずに頭を撫でてくれる。
子供が生まれたら同じ事をしようと、ユーリは決めていた。自分がされて嬉しかった事は、子供もされれば嬉しいに決まっている。
「俺がユリオを付き合わせちゃったんだ。心配かけてごめんね」
ヴィクトルは勇利がロシアに行くまでここに滞在していたので、半年ほどここにいた。その為、勇利の家族とは親しい間柄である。それでも、ロシアにいる筈のヴィクトルが突然現れれば驚くだろう。
二人が全く驚いていないのは、ユーリを追いかけて来る前にここに寄り二人に会っているからなのかもしれない。
(そういや荷物持って無かったもんな)
ヴィクトルが何も持たずに日本でまでやって来るとは思えない。持って来た荷物をここに置いてから、ユーリの元へとやって来たのだろう。そう思った後、二人からユーリが買い出しに行っているという事を聞いたので、先程の場所までやって来たのかもしれないと思った。
それを聞いていなければ、先程の場所にヴィクトルが現れる筈が無い。
「長い間ユリオの面倒をみてくれて有り難う」
「毎日お手伝いしてくれたから助かったとよ」
「もしかして連絡取ってたのかよ?」
寛子とヴィクトルの様子はそんな風に感じるものであった。
「そうだよ。時々ユリオの様子を教えて貰ってたんだよ」
「ごめんね。ユリオくんにその事を教えないで欲しいって言われてたとよ」
「マジかよ。何でそんな事?」
ヴィクトルの言葉に従い連絡を取っていた事を教えてくれなかった寛子に対しては、何も思わなかった。しかし、そんな事を何故頼んだのだとヴィクトルに対しては思わずにはいられない。
「ユリオとは、全部片付いてから連絡を取りたかったからだよ。片付いたら直ぐに電話するつもりだったんだけど、結局直接言いたくなって飛行機に飛び乗って日本まで来ちゃったけど」
「お前らしいな」
そう思わずにはいられない理由である。そして、行動力のあるヴィクトルらしい行動であると思わずにはいられない。苦笑をしていると、奥から足音が聞こえて来ると共に声が聞こえて来た。
「ヴィクトル戻って来たの?」
聞こえて来た声は勇利のものである。驚きながら見ると、そんな声の通りこちらにやって来ている勇利の姿があった。
「何でかつ丼までここに!」
「ヴィクトルと一緒に戻って来たからだよ」
帰省をしたのは、数日前に行われたグランプリファイナルが終わったからなのだろう。
「そうだ。こないだのグランプリファイナルの結果どうだったんだ?」
強制的に引退させられてから、スケートの情報は耳に入れないようにして来た。
それは、見知った相手の活躍を知れば、悔しくなる事が分かっていたからだけでは無い。できない事が分かっていながらも、スケートがしたくなってしまうからだ。
その為、今回のグランプリファイナルの結果を知らない。
それ以前のグランプリシリーズの結果も知らないのだが、それを勝ち抜いた前提で話しているのは、勇利ならばグランプリファイナルに進出した筈であると思っているからだ。
口元を引き上げた勇利が、ズボンのポケットから金色のメダルを取り出した。それはグランプリファイナルのメダルである。一度手にしているので直ぐにその事が分かった。
「金かよ」
「念願の金を取れたよ。ユリオが出場して無かったからかもね」
「そうかもな」
勇利に今度こそフリースケーティングでも勝ち、再び金メダルを手に入れるつもりであった。あのまま練習を続けていれば、勝つ事ができていた筈だ。そう思っていたので、謙遜をするつもりは無い。
「ユリオらしい返事だね」
小さく勇利が笑ったのでユーリもそれに釣られて笑った後、勇利が金メダルを取ったという事はヴィクトルが負けたという事であるという事に気が付いた。
一年間休業していたとはいえ、ヴィクトルはリビング・レジェンドと呼ばれるような選手である。そんなヴィクトルが負ける筈が無い。今回の大会は棄権していたのかもしれない。そう思いながらヴィクトルに目線を向ける。
「勇利に負けちゃったよ」
視線があうと、ヴィクトルは笑いながらそう言った。
負けた事をなんとも思っていないような態度であるが、そんな筈が無い。悔しくてもそれを表情に出すような性格をヴィクトルはしていないので、口惜しく思いながらもそんな態度で言ったのだろう。
何か言いたいのだが、何を言っても慰めの言葉にはなるとは思えない。そして、ヴィクトルはそんな言葉など望んでいないだろう。
「そうか」
「有終の美を飾りたかったんだけどね」
「それって……」
最後に勝ちたかったという意味でその言葉はあるので、ヴィクトルが引退をするという事である。
そんな話しを全く聞いていない。何故言ってくれなかったのだ。そう責めたくなってしまったのは、ヴィクトルに憧れるのを止めたが今も尊敬する選手の一人であるからだ。
「今回で俺も勇利も引退する事になったんだ」
「豚も!」
ヴィクトルだけで無く勇利まで引退するのだという事を知り、ユーリは動揺した。ここに来てから何度も顔を合わせているというのに、引退するつもりにしているという話しを勇利から全く聞いていない。
「ヴィクトルは前から今回で最後にするつもりだったみたいだよ。僕は金を取ったら辞めるつもりにしてたんだ」
「お前ら二人とも何で何も言わねーんだよ」
以前からそうするつもりであったという事は、共に暮らしていた時からヴィクトルは引退するつもりであったという事である。
信頼していなかったので話さなかったのでは無いだろう。それは分かっていても、話して貰う事ができなかった事を心寂しく思う。
「最後にユリオとも戦いたかったな」
「それは僕もだよ」
二人と戦う事ができなかった事を自分も心残りであると思うだけで無く、二人からそんな風に思われていた事を知り心が弾んだ。引退している今もユーリにとって、ヴィクトルも勇利も競い合う事ができる相手のままだ。そんな気持ちは一生変わる事は無いだろう。
「負けたのは悔しいけど、これでやっと金メダルにキスできたよ」
「ははは」
唇を人差し指で押さえたヴィクトルとそれを見て誤魔化すようにして笑った勇利を見て、ユーリは二人の指輪に一揃えの指輪が無い事に気が付く。
「お前ら指輪は?」
片方だけならば外しているだけであるのだと思い流したのだが、二人とも外していたので気になった。
「ああ、勇利が金取ったからもう必要なくなったからね。あの指輪は金を取るっていうのを誓う為に買った物だからね」
「そういやそんな事言ってたな。あの指輪高かったんじゃ無かったか?」
指輪の話しに以前なった時、勇利が分割で購入していたという話しをヴィクトルがしていた。
値段は聞いていないのだが、支払いを分割にわざわざしたという事は高価な物である筈だ。そんな指輪を目的が達成したからといって不要品にしてしまうのは、勿体ないと思ってしまう。
「そうなんだよ、高かったんだよね。ちょっと前にやっと分割終わったばっかりだからね。金取るまでに支払いが終わってて良かったよ」
「やっぱり高かったんじゃねえか。もったいねえから付けたままで良いだろ」
何を言っているのだという様子へと勇利がなった。
「駄目だよ。ヴィクトルはユリオと結婚するんだから、右手の薬指を空けておかないと。ロシアでは右手の薬指の方に指輪をするなんて知らなかったよ」
「知らなかったのかよ」
何故右手の薬指の指輪にしたのかという事を以前から疑問に思っていた。その理由は、勇利がロシアでは右手の薬指は結婚指輪を填める指である事を知らなかったからのようだ。
「二人の結婚に間に合って良かったよ」
「いや、結婚なんてしねえし」
勇利の中では、ヴィクトルとユーリが結婚する事になっているようだ。結婚するなどという事を言っていないというのに、何故そんな風に思っているのかという事が不思議である。
「何で? ユリオもヴィクトルの事が好きなのに」
「えっ」
「えっ……なんでお前がそのこと?」
ヴィクトルの声にユーリの声が重なった。
勇利にヴィクトルに思いを寄せていることなど話していない。それどころか、その事は誰にも話した事が無い事である。何故その事を知っているのかという事が不可思議である。
そう思った後、ヴィクトルに気持ちを知られてしまったのだという事に気が付いた。慌ててヴィクトルを見ると、目を見開いてユーリを見ていた。
「どういう事なのユーリ?」
先程ヴィクトルの気持ちを知った際に自分の気持ちを伝えなかったのは、それをまだ伝えるつもりは無かったからだ。
知られてしまったのならば認めるしか無いだろう。それに、誤魔化せばヴィクトルを傷つけてしまう事にしかならない。そんな事ぐらいユーリにも分かる。
「今聞いた通りお前のことが好きなんだよ。……っ!」
言い終えると同時にヴィクトルに抱きつかれていた。
体を離したと思うと今度は唇を奪われてしまう。側には勇利だけで無く真利や寛子の姿もある。こんな場面を見られたく無いので離したいのだが、それができないような勢いで唇を塞がれていた。
「結婚しよう、ユーリ」
「何言ってんだ」
唇が離れると共にヴィクトルから求婚され、ユーリは驚きから目を瞬かせた。
「ユーリが俺の事を好きになってくれてから、求婚はしようと思ってたんだ。好きになって貰わないと、受け入れてくれる筈なんか無いからね。俺の事が好きならもう待つ必要は無いからね」
「ちょっと待て」
まだ返事をしていないというのに、求婚を受け入れてくれる筈であると思っているヴィクトルを落ち着かせようとした。そう言った事により興奮した様子では無くなったのだが、今度は不満そうな様子へとヴィクトルはなった。
「何で?」
「お前と結婚なんて全然考えて無くて」
気持ちを受け入れて貰う事も、ヴィクトルから同じ気持ちを向けられる事になるという事も今まで考えていなかった。その先の事を考えた事がある筈が無い。
ヴィクトルと結婚した後の事を想像しようとしたのだが、全く浮かばない。
「俺と結婚したくないの?」
そう言ったヴィクトルの顔は不安そうなものであった。
どんな時も自信に満ちているヴィクトルが、こんな顔をしているのを初めて見た。不安になるほどユーリの事を欲しているのだという事を知り、ヴィクトルを愛おしいと思う気持ちが胸に湧き上がる。
「んな風に言うなんてずるい」
そんな風に言ったのは、不安な気持ちからだけでは無い筈だ。こうすれば、ユーリが無下にする事ができなくなる事が分かっていたからという事もある筈だ。
ヴィクトルが唇を引き上げた。それは、ユーリが思っている通りであるのと、ユーリの返事を察したからなのだろう。ヴィクトルが思っている通り求婚を受け入れる事にしていたので、勘違いであると言うつもりは無い。
「幸せにするよ、ユーリ」
「当たり前だ。この子と一緒に幸せにしやがれ」
破顔しながら告げると、一瞬驚いた顔へとなった後目尻を下げたヴィクトルから「勿論だ」と告げられた。
十三章 波斯菊
「で、何で俺がヴィクトルの事好きだって事お前が知ってたんだ?」
ヴィクトルと共にロシアに戻る事になったので、今まで世話になった事に対して寛子と利也。そして、真利に感謝の言葉を告げた後、ユーリは自室として使っていた部屋で荷物を片付けていた。
そこに寛子から頼まれた物を持ってやって来た勇利に、気になっていた事をユーリは尋ねた。
ヴィクトルに求婚されてしまったのでその時は何故なのかという事を考える余裕が無かったのだが、落ち着いた今はその事が気になった。
「気が付かない筈が無いよ」
「何で?」
荷物を片付けながら質問をしていたユーリであったが、勇利の言葉が気になりその手を止める。どんなに思い返しても、ヴィクトルが好きだと気が付かれるような事は言っていない筈だ。
開けたままになっていた扉を勇利が閉めると、部屋の端で丸まっていたピョーチャが顔を上げた。
営業中は部屋から出さない事を条件に、ピョーチャも今までここに置いて貰っていた。何事も無いのだという事が分かったからなのか、上げていた顔を伏せるとピョーチャは再び眠り始めた。
「こっちに戻って来た時に、やけにヴィクトルの事気にしてる様子だったから」
「そんな事でかよ」
勇利は、お腹の子供の父親がヴィクトルであるという事を知っている。お腹の子供の父親であるから気にしているのだと、思ってもおかしく無い筈だ。
態度に出てしまっていたのかとユーリが素直に思う事ができなかったのは、気が付かれてしまうような態度を取ってしまった事が恥ずかしかったからだ。
「でも当たってたでしょ?」
「確かにそうなんだけど」
唇を尖らせながら言うと、勇利が眼鏡の奥にある瞳を眇めた。
「結婚おめでとう」
「何で改めて」
そう言ったのは何の前触れも無くそう言われ驚いたからだけで無く、決まりが悪くなったからという理由もある。
頬を膨らませて不機嫌そうな顔へとなっていると、それを見た勇利が小さく吹き出した。恥ずかしさを誤魔化そうとそんな顔をしているのだという事に、気が付かれてしまったようだ。更に恥ずかしくなり頬が熱くなる。
「早くユリオとヴィクトルの子供抱きたいな」
手持ち無沙汰になり再び荷物の片付けをしていると、そんな声が聞こえて来た。
「産まれたら直ぐに会いに来いよな」
「そうだね」
強引な事を言ってしまっているような気がしたのだが、勇利が迷惑そうな様子になっていなかった事から、杞憂であったのだという事が分かった。胸を撫で下ろすと共に、ライバルと認めた相手に子供を抱いて貰う事ができる事をユーリは嬉しく思った。
終章 花麒麟
目の前には、まるで雪を散らしたように白一色の髪をした年老いた男が立っている。元々そんな髪の色なのでは無く、高齢になった事により白髪になったのだろう。
「それでは誓約をしていただきます。みなさまご起立ください」
顔に深い皺を刻んでいる男は、この教会の牧師である。そんな男の言葉の後、参列席に座っている者たちが立ち上がった。
「今二人は結婚しようとしています。この結婚に正当な理由で異議のある方は、今申し出てください。異議がなければ、今後何も言ってはなりません」
参列席にいる者たちの中に意義がある者がいないかという事を確認するようにして、牧師が狭い教会の中を見回していく。
長い間ホームリンクであったスケート場の近くにある小さいだけで無く古めかしいこの教会で今日、ユーリはヴィクトルと結婚式を挙げている。
リビング・レジェンドと呼ばれていたヴィクトルとの結婚式であるというのに、そんな教会で結婚式を挙げているのは、ヴィクトルと結婚する事をスケート連盟や国に認めて貰う事はできたが、女であるという事を公言しない。ヴィクトルと結婚した事を公表しない。そして、ヴィクトルにもさせないという事が条件であったからだ。
ユーリが女であったという事が世間に知れ渡ると、国の威信に傷がついてしまう事になる。
慎ましい結婚式には、互いに懇意にしている者しか招待をしていない。
派手な結婚式など望んだ事は無い。それどころか、結婚式を挙げる事などできないと思っていたので、式を挙げる事ができただけで十分であるとユーリは思っている。
しかし、ヴィクトルの方は不満であったようで宥めるのが大変だった。派手な事が好きなヴィクトルは、盛大な結婚式がしたかったようだ。それでも小さな子供では無いので、最終的には納得してくれて今日に至る。
「意義がないようですね。どうぞお座りください」
参列者が腰を戻す音が聞こえて来た後、子供の声が聞こえて来た。あぶあぶという言葉になっていない声は、先日一歳になったばかりのヴィクトルとユーリの間に産まれた子供のものだ。
子供が生まれてから既に一年が経過している。
結婚はロシアに戻り国とスケート連盟からの許可を貰ってから直ぐにしている。結婚式を直ぐにしなかったのは、その時はまだ結婚式を挙げる許可を貰う事ができていなかったからだ。
子供が生まれてから漸く、ヴィクトルの説得により結婚式を挙げる許可が下りた。しかし、その時はまだ子供がまだ産まれたばかりであったので、式は子供の一歳の誕生日が過ぎてからにしようという事になった。
ユーリにもヴィクトルにも似ている愛しい我が子を参列席で抱いているのは、祖父のコーリャだ。その横には母親の姿もある。
日本から戻って来て直ぐに、祖父と母親にヴィクトルと共に会いに行った。
引退をするという連絡のあと一年以上連絡をして来なかったユーリが、大きなお腹を抱えて現れれば当然のことだろう。二人とも、そのまま倒れてしまうのでは無いのかと思うほど驚いていた。
そんな二人にこれまでの経緯を告げると、祖父が今にもスケート連盟に怒鳴り込みに行きそうになった。
そんな事をすれば、祖父の身に何が起こるのかという事が分からない。説得をする事によってどうにかスケート連盟の元に行く事は諦めてくれたのだが、怒りの矛先が一緒にやって来ていたヴィクトルに向かった。
『わしの可愛い孫に手を出しおって!』
そう言って拳を振り上げた祖父を止める間は無かった。ヴィクトルは祖父に殴られる事になった。
まだ興奮が収まらずヴィクトルを祖父が殴ろうとしている事に気が付き、ヴィクトルは巻き込まれただけである。被害者であると言って庇う事によって、漸く祖父は落ち着いた。
しかし、安心している暇は無かった。次は母親から、自分のしてしまった事によりそんな事になってしまった事を謝られた。
確かに母親に原因があるのだが、それでも母親を責める事はできなかった。母親とて一人の人間である。それが子供を授かった事により分かったからというのもあるが、結果として愛する相手の子供を授かる事になったからというのもあるのかもしれない。
その後、引退をして収入が無くなったので送金ができなくなってしまった事を二人に謝った。
ずっとその事が気がかりであった。仕送りが無くなった事により生活が大変であった筈だ。その事を責められる覚悟をして言ったのだが、反対に祖父にそんな心配をさせてしまっていたなど不甲斐ないと泣かれてしまう事になった。
祖父から、今まで貰った仕送りの余った分は貯めてある。それがあるので、これからはもう仕送りをする必要はないと告げられた。
しかし、その金がいつまでも続く訳では無い。使っていればいつか尽きる。そう思っていた時、これまでの功績を讃え年金が国から支給される事になっている事を思い出した。
それをこれからは送金するとユーリは提案した。
しかし、もうこれ以上面倒は掛けられないと言って祖父に拒まれた。そんな祖父を仕送りしない方が不安であると言って説得していると、ヴィクトルがユーリの生活は自分が保証する。だから、その金はユーリの為に受け取って欲しいと告げた。それによって、祖父に漸く頷いて貰う事ができた。
それから時折祖父と母親とは、子供とヴィクトルと共に会っている。
参列席にはそんな親族だけで無く、元リンクメイトのミラや親友のオタベックの姿もある。会う事を躊躇っていたミラに会いに行くと、以前と変わらぬ態度で接してくれた。
女であるという事を告げる事ができずにいたオタベックには、その事だけで無くこれまでの出来事を包み隠さず話した。友達であるオタベックを失いたく無かったが、もうこれ以上隠したままでいる事ができなかったからだ。
話しを聞き終えるとオタベックは真面目な顔で、今まで隠し通すのは辛かっただろうとだけ言った。寡黙な男であるオタベックが、精一杯気を遣った結果の言葉であるのだという事が分かった。
それから、まだ引退をしていないオタベックは、時折子供にお土産を持ってサンクトペテルブルクまで遊びに来てくれている。まだ小さい子供は人見知りをするのだが、オタベックの事は気に入っているのか顔を見ると嬉しそうに笑う。
牧師の深い灰色の瞳がヴィクトルに向かう。
「あなたはこの女性を、健康な時も病の時も富める時も貧しい時も良い時も悪い時も、愛し合い敬いなぐさめ助けて変わることなく愛することを誓いますか?」
「誓います」
枯れた牧師の言葉にヴィクトルが同意すると、今度は牧師の視線がユーリに向かう。
既に結婚をしてから一年が経過しているが、ヴィクトルと結婚をした事を後悔した事は無い。結婚を破棄するつもりは無いのだが、それでも緊張してしまう。
それに気が付いたのかもしれない。牧師からもの柔らかな笑みを向けられる。それを見て肩に入っていた力が抜ける。
「あなたは、この男性を健康な時も病の時も富める時も貧しい時も良い時も悪い時も、愛し合い敬いなぐさめ助けて変わることなく愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
「あなた方は自分自身をお互いに捧げますか?」
今度の質問には、ヴィクトルと共に答える事になっている。
式の進行については、事前に打ち合わせをしている。その際は全く緊張をしておらず、本番も緊張する事が無いのだと思っていた。
「はい、誓います」
ユーリはヴィクトルと声を揃えて言った。
「指輪の交換です」
ピローリングに乗っている結婚指輪は、結婚をした際に購入した物だ。
指輪など指に嵌める事ができれば何でも良い。露店で売っている物でも良かったのだが、ヴィクトルが高価な物で無ければ納得してくれなかったので、諦めてそれに従った。
最初は高価な指輪の存在が気になっていたのだが、一年以上身につけているので今は気にならなくなっている。
ピローリングにある指輪をヴィクトルが手に取ったので、白い光沢のあるロンググローブを嵌めた手を差し出す。
ウエディングドレスは、ヴィクトルが懇意にしているデザイナーがデザインした物である。清楚でいながらも可愛らしいデザインの物だ。
年齢的には若いが子供がいるのだから、もう少し落ち着いた物の方が良いのでは無いだろうか。デザイン画を見た際にヴィクトルにそう言ったのだが、これが良いと言うのでこれになった。
そんなウエディングドレスを、母親やリリア。そして、ミラだけで無く、勇利の幼馴染みである西郡優子からも似合っていると言われる。
右手の薬指にヴィクトルが指輪を嵌めたので、ユーリはリングピローに残っている指輪を手に取る。一揃えの指輪は、同じ意匠の物だ。白いタキシードがよく似合っているヴィクトルの指に嵌めると、感激にも似たものを胸に感じた。
女だという事が露見した時は、全てが終わったのだと思った。こんなにも幸福な未来が待っているとは思っていなかった。それをユーリに運んで来たのは、目の前にいる男だ。
こんな見た目をしているが、天使であったのかもしれない。
「それでは誓いの口付けを」
皆の前で口付けをするのは照れてしまう。頬に朱を注いでいると、ヴィクトルの顔が近づいて来る。瞼を伏せると、ヴィクトルに唇を塞がれる。
終幕
番外編
一章 石榴
今日の朝食は、チーズオムレツと南瓜とベーコンのスープ。そして、バケットとさつまいもと玉葱のハッシュブラウン。それに、ほうれん草を使ったサラダだ。
朝食としては量も種類も多いのだが、決して今日は腕に縒りを掛けて料理をした訳では無い。毎日これぐらいの品数と量は作っている。
それは、ユーリも普通よりも食べる方であるのだが、更に伴侶のヴィクトルが食べる方であるからだ。そして、痩身の見た目に反して食べる方である二人の愛娘のユリアも、同じように細身であるというのによく食べるからだ。
二人に似ている部分は、それだけでは無い。ヴィクトルと同じ銀色の髪とユーリと同じ緑色の瞳をしたユリアの顔は、二人の良い所を満遍なく受け継いでいる。
ヴィクトルもユーリも整っていると言われる容姿であるので、そんな二人の良い所を受け継いだユリアは、モデルにした方が良いのでは無いのだろうかと頻繁に人から言われるような美貌だ。
結婚式を挙げる一年前に産まれたユリアは、既に七歳へとなっている。
子供を自分たちの元で育てる事を国から許して貰う条件の一つに、スケートをさせるという事があった。次世代を担うスケーターを生成したくて、ユーリとヴィクトルに子を成せと命令したのだから、その条件の提示は当然のものであるだろう。
スケートをしたいと思っていないのならば、させたくない。したい事を子供にはさせたい。スケートは好きだからだけで無く、やらなければいけないのでやっていたユーリにはそんな思いがあった。
しかし、子供を取られてしまうよりはずっと良いので、歩き始めると同時にスケートをさせた。
ユーリとヴィクトルの子供であるのだから当たり前であるのかもしれないが、ユリアにはスケートの才能があった。将来、スケートの世界で活躍する事になるのは間違い無いだろうと、既に言われている。そして、幸いな事にユリアは、スケートを楽しんでいるようだ。
チーズオムレツを口に運びながら、隣で次々に料理を口に運んでいるユリアを横目で見ていたユーリは、よく似た表情で料理を口へと運んでいっているヴィクトルに視線を移す。
ヴィクトルと結婚してから七年が経過し、ユーリは二十四歳へとなっている。結婚をしたばかりの頃は、言葉が足りない事が原因でヴィクトルと小さな諍いをする事が時折あった。しかし、今はそれすらも滅多にする事が無くなっている。
それは、結婚をしたばかりの頃よりも、ヴィクトルの事を理解しているからだけでは無いだろう。結婚をしたばかりの頃はまだ若く、感情的になりやすかったからという理由も大きいだろう。
今から考えると、何故そんな事で憤慨したのかという事が分からない事が幾つもある。
チーズオムレツが無くなったので、南瓜とベーコンのスープを飲んでいく。話しかける機会をユリアは伺っていたのだろう。スプーンを置くと同時に声を掛けられた。
「マーマ、なんでうちには弟も妹もいないの?」
「えっ……。それは……」
予期していなかった愛娘の質問に、ユーリは目を泳がせた。
ユリアに弟や妹がいないのは、ヴィクトルがこれ以上子供を望んでいないからだ。本当の理由をまだ幼いユリアに告げる事ができる筈が無い。
返事に困り、ユーリは食事を終えていたヴィクトルに目線だけで助けを求める。
話しを聞いていたヴィクトルは、何故ユーリが視線を遣ったのかという事に気が付いたようだ。ヴィクトルに返事を任せようとユーリがしている事に、気が付いたのだろう。ユリアの視線もヴィクトルに向かった。
「パーパ?」
「コウノトリがうちを見つけられて無かったからだよ」
「そっか!」
もうユリアは七歳である。そんな子供騙しであるとしか思えない理由で、誤魔化す事ができる筈が無い。そう思っていたのだが、すんなりとヴィクトルの言葉を信じていた。
まだまだ純粋であるようだと思いながら胸を撫で下ろすと、ユーリはまだ残っている料理を食べていく。
「いつになったらうちにコウノトリさんは来るんだろ?」
ユリアは小首を傾げ不思議にそうに言っていた。
「ユリアは妹か弟が欲しいの?」
ユリアの発言は妹か弟が欲しいと思っている事を示すものである。今までそんな素振りが無かったので気が付かなかったと思いながら、ユーリはユリアの返事を待つ。
「欲しい!」
「何で急に欲しいって思ったの?」
「前から欲しかったから」
もじもじと恥ずかしそうにユリアは言っていた。欲しいと思っていたのだが、今まで言えなかったのだという事がユリアの態度から分かった。
そんな雰囲気にしているつもりは無かったのだが、いつの間にかそれを言えない雰囲気にしていたのかもしれない。娘に気を遣わせていたのだという事を知り、ユーリは心の中で反省した。
「そう。妹か弟ができたらユリアはどうしたいの?」
「一緒に遊ぶ! あ、スケート一緒にする」
目を輝かせてユリアは言っていた。
スケート場で自分よりも小さな子供の世話をユリアはよくしている。それは、面倒見がいい性格であるからなのだと今まで思っていた。それもあるのかもしれないが、弟や妹が欲しいという気持ちからの行動でもあったのかもしれない。
「そう。じゃあコウノトリさんがちゃんと来るように、良い子にしてなきゃね」
「分かった!」
明るい様子でそう言うと、まだ食事が終わっていなかったユリアはスープを飲み始めた。それを見てユーリは、ヴィクトルに視線を遣る。
視線に気が付いたヴィクトルに、そんな期待させるような事を言ったのでユリアが本気にしている。何故そんな事を言ったのだと表情だけで訴える。
それが伝わっている様子であるというのに、ヴィクトルは微笑するだけであった。
二章 百日草
入浴を済ませ子供部屋にいるユリアが眠っているのを確認した後、ユーリはそこから少し離れた場所にある寝室へと向かっていた。
私室は各自別に持っているのだが、寝室はヴィクトルと一緒だ。ユーリがヴィクトルと愛娘と共に現在暮らしているのは、結婚したばかりの頃住んでいたアパートメントでは無い。
ヴィクトルが独身時代から暮らしていたアパートメントは、子供がいても十分な広さがあった。その為このままそこで暮らすのだと思っていた。
しかし、結婚式の翌日。形式的にではあるが初夜の翌日、宿泊しているホテルの部屋で目を覚まし、運ばれて来ている朝食を食べる為に寝台を離れようとした際、枕元に鍵が置いてある事にユーリは気が付いた。
真新しい鍵は、家の鍵にしか見えなかった。何故こんな物がここにあるのだろうかという事を思っていると、やって来たヴィクトルから今住んでいる場所の近くに家を購入したという事を告げられた。
子供がこれから大きくなる事を考えると、今住んでいる家では手狭である。それに、広い庭で子供を遊ばせたいという理由から、ヴィクトルは家を買ったようだ。
何の相談もせずに家を買った事に、ユーリは呆れずにいられなかった。しかし、もう買ってしまったのでそれを無かった事にはできない。それに、ヴィクトルのユリアを広い庭で遊ばせたいという気持ちは理解する事ができた。
まだ歩き出したばかりであるが、庭で遊ばせれば喜ぶだろう。そう思い頷き、この大きな屋敷へと二人と共に引っ越して来た。
長らく一人で暮らしていた家だけで無く、実家も集合住宅である。一軒家で暮らした事が無いので、住み始めたばかりの頃は戸惑う事もあった。しかし、引っ越して来てから六年が経過した今は、この家に慣れ親しんでいる。
予想通りユリアは、様々な種類の花が咲いている広い庭を気に入っておりよくそこで遊んでいる。
毎日掃除をしているので埃一つ落ちていない廊下を進んで行くと、寝室の扉が見えて来た。部屋の中に入ると、寝台に横になりタブレットを見ていたヴィクトルの視線がユーリに向かう。
タブレットから聞こえて来ている音から、誰かの演技を見ていたのだという事が分かった。音楽だけで無く、観客の声も同時に聞こえて来ていた。
ヴィクトルが再生していた動画を止める事によって、聞こえて来ていた音が止まる。
「まだ途中だったんなら見てて良いぜ」
「仕事に必要なものを見てたんじゃないから、構わないよ」
言いながらヴィクトルは、手に持ったままになっていたタブレットをベッドサイドランプが置いてある小さなテーブルに置いた。
中断をした理由はそれもあるのだろうが、気になる選手の演技では無かったからという事もあるだろう。ヴィクトルは、夢中になると全てを忘れてしまう性格をしている。そんな性格のせいで振り回される事もあるが、まるで子供のようになっているヴィクトルの姿を見るのは嫌いでは無い。
ユーリは扉を閉めると寝台まで行き、そこに腰を下ろす。
「ユリアに何であんな事言ったんだ?」
朝食の後ヴィクトルは練習場に行ってしまったので、朝食の際に言いたかった事を言う機会が今まで無かった。
スケート以外に自分は生きる場所が無い。それ以外の場所で生きる事は考えられない。自分は氷の上で産まれて死んで行くのだ。
そう言っていたヴィクトルは、選手は引退しても氷上に残る事を選択した。そんなヴィクトルは、今はコーチと振付師をしている。
何の事なのかという事を言わなかったのだが、即座にヴィクトルは何の事を言っているのかという事を理解した様子へとなった。
「ユーリは子供はもう欲しく無いの?」
「お前は欲しいのか?」
今までヴィクトルはこれ以上子供は欲しいと思っていないのだという考えを疑った事が無かったのだが、ヴィクトルの言葉はそうでは無いのかもしれないと思うようなものであった。
「欲しいよ。何でそんなに驚いた顔するの?」
予想していた事であるのだが、それでも子供が欲しいと思っているのだという事が分かり驚きから目をぱちくりさせてしまう。
「お前は、子供は一人で十分だって思ってるんだと思ってた」
「そうだったの? 俺はもっと欲しいと思ってたよ」
そんな風に思われていた事に気が付いていなかったという様子でヴィクトルは言っていた。
「だって、ほら。前に子供は一人で十分だって言ってたし」
「そんな事言ったっけ?」
全く記憶に無いという様子でヴィクトルはあった。
「言ったよ。まだユリアが産まれたばっかの時」
説明した事によりヴィクトルは心当たりが見つかったようである。
「そんな事言ったかもしれないね。あの頃は、産まれたばかりのユリアの世話で大変そうにしてるユーリを見て、また子供ができたらこんな大変な思いをさせる事になるんだって思ってたから。だからそう言ったんだと思う。お前が産んでも良いって思ってくれるなら、もっと子供が欲しいって思ってたよ」
「そうだったのか」
あの言葉は本心では無く、ユーリを気遣って言ったもいのであったようだ。
あの後真意を確かめていれば、今まで勘違いしたままになっている事は無かった筈だ。そう思い込んだままでいず、確かめるべきであったとユーリは反省した。
「ユリアもああ言ってたし、頼んだら産んでくれるんじゃないのかって思ったんだよね。もっと俺の子供欲しいってユーリは思ってない?」
先程までの会話から、ユーリも子供をもっと欲しいと思っているのだという事に気が付かない筈が無い。気が付いているのだが、どうなのかという事を明確な言葉でヴィクトルは聞きたいだろう。
「欲しいって思ってたぜ」
ヴィクトルが眩しい日差しの下で咲く花のような笑みを浮かべた。もう既にヴィクトルは四十歳手前であるというのに、笑った顔は今も悪戯盛りの子供のようであった。
「そう。それは良かった。俺はあと三人ぐらいは欲しいんだよね」
「三人かよ」
もう一人欲しいのだと思っていたので、更に三人欲しいというヴィクトルの発言は予想外のものである。
「ユーリまだ若いし、あと三人ぐらいは産めるよ」
「まあ確かに」
三人は多すぎるのでは無いだろうかと思ったのだが、今の自分の年齢を考えると産む事は可能だ。今から三人産んでも、毎年産めば三人目が産まれた時まだ二十代だ。
「お前の稼ぎなら後三人産んでも平気そうだしな」
ヴィクトルは振付師とコーチをするだけで無く、誘われればアイスショーにも出演している。現役時代ほどの収入はないのだが、それでも今も変わらず高収入だ。
「あと十人ぐらいは平気だと思うよ」
「んなに産めるかよ」
本気で言っているのでは無いのだという事をヴィクトルの口振りから察する事ができたのだが、それでも真面目に十人子供を産む事を考えてしまった。
収入的にはあと十人養う事は可能であるが、そんなにも産む事も育てる事もできるとは思えない。
家政婦を雇えば育てる事は可能なのかもしれないが、子供は自分で養育したい。家政婦を雇わず家の事と共にユリアの面倒はユーリがみている。他人に任せたく無いのは、母親に育てて貰う事ができなかったからという理由が大きいだろう。
母親は今はすっかり落ち着き、精神的におかしくユーリの事を自身の子供であると認識する事すらできなかった頃とは別人のようである。そんな母親は、孫であるユリアを可愛がっている。
「そっか。それは残念」
言いながらヴィクトルに肩を掴まれる。ヴィクトルにぐいっと引っ張られた事によって、寝台の中心へと移動した。
髪へと手を伸ばして来たヴィクトルに、後ろで髪を一つに纏めているシュシュを外される。シニアデビューをする際に伸ばし始めた髪は、今は纏めていても腰に届くほどの長さがある。邪魔になるので、常にそんな髪をユーリは髪留めで纏めていた。
「良い?」
シュシュを手放したヴィクトルが覆い被さって来たので、寝台に背中を預ける。ヴィクトルが何に対してそう言ったのかという事など、この状況で分からない筈が無い。
「わざわざ聞くなよ」
嫌だなどとは欠片も思っていない。
それは子供が欲しいからだけで無く、ヴィクトルに抱かれたいと思っていたからだ。しかし頷く事ができなかったのは、その行動を淫らであると思い抵抗があったからだ。
ヴィクトルとはもう数えきれないほど体を重ねているのだが、羞恥心が消え去る事は無かった。
「ユーリがどうなのかって事知りたい」
「嫌だったら蹴り飛ばしてんよ」
したいと言っているとほぼ同等の言葉であるというのに、それでもまだヴィクトルは満足していないようだ。
「確かにそうだけど。したいってちゃんと言って欲しいな」
一度言い出すと、こちらが諦めるまで延々と続けるところがヴィクトルにはある。そんなヴィクトルに何を言っても無駄であるという事は分かっている。
「分かったよ。したい」
恥ずかしさから無愛嬌な言い方になってしまった。
そんな言い方で、ヴィクトルを満足させる事ができるのかという事が不安である。しかし、ヴィクトルが望んでいるような可愛らしい態度で言う事は、恥ずかしくてどうしてもできない。
一頻り悩むような顔へとなった後、ヴィクトルが諦めたような様子へとなった。
「仕方ないな。今日はそれで許してあげるよ」
ヴィクトルが妥協してくれた事に安堵した後、今日は許してくれたという事は、またそれを言わせるつもりである。そして、今度は先程の言い方では満足しないという事であるという事に気が付いた。
語弊がある言い方であったのでは無く、ヴィクトルの態度を見る限りそう思っているのだろう。
ヴィクトルの望むような言い方などできないと思い不満から頬を膨らませていると、ヴィクトルが目尻を下げた。可愛いと思われているのだという事をヴィクトルの反応から察し、恥ずかしくなる。
可愛いなどと思われるような歳ではもう無い。子供もいるのだ。顔を見られたく無くてそっぽを向いていると、ヴィクトルの顔が迫って来る。顔を元に戻すと、唇を塞がれた。
「ん……」
唇を重ねられているといつも高揚感がする。今もふわふわしていた。
味わうようにしてヴィクトルに唇を重ねては離す事を繰り返されると、鼻に掛かった甘い声が漏れる。
「はっ……ん……ぅ……」
まだヴィクトルが浮き名を流していた時、口付けが上手いという話しを耳にした事がある。
ヴィクトルと口付けをするようになっても、皆が言うように巧みであるのかという事は分からなかった。それは、親愛を示す為に祖父から頬へと口付けをされた事はあるが、性的な口付けをした事がある相手はヴィクトルだけであったからだ。
長い間疑問になったままであったのだが、最近になって上手いのだという事が分かった。
勿論、他の誰かとして比べる事ができたからでは無い。ヴィクトル以外の相手とした事など無い。何故分かったのかというと、口付けが下手な相手であると、最中に苦しくなったり痛かったりするのだという事を知ったからだ。
ヴィクトルとしていて、そんな風になった事は一度も無い。それどころかヴィクトルと口付けをすると、いつも何も考える事ができないほど気持ちよくなってしまう。
「はっ……んぅ……」
唇が深く重なりぞくぞくしたものが背筋にしている。そして、腰の辺りから溶けてしまいそうになっている。意識を快楽の中に沈めていると、重なっていた唇が離れた。
頭の動きが鈍くなっており呆けていると、服の上から胸を撫でられる。
今着ているのは、ヴィクトルが着ている物と色違いの寝間着だ。
淡い色をした寝間着の上から乳房を触るヴィクトルの手付きは、優しいものである。その為、敏感なそこをそこを触られても痛みは全くしなかった。今しているのは、甘い疼きだけだ。
「はっ……んぅ……」
「ここ大きくなったよね」
ヴィクトルと体を重ねるようになったばかりの頃は、服の上から見ただけでは分からないほどの膨らみしか無かった。しかし今は、触らなくとも分かるようになっている。
子供が生まれる前は性別を誤魔化さなくとも男であると相手から思われていたが、今は全く間違われなくなっているのは、髪が伸びたからだけでは無い。胸が大きくなった事も理由の一つだ。
「あっ……んぅ……ん……」
大きさを楽しむようにして服の上から胸を触っていたヴィクトルが、服の中へと手を入れて来た。
今度は直接そこを触るつもりであるのだという事が分かっていた。直に触られると、服の上から触れられた時よりも気持ちが良い。今までの経験からその事を知っていたので、期待から息を飲んでしまう。
「ん……はっ……」
予想通り胸にヴィクトルの手が触れた。
先程触られた事により、普段は柔らかである乳首が今は固くなっている。そこを触られると、熱い吐息が零れた。
「あっ……」
「興奮してる?」
ヴィクトルが思っている通り、感じるだけで無く性的に興奮していた。認めるのは恥ずかしい事であったのだが、認めなくてはいけないように感じ首を縦に振る。
「じゃあもっとここ可愛がってあげないとね」
「……ん。あっ……んぅ……」
乳首を刺激しながら、ヴィクトルが上着の釦を外していく。ヴィクトルの視線を露わとなった胸に感じ、恥ずかしさから顔が熱くなる。
ユーリを見詰めたまま、ヴィクトルは胸の先端にある突起を口に含んだ。
「はっ……んぅ……ああっ……」
吸ったり舐めたりするだけで無く、もう片方の乳房を手で揉みしだかれる。触られている場所だけで無く、足の奥にある場所も熱くなる。次第にそれだけで無く、そこがむずむずとして来た。
快感を欲し足を擦り合わせると、赤くなっている乳首を強く吸われる。
「あっ……」
「そろそろこっちも弄ってあげるね」
足の間に入って来た手がすっと太股を撫でる。待ち望んでいた場所をヴィクトルが触ろうとしているのだという事が分かった。早く触って欲しくて自然と腰が動いてしまう。
足の付け根まで移動した手が秘部を優しく撫でる。
「あっ……ああっ……」
ヴィクトルが感じる場所を触る度に、勝手に声が出て体が震えてしまう。何かに縋りたくなり、ヴィクトルの首にしがみつく。それでも足りず、背中に爪を立てる。
ヴィクトルの背中にひっかき傷を作ってしまうと、後でそれを見て恥ずかしくなる。しかし、今はそんな事に気を回す事ができる余裕が無かった。
がりがりと猫のように背中をひっかいていると、肉芽をぐいぐいと押し込められる。
「あっ……んぅ……ああっ……」
「気持ちいい?」
「きもちい……あっ……」
こくこくと首を縦に振りながら同意すると、ズボンを脱がされる。
まだ触ったままでいて欲しかった。物足りなくなっていたのだが、ヴィクトルがこれからどうするのかという事が分かっていたのでユーリは大人しく待つ。
更に下着を脱がしたヴィクトルに、今度は直接媚肉を触られる。二枚の花弁を伸ばすように触ると、包皮を引き上げられその下にある粒を剥き出しにされる。
敏感な場所を直接刺激され、怒濤のように快感が襲って来た。
「あっ……んぅ……!」
余計な事を考える事が今はできなくなっており、快感を接受する事しかできない。
「イって良いよ」
限界が近づいているのを感じていると、ヴィクトルからそう声を掛けられた。その言葉は、いつ限界に上り詰めてもおかしく無くなっているユーリの背中を押すものであった。
「ああっ……あっ……んぅ……!」
肉芽をヴィクトルが愛撫したままになっていたので、何度も絶頂感が迫って来る。許容範囲を超えた快楽によって、ユーリは体を何度も寝台の上で撓ませた。
「可愛かったよ」
尖りを愛撫するのを止め額に唇を落としたヴィクトルの指が、蜜口へと触れる。入り口を擽るようにして触った後、ヴィクトルは蜜壺へと指を埋め込んだ。
「んぅ……」
根元まで埋め込んだ指で体内をヴィクトルがかき混ぜると、ぐちゅぐちゅという卑猥な水音が聞こえて来た。その音は羞恥心を煽るものであるだけで無く、体を淫靡な熱によって熱くするようなものでもあった。
興奮から息を乱していると、ヴィクトルが体内で指を抽挿させ始める。
「あっ……んぅ……」
「ここぬるぬるだね」
「やっ……あっ……」
真実をヴィクトルが言っただけであるという事は分かっているのだが、それでも恥ずかしくなってしまう。
赤面していると、体の奥が疼いて来る。嬌声をあげながら指を締め付けていると、指の動きが激しいものへとなった。
「あっ……んぅ……。イきそ……」
「イって良いよ」
「んぅ――」
小さな子供にするようにしてヴィクトルに優しく頭を撫でられながら、ユーリは限界へと上り詰めた。
びくびくと体を震わせている間も指を動かしたままになっていたヴィクトルが、体内からずるりと指を引き抜く。先程達したばかりであるというのに、指に出ていって欲しくなくて締め付けてしまう。
「もっとして欲しかった?」
「そんな訳じゃねえけど」
「して欲しいならしてあげるよ」
穏やかな表情で言ったヴィクトルが額に唇を押しつける。その唇は徐々に頬へと移動していった。
「それよりももう欲しい」
「じゃあ挿れてあげるね」
求められた事を喜んでいるのだろう。嬉しそうに破顔したヴィクトルは上着を脱ぐ。更にズボンをその下に履いている下着と共に引き下ろした事によって、勃起している男性器が現れた。
逞しい姿へとなっているそれに引き込まれ一頻り見詰めた後、ヴィクトルが昂ぶりを体内に沈めるのを待つ。足の間へと深く入って来たヴィクトルは、蜜口へと剛直を宛がった。
昨日までは避妊具を使っていたのだが、今日から子供ができるまではそれが必要無くなる。
最後に薄い膜で覆われていない物を受け入れた時の事を思い出す。使わなかった時の方が気持ちが良かったように思い、ユーリは息を飲みながらヴィクトルの腕を掴む。
「挿れるね」
「あっ……んぅ――!」
体の中へと固い物が潜り込んで来た事により瞬く間に肥大した快楽が、爆発した。
「イっちゃった?」
頭が回らなくなっており素直に返事をすると、ヴィクトルが腰を動かし始めた。
「あっ……ああっ……だめっ……イきそ……」
「さっきイったばっかりなのに? 今日はゴムしてないからかな」
「そかも……あっ……ああっ……」
避妊具を使わずにした時の方が気持ちが良かったように思っていたのだが、その通りであったのだという事が分かった。あんな薄皮一枚で、これほど違いが出るのが不思議である。
「んぅ――! あっ……んぅ……びくとる……だめっ……」
限界になってしまうほど感じたのでもうこれ以上感じたく無いのだが、ヴィクトルが腰を動かしたままになっているので快感が押し寄せて来る。何度も達してしまい瞳に涙が滲む。
「もうむり……あっ……ゆるして……」
「俺もイきそうだから一緒にイこうね」
もう一度ヴィクトルと共に大きな波に飲み込まれれば解放して貰えるのだという事が分かり、ユーリは首を縦に振る。
「あっ……んぅ……あっ!」
「出すよ」
達すると同時に、体を強くヴィクトルに抱き込まれる。腰を動かすのを止めた事から、ヴィクトルも高見へと上り詰めたのだという事が分かった。
既にヴィクトルが動くのを止めているというのに、まだ体内で男性器が動いたままになっているようだ。余韻によってそんな風に感じてしまっているのかもしれない。
ユーリの体を解放すると、ヴィクトルは潜り込ませたままになっていた物を引き抜く。欲望を放ったからなのだろう。先程まで固かったそれは柔らかくなっていた。
「気持ちよかったよ」
顔を綻ばせて目尻に唇を押しつけながらそう言われると、幸福感がした。ヴィクトルと気持ちが通じあってから、自分だけ気持ちよくなっているのでは嫌だと思うようになっていた。
ヴィクトルが布団を捲ったのでその中に入る。直ぐに同じように布団の中に入って来たヴィクトルに体を抱え込まれたので、厚い胸板に頭を預けた。
「できたかな?」
「そう簡単にできるかよ。ユリアができるまでだって、時間が掛かっただろ?」
恋愛感情も無いというのに、ヴィクトルと性交をしていた頃の事をもう思い出す事は無くなっていたのだが、不意に思い出した。
最初は気持ちいいだけで無く不快感がしていたのだが、途中から気持ちいいだけになっていた。それは慣れたからなのだと思っていた。しかし、今から考えるとそうでは無いのかもしれない。
ヴィクトル以外の相手であれば、不快な気持ちが無くなったとは思えない。ヴィクトルに気持ちが接近したので、ただ感じるだけになったのだろう。
「そうだね。じゃあ、早くできるようにしないと」
「まだすんのかよ?」
ヴィクトルの発言はそうであるとしか思えないものである。それを確認しようとヴィクトルの顔を見上げると、顔が近づいて来た。
いつでも口付けをする事ができる位置まで顔を近づけると、ヴィクトルは白い歯を零した。ヴィクトルの表情は、ユーリの質問を肯定しているものであった。
先程したばかりである。絶倫。言いたい事が幾つもあったのだが、その言葉はヴィクトルの唇によって阻まれてしまった。
三章 紅花苺
夕食はヴィクトルが仕事で遅くなる時以外は、家族三人揃って食べるようにしている。しかし朝は、ユリアが起きて来るのが早いので、先にユリアにだけ食べさせる事が多い。
先に食事をしているユリアを向かいにある椅子から見ていると、足音の後扉が開いた。ヴィクトルが起きて来たのだという事が分かり、ユーリは入り口に視線を遣る。
タブレットを片手に、ヴィクトルがこちらへとやって来ていた。
「おはよう」
ダイニングに朝現れた時、ヴィクトルはいつも着替えを済ませて身だしなみを完全に整えている。絞まりの無い格好をするのが苦手であるヴィクトルは、家の中でもだらしのない格好をする事は無い。
出会った時から雑誌のモデルのような見た目をしていたヴィクトルは、四十歳手前になった今も変わらず人目を集めるような容貌である。昔よりも確かに老けているが、それはヴィクトルを一層味わいのある外見へとしていた。
「朝ご飯できてっぞ」
ヴィクトルがいつも食事をしている席に座っていたユーリは、椅子から立ち上がるとスープを温める為に台所に向かう。
広い邸宅の中にある台所は、結婚をするまで暮らしていた集合住宅にある簡易な物の二倍以上の広さがある。
この家をヴィクトルが選んだのは、料理が好きなユーリが広い台所を気に入ってくれる筈であると思った事も理由の一つであるようだ。実際に料理がし易いので、ユーリはこの家の台所を気に入っている。
コンロの側まで行くと、置いてあるエプロンを付ける。今使っているのは、少し前にヴィクトルが買って来た物だ。
結婚をまだする前。ユーリを好奇心から着飾ってから、ヴィクトルはユーリの服を買って来るようになった。直ぐに飽きるだろうと思っていたのだが、今も記念日でも無いというのに服や装飾品を小忠実に買って来る。
エプロンだけで無く今着ているのもヴィクトルから贈られた物だ。
相も変わらずヴィクトルが買って来るのは、少女が着るような可愛らしい物ばかりだ。
もう二十代半ばである。そろそろそんな服装は自分には似合わないのでは無いのだろうか。そう思うのだが、相手に似合う物をよく把握しているヴィクトルがそれを選んだという事は、似合うという事なのだろう。それを証明するように、服が似合っているという事を言われる事が多々ある。
「今日は何?」
「ロールサンドとチーズクリームスープ。あとはベイクドポテトとベーコン、ヨーグルト」
いつまでこんな格好が似合うのだろうかと思いながら、ユーリは質問に答えた。
今日の朝食として用意したロールサンドは、野菜と共にソーセージを挟んだ物である。そしてチーズクリームスープは、茸とじゃが芋。ハムなどを入れた物だ。
チーズクリームスープが具だくさんな物であるので、ヴィクトルも満足する筈だ。
「へー」
振り返ると、早く食べたいという顔をしてヴィクトルは待っていた。その反応は、料理を用意しているユーリの気分を良くするものである。目尻を下げながらスープを温めていると、鍋から湯気が出て来た。
美味しそうな香りがして来たので、火を止めて皿に出来上がった白いスープを盛り付ける。
「できたぜ」
テーブルには既にスープ以外の料理を並べている。お腹が空いている様子であったが、そんな料理に手を付けず、スープが来るのを待っていたヴィクトルの前にユーリは皿を置く。
待ち望んでいたという顔へとなったヴィクトルは、スプーンを手に取ると優雅な仕草でスープを飲み始めた。
どんなに空腹でも、ヴィクトルの食事を取る姿は綺麗だ。
昔は公の場で食事をする時以外は全く作法を気にせず、決して綺麗だとは言いがたい食べ方をユーリはしていた。しかし、子供が生まれてから子供が真似するようになっては困ると思い、ユーリも常に行儀良く食べるようになった。
その甲斐もあるのか、ユリアはヴィクトルと同じように上品に食べる。
持って来ていたもう一つの皿もテーブルに置くと、椅子へと座る。ユーリもまだ朝食を食べていなかったので、これから食べる。その前に、ヴィクトルの前に置いてあるグラスに水を注いだ。
自分の前にあるグラスにも水を注ぐと、ユーリはロールサンドを手に取る。
ロールサンドは、想像していた通りの味であった。その事に満足しながら、残りを食べていく。ぱくぱくと大きな口を開けて食べると、直ぐに手に持っていたロールサンドが無くなってしまった。
まだロールサンドはあるのだが、先にベイクドポテトとベーコンを食べる事にした。出来上がってから時間が経過してしまっているが、ベイクドポテトとベーコンは冷めても美味しい。ベイクドポテトをフォークで刺し口に運ぶ。
「……っ」
咀嚼した物を喉の奥に流し込んだ瞬間、急に吐き気がした。
先程飲み込んだ物を出したくなってしまうほど、それは強いものである。一緒に食事をしている者を不快にさせる行動であるので耐えようとしたのだが、限界になりユーリは口を押さえながら椅子から立ち上がった。
「ユーリ?」
「どうしたの、マーマ」
二人の狼狽した声を背中で聞きながらユーリは洗い場まで行くと、蛇口を捻り水を流す。もう我慢しなくて良くなったので、喉から溢れてしまいそうになっている物を吐き出した。
まだパンを一つとベイクドポテトを一口しか食べていないので、直ぐに胃の中に入っている物は無くなった。それでも吐き気は無くならず、何度も嘔吐く。
「うっ……んぅ……」
「ユーリ」
名前を呼ぶヴィクトルの声が聞こえて来ると共に、背中を撫でられる。いつの間にか側までヴィクトルがやって来たようだ。
ヴィクトルに背中を撫でられているうちに、吐き気が薄まって来た。これ以上吐いてしまう事が無い状態まで回復すると、ユーリは流したままになっていた水を止める。
横からヴィクトルにタオルを差し出される。背中を撫でるのを止めたヴィクトルは、タオルが必要な筈であると思いわざわざ取って来てくれたようだ。
「サンキュ」
体調崩した事すら殆ど無い。嘔吐した事など数える事ができる回数しか無いので知らなかったのだが、吐くと著しく体力を消耗するらしい。
ユーリは酷い疲れと倦怠感を覚えながら、ヴィクトルからタオルを受け取る。それで頬に流れ落ちていた涙を拭いていると、再び背中を撫でられる。
漸く気持ちが落ち着いた。
「大丈夫だ。ちょっと気分が悪くなっただけだ」
先程までの吐き気が嘘のように、今は元通りになっている。
背中を撫でるのを止めたヴィクトルを安心させようとしたのだが、憂懼した様子へとなったままになっていた。
何を言ってもヴィクトルは安堵しそうに無い様子である。しかし、ヴィクトルに不安になる必要は無い事を伝えたい。何を言えば良いのだろうかという事を考えていると、側までやって来ていたユリアにスカートをぎゅっと掴まれる。
「マーマ、大丈夫?」
ユリアは今にも泣きそうな顔で言っていた。
「大丈夫だ」
娘まで不安にさせてしまったのだという事が分かり、自分を叱咤したい気持ちになりながら、ユーリはユリアを鎮める。
頭を撫でてもまだユリアは辛そうな顔へとなったままだ。子供は思考が飛躍する事がある。ユーリが死んでしまうかもしれないと思っているのかもしれない。
ユーリは腰を屈めユリアと視線の高さを同じにする。
ユーリは平均身長に届かない程度しか身長が無いのだが、対してヴィクトルは平均身長を優に超えている。ユーリでは無く、そんなヴィクトルにユリアは似たのだろう。平均よりも身長が高い。
娘にいずれ身長を抜かれる事になる事を予感しながら、ユーリは優しい笑みを浮かべて語りかける。
「そんな顔すんな。俺はお前を残して死んだりしねえから」
「本当?」
「ああ」
漸くユリアを安心させる事ができたようである。ユリアが辛そうな顔では無くなったので腰を戻すと、それを待っていたかのようにヴィクトルから声を掛けられる。
「熱は無いの?」
ユリアの不安を解消する事はできたようなのだが、ヴィクトルはまだ心配したままになっているようだ。そう言ったヴィクトルは、顔を強ばらせたままになっていた。
「ねえよ」
「じゃあ他に何か変わった事ある?」
熱が無い事が分かっても、ヴィクトルはまだ安心する事ができないようだ。ヴィクトルの質問に全て答えるしか無いのだろう。
「変わったことな……。最近胃が痛い事があるな。それと、すげー眠い。いつもならすんなり起きれるってのに、ここん所起きるのが辛れえ」
何も無いと言えばヴィクトルを安心させる事ができるのだという事は分かっていたが、本当の事を言った方が良さそうであったので思い浮かんだ事を素直に答えた。
ここ数日、朝スマートフォンの目覚まし時計の音で目を覚ました時、再び寝てしまいたいと思うほど眠かった。前日早く寝た日でも眠いので、その事をユーリは不思議に思っていた。胃が痛い事があるのは、何故なのかという事が全く分からない。
本当の事を言った事により、先程までよりも一層心許なげな様子へとなっているヴィクトルを見て、ユーリはそれを後悔した。
「大丈夫だって。眠いのは単に眠たい時期なだけで、胃が痛い事があんのは、なんか食べ過ぎたのかもしんねえ」
「病院に行った方が良いよ」
ヴィクトルの反応からそう言い出すのだろうという事は予想していた。それでも実際にそう言われると、顔を顰めてしまう。
病院に行きたくないのは、何でも無いと言われるに決まっているからだ。何処か悪いのならば、もっと体調が悪い筈だ。
「心配してくれんのは嬉しいけど、本当に大丈夫だから」
「駄目だよ、マーマ」
「そうだよ」
ヴィクトルだけで無く娘にまで病院に行く事を勧められると、これ以上行く事を渋る事ができなくなってしまう。
「分かったよ。今日病院行くから」
二人が漸く安心した様子へとなった。
「ほら、飯食おうぜ。二人ともまだ食い終わってねえだろ。俺もまたお腹空いて来たし」
先程吐いたばかりであるというのに、今は空腹になっていた。二人が机へと戻ったので、ユーリも机へと戻る。先程ヴィクトルから受け取ったタオルを膝の上に置くと、ロールサンドに手を伸ばす。
調子は元通りになったのだが、先程ベイクドポテトとベーコンを食べて気分が悪くなったので、今日はそれを食べるのを止める事にした。
ベイクドポテトとベーコンは油を使った料理だ。気分が悪くなってしまったのは、胃に負担が掛かる料理を食べたからなのかもしれない。
ロールサンドを二つ食べてもまだ飢餓感がしたままである。
スプーンを手に持ちスープを飲んでいく。具がたっぷり入っているスープを飲めば満足できるだろうと思っていたのだが、全て食べてもまだ物足りなかった。
今日はお腹が空いているようだ。昨晩体力を消耗するような事をしたのが原因だろう。それ以外に原因が考えられない。
ユーリは空になっている皿を手に取ると、ヴィクトルとユリアの前にあるスープを確認する。無くなっているのならば声を掛けようと思っていたのだが、二人の前にある皿にはまだスープが残っていた。
美味しそうに食べているので、不味いのでまだ食べ終えていないのでは無いという事は分かっている。不安になる事は無くコンロの前まで行くと、再びスープを温める。
先程熱を加えたばかりであるので、直ぐに煮立った。火を止めて皿にスープを注ぐと、テーブルに戻り再びスープを食べていく。
半分ほど食べる事によって、漸く落ち着く事ができた。
「ユーリ、昨日からやけに食べるよね」
食べる手を止めると、既に食事を終えていたヴィクトルからそう声を掛けられた。
ヴィクトルからそう言われた事によって、昨日も同じようにいつもよりも食べていた事にユーリは気が付いた。
「なんかお腹空くんだよな」
「そう。今日はさっき吐いたばっかりなのに」
先程までその事が気になっていなかったのだが、ヴィクトルに指摘されると気になってしまう。
嘔吐した後に、普通こんなにも食べたくならないだろう。何故こんなにも食べてしまったのかという事を考えていると、ヴィクトルが急に難しい顔へとなった。
「もしかして子供ができたんじゃない?」
ヴィクトルはユーリの変化を妊娠の初期症状だと思ったようだ。
ユリアを妊娠していた時も、眠くなり食欲が増し胃が痛くなった。そして、吐き気がする事があった。
妊娠の初期症状が出ていた時、ヴィクトルは側にはいなかった。それなのにヴィクトルがその時の事を知っているのは、迎えに来てくれた後話したからだ。
「そんなに早くできねえだろ」
昨晩の行為でもしもできていたとしても、こんなに早く妊娠の症状が出る筈が無い。
「その前にできてたのかも」
「それはねえだろ」
避妊をしているのでできる筈が無いと言いたいのだが、側にユリアがいるので言えない。その事を目で訴える事しかできなかったのだが、ヴィクトルには伝わったようだ。
「薬飲んで無いと、できちゃう事もあるみたいだよ」
避妊薬を飲めば妊娠の確率が全く無くなる。それを知ったからだけで無く、酷い生理痛と生理不順を改善する事もできると知り、避妊薬をユーリは一時飲んでいた。
しかし、誰にでもあう訳では無いのだという事を、薬を服用する事によって知った。薬があわなかったので服用を止め、それから飲んでいない。
「まさか……」
「そうに決まってるよ」
「パーパ?」
先程まで黙って話しを聞いていたユリアが、好奇心を抑えられないという様子でヴィクトルに声を掛けた。
「ユリアに弟か妹ができたかもしれないんだ」
「本当!」
目を輝かせながらユリアはユーリを見た。
「気が早い」
そうでは無かった場合、ユリアを落胆させてしまう事になる。残念そうにしているユリアの顔は見たくないので、余計な事を言ったヴィクトルにユーリは鋭い視線を投げつけた。
「きっとできてるよ」
睨み付けられたというのに全く反省していないヴィクトルは、尚もそう続けた。発言の内容とそんな態度から、自分の考えに自信があるのだという事を伺う事ができる。
「今日病院で診て貰うからとりあえず待て」
「じゃあ俺も病院付いて行く」
「お前は、今日は今度のショーの打ち合わせだろ。何言ってんだ」
ヴィクトルがその事を忘れていたとは思えない。覚えていながらもそう言ったヴィクトルに呆れ果てた。
「今度はずっと側にいたいんだ」
そんな事を今まで一度も言わなかったので気が付かなかったのだが、妊娠が発覚してから臨月近くになるまで側にいなかった事をヴィクトルは悔やんでいたらしい。それを言わなかったのは、言えばユーリが気にすると思ったからなのだろう。
そんな風に思っていた事を知り分かったと言いたくなったのだが、それはできない。
「駄目だ。お前のショーを楽しみにしてる奴がいるんだ。ちゃんと全力を尽くせ」
「分かったよ」
ユーリの言う通りであるというようにしてヴィクトルは返事をした。その言葉に安心した後、ユーリは食事に戻った。
食事を終わらせると、ユーリは一緒に病院に行きたいと言い出したユリアを学校に送り出し、次に打ち合わせがあるヴィクトルを送り出した。
家の事をそれから駆け足でやり病院に行くと、医者から妊娠している事を告げられた。半信半疑であった為、ヴィクトルの言う通りであったのだがそれでも驚いた。
そして内検査をした事によって、十二週である事が分かった。ユリアを妊娠した時も、初期症状が出たのは同じ十二週目である。
妊娠している事に全く気が付かなかった事を不思議に思いながら帰宅したユーリは、ヴィクトルが戻って来るのを待ってユリアと二人に子供がお腹にいる事を伝えた。
二人は大袈裟であると思うほど喜んだ。それを見て照れながらも、新しく産まれて来る家族だけで無く、これからも二人を大切にしなくてはいけないとユーリは思った。
終幕
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