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自己肯定感・知るかそんなもん

ちょっとまえ、こういう事を呟いた。表現が乱暴ですいません(笑)ちょっとこのころは表現の強度によって人に与える影響を実験していまして……

でも、そう思えて仕方がないんです。するとその後こういうつぶやきにも出会った。

まあ、そうだよな~って思った。

やっぱり自己肯定感は「何それ?」っていう態度と(少し穏やかな表現にしました)はっきりと「低い」っていう態度があると思う。

自己肯定感が低い~っていうのは「わたしなんて……」とか「私は何をやってもダメ!」って思う事の様にとらえられがちだが、実は見た目上全くそう見えないパターンも存在する。

それは「俺はすごいんだぞ」「これだけのことができるんだぞ・やってきたんだぞ」「俺は他者に比べてこれだけ何ができるんだぞ!」という態度である。

一見それらは自己肯定感凄い高そうである。そういうことを云う人は自分を愛していそうである。いかにも自分に自信がありそうな態度ではないか。でも実のところ全然そうではない。

なぜならそういう人たちは、逆に「すごくなければ満足できない自尊心」を持っているからだ。彼らはぼろを着ていてはだめなのである。他人より偉くなかったら苦しいのである、他人よりすごいことができなければ恥ずかしくて、苦しくて、泣き叫ぶほど居ても立ってもおられずつらいのである。そう自らがはっきりといっている。

誰もが認める社会的ステータスの人が、謝罪の記者会見でいきなり子供の様に泣き出してしまったり、訳の分からないことを叫びだしたり。それはそうしないと彼らの自我・自己認識が持たないからである。「すごい自分」に縋り付いているから、それをすこしでも否定する現実を受け入れることができない。なのでそれらを少しでも感じたら怒ったり泣いたりしたら、いくらでも甘やかされておっぱいを貰えていた幼少期を思い出して、自分の一番強烈な愛され体験・自己肯定感が高かった無敵の愛され時代に戻るのだ。

泣いたから、俺を癒してくれ。苦しんだから俺を慈しんでくれ。泣き叫んだから、俺のことを愛してくれ。理解してくれ。わかってくれ。甘やかしてくれ……ずっとずっと。

自己肯定感が低いと、即ち自分はダメなのだから、自分は常に「ケア」される存在であるという認識を根深く持っていることになる。

自然にそういう場合は他責傾向になる。自己肯定感が低いことは自分の問題だけではなく、他人にも非常に影響を与え続けるのだ。大抵はあまりよくない影響である。

(自分は弱いから)⇒他人は常に私を守り、慮るべきなのだ。更に他人に対して傍若無人に振る舞ってよいのだ。

(自分には決定権があるほど力がないのだから)⇒他人が私について快適で豊かになるように何かを決定するのだ。更にその責任は全て他人にある。

(自分は貧しいから)⇒他人の時間やチャンスを好きに使う権利があるのだ。他人の行動は私のものだ。なぜなら私には行動力がないから。

こういう具合である。基本的に甘えたクソガキのような態度になる。

更にそういう場合、無意識でずっと自己肯定感が低かったのだから、いくら表向きの高そうなステータスを搭載していようと、その虚飾がはがされた瞬間、社会的ステータスや称号を失った自分を認められないのである。ありのままの自分に耐えられない心こそ、自己肯定感の低い反応そのものである。

不祥事がばれようが、失敗しようが、それはそれで自分の今のありかたとして認められるのが本当に自己肯定感の高い人のあり様である。

「バカ」「無能」と言われたら「あなたは私のことをバカで無能だとお思いになるのですね?もしかしたら事実そのようであるも知れません」と素直に認めて何ともないのが自己肯定感の高い、あるいは自己肯定感が必要ない、と言われる人たちの本当の態度である。加えて「私は時にバカや無能ではありますが、人を唐突に痛罵するあなたは大変失礼な態度ですね」と言い返したっていいだろう。それで自分の心は揺れはしない、その通りでしかないのだから。

「俺はバカや無能じゃない!」「こんなに有能なのにバカとか無能とか言うな!」という価値判断を奪い合う議論に突入するのが、何によるものなのか、自分の中のどのような欲求、態度に拠るのものなのか、人はあまりにも無自覚なことが多いのだ。

自己肯定感が低いと、自分が自分であるためにいろんなものが、しかも外側に大量に(無限に)必要になる。

立派な仕事、社会での名声、お金、社会的に影響力のある友人、他人に長じる何らかの能力や、あるいは比較可能な大きな業績。

ただ間違えてほしくないのは別にそれらが悪いと言っているわけではない。むしろどれも素晴らしいことなのだ!問題はそれなしでは一瞬も成り立たない自己像の方である。

性格的なレベルでそういうモノばかりを好む人もいる。ずっと何らかの理由で認められなかった人なのかもしれない。小さいころから他人・教師や親に「そのままでいいんだよ」というメッセージを十分送られてこなかったのかもしれない。そして自分でも自分に「自分は今のままでは価値が無い」「何もできない自分はゴミ」と思い込んでしまった人なのかもしれない。

しかしもしそうであっても恥じることはない、だいたいそういうもんだからだ。

理由や原因はともかく。弱く、貧しく、愚かである自分が許せない、存在してはいけないと、自分で自分を追い込んでしまっているだけなのだ。故に満足や充足感、安心ではなく劣等感、という感情にあまりにも親しくし過ぎたから。自分で自分をずっと愛せていないだけなのである。

まあ、でも……いやむしろだからこそと思う。

それはそれで、自分の内面に目が向きにくい性格をしてるならば、いいではないか、と思う。だって事実その通りなんだから。顔でも体形でも財布の中身でも学歴でも、仕事の業績でも友人の価値でも何でもかんでも他人と比べて自分の方が長じていなければならない程劣等感が高い、あるいは自己肯定感が低くてもそれはそれでいいのではないか、と思う。

だって今現在の自分のリアルがその通りだから。

何もかも外面的な価値を失ってしまえば自分を愛せないと思うならば、他人についても価値のある人と価値のない人を峻別し、愛せる人と愛せない人とを厳格に区別しているのだろう、まあ、別にそれでもいいじゃないかと思う。

別にそれが正しい訳でも、人として強い訳でも立派なわけでもない。でも自分がそういう類の価値観にとらわれてしかたないならば、気が済むまでスキにすればいいのだ。

問題なのは自分がそういう価値観に無意識に隷属して振り回している事、自分がそういう自己肯定感にしがみついて居座っていることに無自覚なことだけである。

だって、比較はずっと死ぬまで続く。苦しいより楽なほうがいい、病気より健康な方が、愛を感じないより愛を感じる生活がいい、そういう根本的な価値判断は死の直前まで無量大数的に自分に起こり続けるのだろうから。

かくいうぼくだって人に愛されたい。自分が愛する人に同じように愛されたい。そして人生でまだ見ぬ人たちに愛されたいし、人以外のすべての大きなものに愛されたい。それらを愛したい。途切れることなくずっと満足感と愛を感じて生きていたい。

そうでない人生、そうでない自分と比べると、やはり愛があってほしいなあ……と思わざるを得ない。甘えているわけだ、優しく頭をなでてほしい訳だ。たまにはぼくも甘えたいのだ。愛されないと寂しい、という劣等感が確かにある。愛してほしいという根本的な欲望がある。甘えたい欲求が間違いなくある。だからそれはもうある程度それでいいじゃないか、と思う。

ま、だから究極そういうものが得られずとも(笑)いいのである。割と平気だ。少なくともぼくは人から私が望むほど愛されなくてもまあまあ平気なのである。自分が自分を十分愛せているから、と言いたいところだがそうではない。いまだに十分自分のことも愛せていないのである。人なんかもっと愛せてない。

でもこの宇宙で俺だけは、最後まで俺のことを愛そうと思う……にしてもできるだけだが。

愛するためにいろんな条件を付けたくなるけれど、まあ出来る限りそういうの省いて。生きていればいいじゃないか、くらいな感じで自分のことを愛そうと思う。少なくともより愛せますように、自分が幸せでいられますようにという努力をしようとぼくは決意したのである。

そう思うと、なんだか胸が暖かい。ゆるい幸せがじんわり広がるようだ。おなかもポカポカして、少しだけこの自己肯定感の欠乏する苦しみから楽になれるようだ。

自分の熱、あったかさを感じる。そこに厳密な判断はない。今この瞬間に自分に起きていることを感じる。そこに厳格な価値判断はない。

ガッチャガッチャと他人や外の世界のあれやこれと自分を比べ続けて混乱した自分が静まると、その空っぽの身の内に快適がなだれ込むのである。自然と笑みがこぼれる。

「今、ここで」しかできないことは呼吸である。呼吸を失敗する奴はいない。したら死んでるはずですし。

だから、呼吸はすればするほど、呼吸を意識すればするほど成功する。成功体験しかない。どんな劣等感にあえいでいても呼吸は常勝無敗の、全く不足のない我が命の力強さを教え続けてくれる。

深く息を吸えば今、空っぽの体の中に空気が流入する、それと同時に愛がなだれ込む。そうしてリラックスした体から愛と感謝が瀑布のように吐き出される。その一瞬一瞬の無限の連なりを感じる事で、どんな自分であっても急激に癒され続けていく。自己肯定感が要らなくなっていく。

どんな立派な箔や価値を身につけるより、無銘の今この瞬間の方が、はるかにあったかい。体を通じて、それを感じていこう。それを感じられたころには自己肯定感?知るかそんなもん(笑)そんなことより俺は深呼吸で忙しい、と言えるだろう。ね?







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