井上和の『猫』はなぜ聴く者の胸を打つのか
乃木坂46の5期生には、17日生まれのメンバーが4人いる。
2月17日の井上和、3月17日の中西アルノ、4月17日の川﨑桜、12月17日の岡本姫奈。
本日は2月17日、井上和の誕生日だ。それはつまり、岡本姫奈の誕生日を皆で祝ったあのライブから、早くも2か月が経過したことを意味する。
2023年12月16日と17日、国立代々木競技場第一体育館にて「超・乃木坂スター誕生!LIVE」が開催された。
5期生が名曲のカバーとコントに挑戦する番組『超・乃木坂スター誕生!』。このライブは番組を飛び出し、実際に観客の前で歌とスキットを披露するというライブである。2日間で3公演が行われ、大盛況のうちに幕を閉じた。
そんなライブの初日、井上和は番組内で歌唱したとある楽曲をライブでも披露することとなる。DISH//の『猫』だ。
番組で披露されたときから素晴らしかったのだが、16日に披露された15曲の中で最も筆者の印象に残ったのがこの『猫』の歌唱だった。
ではなぜ、あの日井上和が披露した『猫』は、聴く者の胸を打ったのだろうか。
鍵を握るのは「感性」と「感受性」である。
演劇論を歌唱に援用する意義
先に断っておかねばならないのは、筆者がこれから参考にしようとしているのが、フランスの啓蒙思想家ドゥニ・ディドロ(1713~84)の演劇論であるということだ。そもそも演劇論を歌唱について当てはめることは妥当なのだろうか?
乃木坂46の公式お兄ちゃんであるバナナマンは、自身がコントで演じるフォークデュオ「赤えんぴつ」のライブを控え、以下のように述べている。
歌を歌うという行為には、表現力を以て楽曲の世界を作り出すという点において、演技と通ずるものがあるように思われる。
殊にカバーというのは、既に他の誰かが作り出している世界を、自身の歌声で改めて作り出す行為なのである。それはたとえば、世界中で幾千万回も演じられてきた「ジュリエット」という人物を、新たに奥田いろはがミメーシス(再現)することに近いとは言えないだろうか。
ここに演技と歌唱とは、同じ芸術というカテゴリーの中でも特に近いものであると考え、演劇論の援用を妥当なものと結論付ける。
ディドロの演劇論
古来、演技のあるべき姿については2つの説が唱えられてきた。演劇学者の河竹登志夫によると、ひとつは「心から入り、役のなかに自己を完全に没入させるタイプ」、もうひとつは「役を意識的に表現して見せるタイプ」である。たとえば泣きのシーンで、役と同じ感情になって本当に涙を流すのが前者、自分の感情は冷静なまま、役の感情を知り、それを模倣しようとして涙を流すのが後者といえる。
「憑依型俳優」という言葉があるように、多くの日本人は(日本人に限った話でもないようだが)前者の没入型の俳優の方が名優だと思いがちだろう。しかしディドロは、後者こそ正しい、本当にすぐれた演技のあるべき姿だと説く。
理由を簡単に説明すると、心で演じるような俳優は「感受性」に富んでいるということであり、「感受性」とは「容易に心を動かされ、かき乱され、動揺させられてしまう、心の柔らかい状態」だからである。
「感受性」という心の柔らかい状態に依拠すると、安定性のないムラのある演技になり、またそれを積み重ねることで疲れ果て、やがて無感動な演技しかできなくなってしまう、というのである。
演技に「感受性」が不要である一方、「感性」は重要なファクターである。俳優は能動的な「感性」を以て冷静に観察することで、あらゆる状況と役柄を再現すべきなのである。ディドロは「無感受性」とともに「洞察力」を要求しているが、カント的な意味合いにおいてこれを「感性」に含めて論じることは可能だろう。
この先を読み進める上で覚えておいていただきたいのは、心の柔らかい状態である「感受性」に依拠した演技より、「感性」を以て観察し、注意深く再現する演技の方が優れている、という点である。
中西アルノがかけた言葉の真意とは
そもそもこのライブで井上が『猫』を歌唱したのには、本人的に納得が行かなかったという番組内での歌唱への「リベンジ」という意味合いがあった。2023年10月9日の放送である。
歌唱前に井上は、「感情が難しい」「ラスサビのあたりで感情を乗せたところがあるので、そこに注目していただけたら」と、感情を乗せて歌うことにこだわっていた。そして歌唱後、涙を流してしまった。
ディドロは何も「感受性」に依拠した演技が絶対に人を感動させないと言っているわけではない。時にはそういうこともあるだろうが、しかしそうして感情を爆発させるとその後感情を作れなくなってしまう、という話なのである。事実、井上は感情を乗せて歌い、それは間違いなく感動的だったものの、井上自身は泣いてしまって、ひな壇から言葉をかけるメンバーに背を向けるほどであった。
そこにひな壇から声をかけていたのは、盟友・中西アルノだ。
一見するとこの言葉は、感情を乗せて自身は余裕がなくなってしまったもののそれが良い方向に働いた、と言っているようにも思われる。しかし、番組で中西が歩んできた道を踏まえると、別の意味が見えてくるのである。
筆者が思うに、中西自身が「余裕を持って歌え」なかった最初の経験は、2022年9月5日放送の『新・乃木坂スター誕生!』において、澤田知可子とともに『会いたい』を披露したときのことだ。
この日、本来この曲は奥田いろはが歌うはずだったが、本番2時間前、急遽中西が歌うことになった。亡き恋人との思い出を歌った曲でありながら、「付け焼き刃」のような練習しかできず、歌唱後に中西は「もっと時間をかけて大切に歌いたかった」と悔しさを滲ませた。
しかし、歌唱後に澤田が中西にかけたのは意外な言葉であった。
「気持ちが入りすぎちゃいけない歌」。これは感情を乗せて「心で演技する」ことを否定したディドロの考えとよく似ている(もちろんその先の感性や洞察力云々といった話とは全く異なるが)。これを踏まえると、前述の中西から井上への言葉は、感情を乗せないアプローチもあるよという、アドバイスの含まれたエールだとは捉えられないだろうか。
最終リハーサルと「感受性」
そして2023年12月16日、井上に『猫』を披露する2度目の機会が訪れる。
井上はこのポストの他、entaxでのインタビューでも「感情をより歌に込めるということを意識しているんです。」「ダイレクトに感情が伝わる曲を歌いたい、という心意気でいます。」と、「感情を乗せた歌唱」を繰り返し主張している。
2024年1月22日、『超・乃木坂スター誕生!』では「超・乃木坂スター誕生!LIVE」の裏側の様子が放送され、『猫』に再び臨む井上の葛藤も描かれた。
井上は10月の放送での『猫』について、「練習してきた事が全部出せていたかと言われたらやっぱりそうではない」と振り返り、リベンジとなるライブでは「新しい自分の一面を伝えたい」と語っていた。
しかし、本番直前の最終リハーサルで事件が起きる。
大サビに差し掛かったところで声が詰まり、最後まで曲を歌いきれなかったのだ。
ここまで書けばもう言うまでもなかろうが、井上が泣いてしまったのは「心で歌った」せいだと筆者は考える。「感受性」に依拠して歌うことは、確かにダイレクトに感情が伝わるものかもしれないが、それ故に脆く、決壊する危険性を孕んでいる。
澤田知可子は「会いたい」に気持ちが入りすぎるとどうなるか明言しなかったが、きっと井上と同じ状況になっていたであろうことは想像に難くない。『猫』は別れの歌であるが、その歌詞はかなり「死別」を意味しているようにも見えるのだ。
「感性」と「感受性」
井上はリハーサルと本番との間をこう振り返る。
感情を乗せすぎて決壊した井上は、本番直前になって歌い方を変えた。
いろいろな歌い方をした上で本番をどうするか決めるというのは、まさに「冷静な観察者」としての態度である。どうするか決めた上で、本当に本番でストレートに歌うことができるのは、「ストレートな私」をミメーシスする表現者としての態度である。
「涙をこらえた」というのは、「感受性」に依拠して心で歌い、心から泣くことをやめたということに他ならない。感情を乗せないアプローチに辿り着いた井上は、没入型でなく表現型の歌唱も身に着けることに成功したのだ。それは彼女にとって紛れもない「成長」だ。
内へ向かう「感性」
井上は以前、インタビューで次のように語ったことがある。
アニメや小説に触れ続けてきた井上は、おそらく「感性」にとても磨きがかかっている。ただそれを自身に向けるのが少し苦手なのである。だから、ありのままの自らを映し出すより、想像上の感情をつけ足して表現してきた。
しかし一度決壊した彼女は、その「感性」を外側から内側でなく内側から内側に向け、冷静に観察することで、素直に歌いたいという答えを出せたのである。それは紛れもなく、井上が「表現者」になった事を意味するのである。
井上和の今後
ここまでディドロの演劇論をベースに話を進めてきたが、筆者自身は「感受性」を以て歌うことを完全に否定するつもりはない。事実、17日の公演で岡本姫奈が披露した『女の子は泣かない』には、今にも泣きだしそうな危うさからくる感動が確かにあった。
ただし「気持ちを込めすぎる」ことはときに大きな失敗を招きかねないため、「感性」を以て冷静に洞察し、判断し、表現することは非常に重要だ。要はバランスなのだ。
井上はこれまで前者に大きく依存してきただろうが、『猫』の歌唱を経て後者を獲得した。何より彼女には、天性の歌声がある。今後の彼女の歌は、間違いなくより美しいものになるだろう。
最後に、井上和さん、19歳のお誕生日おめでとうございます。
参考文献について
当記事の執筆にあたって青山昌文氏の論文「ディドロ演劇論研究:役者の演技の在り方について」を大きな参考にしたが、筆者の理解力故にその解釈が論文の内容に沿っていない可能性もある。文章そのものはさして難しくないので、興味のある方はぜひご一読願いたい。