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体癖論で気分が軽くなった話

野口晴哉先生の「体癖」という本があります。人間は性格や物事の感じ方や体の動きがある程度の体つきや重心のバランスによる体癖タイプに分かれているというある種のボディタイプ診断法、体癖論の本です。

元来体癖に限らずありとあらゆる人格分類、人間分類、血液型診断から星座占い、姓名判断まで大嫌いだったのですが、体癖論をしってからかなり人付き合いが楽になりました。

以前は「なぜこの人はこのことを分かってくれないのだろう」「なぜこの人は常に戦闘態勢なのだろう」「なぜこんなに頑固なんだろう」「なぜこのようなことに必死に拘るのかな?」という疑問を持っていましたが、野口先生の体癖を知って、ある程度相手にあきらめがつきました。

違うもんは違う

体癖は性格よりもっと深い、個人の持つ価値判断についてもある程度分類しています。人は体つきだけでなく、性格だけでなく、行動原理の根本的な価値基準が体レベルの現象で、ある程度分かれているという知見を得たのは非常に驚きでした。最も根本的な人間の行動原理といえば、生存本能を現象界に着地させるために人間を行動に駆り立てる様々な欲という事になるのでしょうけれど、その欲に割と明確なタイプがあり、もともと強く発揮するその欲のタイプが違うから人は根本的(一般的な用語の範囲において根本的)に分かり合えないんだという事が了解出来た気がします。

ひとは究極的な意味においては「同じ人間」だと思うのですが、表層的な生き方の種類はだいぶ違います。ぼくのように文章を書くのが好きな人種もいるでしょうし、文章自体、論理自体を憎む人もいるでしょう。数字的成果を愛する人もいれば、毀誉褒貶を愛する人もいます。自分が好かれることが好きな人もいれば、嫌われるのがとにかく怖いという人もいます。嫌われても好かれてもとにかく利益を得ることが好きという人、ロマンチストで理想主義者、勝敗賞与がとにかく第一義、他人の上に立つのが何としても好き、という人がいたかと思えば世俗的な価値観は全くどうでもいいが、自分にだけは負けたくないと、たった一人で現実の壁に挑み続ける修行のような生き方をしている方もいます。

人はすべて違うように作られている。このいたって単純な原理をある一定のフレームワークで見せてもらって、素直に

「あ、他人に期待するのはやめよう」とおもえました。違うもんは違うんですから。

でも実は全く他人に期待しない、依存しないというのは原理的に無理でしょう。そもそも今の人格が発露するのだって、赤ちゃんの頃から膨大な影響を他人に受けて、他人に期待して裏切られて、でもまた膨大に無意識にした期待が人間社会に受け入れられたりして出来上がったものなのですから。

でも、まあ都合よく期待するのはやめられました。

たとえば勝ち負け第一主義の人に向かって「なんで君はそんなにいちいち細かいところをつっかかってくるんだ、勝ち負けなんかより仕事の成果を作り上げよう」といっても願っても無駄です。自分と価値基準が違う人にそういう無駄な期待はしないでおこう、という風になれました。だって

事がわかったわけですから。

個人の持たされている特性、表層的な価値基準を超える人もいます、ある程度ですが。つまりAさんならここでは立ち向かうし、Bさんならここでは利益を得ようとするけど、そういう積極的なアクションを超えてCさんは何もしなかったと。

つまり他人との間の価値基準を超えるとは、端的に他人に対して「まずは」望まない、なにもしないことになります。

お金をくれとか仕事をくれとかそういう望み方だけではありません、俺のことを殴らないでくれとか、いきなり突き飛ばさないでくれとか、明らかに相手が悪かったりすることでもまずは望まない。

もし望まないことをされたら、どうにかするしかない。でも相手にばかり望んでいたらどうにもできない局面も多いです。

ぼくは全世界の人にぼくを殴ってほしくはありませんが、もし殴られたら呼吸するしかない。呼吸するしかないというあり方が「まずは」望まない、他人に期待しないということなのかなと。相手を受け入れる、でもそれすら受け入れていい形での相手の行動を無意識に想定した態度です。だから浸食、侵略されることでも許す。諦める。

でもそれ以前に殴られるなよと。殴られないようにするべきだという前提がありますが話を単純化して書いています。

もしかしたら究極的には「許す」「諦める」という事になるのかもしれません。

許せなかったら逃げたり殴り返したり反撃すればいいので、逃げたり反撃した自分を許せばいいし、逆に半殺しにしちゃったら、そういう自分を許したり諦めたりすればいい。聖人みたく諦めきれなかった自分を諦めればいいので実質「許し」「諦め」は無敵です。自分がどの段階でも使えるという意味において汎用性のあるアクションです。まあアクションをしようとしないという事なんですけれど。

どうしようもない

産まれてこの方、かっこいいといわれたことはありません。勿論かっこよくありたい、俺はかっこいいと思って生きてきました。でもあるときお付き合いしていたファッション業界の方に言われました。

「ゴリ君はさ(そういわれてました)、顔的にも体的にもセンス的にももうおしゃれは一生無理だから、間違わなければいいよ。大間違いしておしゃれできると思わなければいい」

衝撃的でした。

「ゴリ君が残りの一生頑張っても50代のおしゃれジジイにすらかなわないから。だからかっこよくあろうとか、かっこつけようとかおしゃれになろうとか思わないで、毎日洗濯したのを着て清潔な格好してなさい。ギリギリ人間だったらいい」

めちゃくちゃいいこという女だと思いました。それからぼくは300回くらいうなづいて、自分が思うおしゃれだと思いこんでいた服を全部処理して、終生ユニクロで生きています。ファッションはほとんど無個性です。

めちゃくちゃ楽です!

そしておしゃれが決め手になる生き方を選ばなければいいのです。おしゃれで能力が決まる業界の仕事をしなければいいのです。だから服のおしゃれに関してそれから先の人生はめちゃくちゃ楽でした。

コスト0ですから。

季節のーとか、かっこいいから、流行ってるから、そういう視点で服はもう買いませんから。破れたら買うくらいです。買う頻度もすごい低いです。

システマやり始めて、野外で転がったり、水に飛び込んだり、床を転げまわったりするのでもはやトレーニングウエアしか着てません。さらにチョイスにかかるコストがなくなって楽になりました。

無敵か?諦めるって無敵か?

それと似た現象が、野口整体の「体癖」をみて他人とのこころの軋轢に対して怒りました。

他人に期待しないとすごい楽です。すくなくとも他人に対する期待を減らすと楽です。それにおもわず誰かに期待せず何かやってもらったことがあるとすると道を歩いていていきなり預金通帳が振ってきたように喜ぶことができます。

ええ?ねじれ型の人が矛をおさめてくれた!?とか。上下型の人が理路整然と詰めるのを諦めてくれた!?とか。ハッピー極まりないです。

面と向かって馬鹿にされてもニコニコしてればいいのです。(みなさんも毎日だれかに馬鹿にされますよね?ん?)目の前の人が自分をほめてくれるなんて期待してないから、バカにされても驚きません。今日はどんな罵倒のバリエーションで攻めてくるんだろうくらい思えて楽しめます。マジでラッパーみたいだなとか感心することもあります。この人、ぼくをこういう言い方でバカにするってことは、本人はここがコンプレックスなのかな?とか。こういう言い方をしたらぼくがショックを受けると思ってるのか?嫌がると思ってるのか?それにウケルーとか。

ああこの人は捻じれ型だなとか、明らかに開閉型だな、こだわりがすごいとか。そのこだわりをぼくに当てはめようとして躍起なのかとか、余裕があれば冷静に観察してモンスター辞典を作っているような気分になれます。

どうしようもないんです。他人のことは。ぼくにとって体癖の価値は他人の性格を分類するスキルでもなければ、それで相手を上手に把握して人間関係をうまいくいかせるメンタリズムでもなく、たんに人間の性格やさまざまなありかたも単に摂理だったんだなと気が付かせてくれたことでした。

そして最終的には自分についても単なる摂理、システムだったんだなという事を気が付かせてくれました。

だから実は体癖についてはあまりぼくは詳しくありません、基本的な類型を知ってるだけ、レベル1って感じです。とっさに使いこなすこともできませんし、大体もう忘れてます。システマやり始めて5つ以上のことを覚えるのが苦手すぎて、覚えた橋から忘れてしまいます。

でも人間の性格、心。そこに原理があったという知見と出会えてかなり救われました。

それを野口先生が体癖を通じて教えてくれました。すごく他人の性格や行動や心に期待しなくなって楽になりました。野口先生はもうお亡くなりになられているのですが、感謝をしています。

読んでくださってありがとうございました。






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