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「フェイクドキュメンタリーQ」好き勝手感想: Q1 - 心霊動画投稿者と云うもの

ビデオは本物なのか!?……よりも、気になることがありました。

筆者の「フェイクドキュメンタリーQ」に対するスタンスについては下記まえがきをお読みください。


Q1: 封印されたフェイクドキュメンタリー

※本文はネタバレを含みます。本編鑑賞後にお読みください。※

概要

  • タイトル: 封印されたフェイクドキュメンタリー

    • 英語タイトル: Cursed Video

    • 動画内タイトル: フェイクドキュメンタリー

  • 扱う記録の概要

    • 媒体: 映像

    • 元映像の制作: テレビ制作会社

    • 入手経緯: 不明(何らかの理由で制作会社より提供?)

    • 動画作成者による編集

      • 取材映像の編集

      • テロップ付加

      • ナレーション付加

※本文における「動画制作者」は作中世界の制作者を指し、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

あらすじ

テレビ制作会社に保管されていた未放送の映像素材とされる取材映像。
番組に入った「ネット掲示版で見た『見ると死ぬビデオ』の噂について調査してほしい」との依頼のため、番組ディレクターとカメラマンの2人が調査に出る。掲示板に書かれていた閉店寸前のレンタルビデオ店で問題のビデオは見つかった。それは古いホラービデオの部分部分に遺影の映像が上書きされたもの。ビデオ店店長の話によると、噂が広まるにつれ子供が上書きを繰り返して遺影の映像が増えていったということで、見た者が死んだという明確な話は出なかった。この取材を「子供のイタズラによるものだった」と結論づけようとした2人だったが、放送前に両名が急死したことで取材映像は封印されたとされる。一方で制作会社はこれをあくまでフェイクドキュメンタリーだと断言しているという。

かんたん感想

1作めということもありオーソドックスな作りのフェイクドキュメンタリー、と思わせて大きな歪みを見せることで本作の特異性が表れています。

まず目を惹くのはいうまでもなく「『見ると死ぬビデオ』をめぐるフェイクドキュメンタリー」を扱ったフェイクドキュメンタリー、というメタフィクショナルな入れ子構造で、本作終盤に至ってテレビ制作会社側の制作スタッフが死亡したという「曰く」が明かされることでこの「見たら死ぬビデオ」は本当に(作中レベルにおける)「フェイク」なのか?、もっと遡って、この「フェイクドキュメンタリーQ」は本当にフェイクなのか?という揺るがせをしてくる点です。自分自身が本当にフェイクなのか、という仄めかしによって視聴者を宙ぶらりんにすることを狙った仕掛けを1話目として持ってきたことは挑戦的です。

がしかし、個人的には「本当はフェイクじゃないんじゃないか」というようなことはどうでもいいです。
それよりまず気になったのが、この動画そのものの作り――特に、終盤にあらわになる異様な歪みです。
ということで、以降ではこの歪みとそれについての考えを書いていこうと思います。

断絶する流れと不可解な意図

本エピソードはほぼ最後の最後になって、テレビ制作スタッフの死というビデオの「いわく」を語ります。ということは「見たら死ぬビデオ」はまさかホンモノなのでは――というのが素直な見方ではありますが。
ここでちょっと視点を変えてみましょう。この動画の妙な点はどこにあるでしょうか。動画というのはビデオの映像ではなくて、YouTubeにあがったこのQ1の動画のことです。

この動画の歪み、それは上記の通りビデオが"本物"だと示唆したそのほぼ直後に、やおら「これから問題のビデオを公開します」というテロップを出してビデオを流しだすところです。視聴者はラストに至って急に「見たら死ぬビデオ」の映像を全く無造作に見せられてしまいます。

Q1 / 15:00~

と、これだけなら怖がらせる演出だろうと思えるのですが、だとしたら変じゃないでしょうか。
これだけ仰々しく始まる「見たら死ぬビデオ」の映像は、そこまでの本編内で(画面内の画面という形ですが)すでにほぼ公開されているのですから。
ビデオ映像を見ること自体を警告したいなら、取材映像中でビデオが流される前の時点で警告していなければおかしいのではないでしょうか?

寺内監督もかつて手掛けた「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズ等でも動画の前に似たような「警告」を行う演出はあります。が、言ってしまえばそれは取材映像などで前フリをしたうえで「この映像は怖いよ、自信作だよ」と期待させるニュアンスを含んでいるものです。だから、とっくに見た映像に使う言い回しとは思いづらい。
ビデオの映っている部分をカットしたりモザイク処理をしたりと、最後まで勿体ぶることもできるはずなのに。

本作の持つ重大な歪みはこの不自然さにあると私は思います。それを表すように、ラストに至ってナレーションは突然なくなり、無機質なテロップでの進行に取って代わってしまいます。
さて、ここで動画が見せたいのはビデオ映像の明らかな異常、つまり見覚えのない遺影が増えている、という点だと考えることはできます。しかしこれについてはテロップすら一切の言及を行いません。
ここに来ると、親切に説明をしてくれていたナレーションが消えるとともに動画自体がまるで手触りの違うものに変化していることに気づきます。
普通のフェイクドキュメンタリー的な流れが突然断絶し、動画制作者の意図がわからない状況になる。視聴者は置き去りにされるわけです。

端的に言えば、Q1は最後の最後に至って視聴者を不安にさせる動画に変化します。1人分増えた遺影と、ディレクターとカメラマンのおかしな会話をどう捉えればいいのか。
どう捉えていいか分からない状況に置かれた人はしばしば悪い方向へ想像を働かせます。おかしなものを見た。これは本当に悪いものじゃないのか?ここに「フェイク」のゆらぎがあります。

このQ1の歪みを考えるには、こうした奇妙なつくり――それと、その裏から垣間見える動画制作者の作為を検討する必要があるでしょう。

Fake or False?

さて、本作には気になることが多すぎるのでちょっと突っ込んで考えてみましょう。
かなりの憶測とこじつけが交じるとは思うのですが、しばしお付き合い下さい。

まず取材映像を改めて見てみます。動画制作者の手が入った(ナレーション等の)部分は抜かして、です。
当然思うのが、この取材映像がひどく拍子抜けな内容だということです。当の「見たら死ぬビデオ」はあっさりと店長が持ってきてしまうし、「見たら死ぬ」と派手にポップが貼られている。それを平然と店頭で再生し店長と一緒に鑑賞、微妙にズレたやりとりの後にあっさり買取。お値段1万2千円。これではホラーどころかお笑い番組です。挙句の果てに、ビデオの真相は単なるイタズラと結論付けられてしまいます。これでは怖がらせようとしているとは思えませんね。
肝心の「見たら死ぬビデオ」のほうも、何とも昭和レトロな映像に時折遺影の画が挟まれるというだけで、フェイクドキュメンタリーのために作ったものと考えるとゆるい代物です。これではイタズラという方が納得感があるでしょう。
で、この映像を制作会社はフェイクドキュメンタリーだと断言しているといいます。しかし、フェイクドキュメンタリーとして考えると先述の通りストーリーが面白くない。たとえば、ビデオを見た人が作中で死ぬなどしない限りはかなり弱いのではないでしょうか。
こうしたことから「動画制作者が入手したとする映像」がフェイクドキュメンタリーであるというのがだんだん疑わしくなってきます。

ではフェイクではないとして、見ると死ぬビデオは本物なのでしょうか。それも判断できません。ビデオが本物だと仮定するなら、ビデオを複数回見ていることを示唆している店長の存在自体が反証になるためです。
このため「見たら死ぬビデオ」の実在を説明付けるには、ビデオには「死なない条件」があり、店長はそれを知っている……などの苦しい説明付けが必要になります。

さて、ここですこし話を戻して「スタッフの死まで含めないとフェイクドキュメンタリーとして弱い」という点に注意を向けてみます。すると、そもそも「ディレクターとカメラマンが死んだ」というのが、ナレーションとテロップでしか語られない真偽不明の情報でしかないことがわかります。

心不全とされるカメラマンはともかく、ディレクターは事故死したと語られています。それが事実なら、TV番組のディレクターという立場もありますし、ローカル新聞等に事故のニュース記事が掲載されている可能性は高いでしょう。あとは番組内でのお知らせがあったり、番組が休止した等の情報もありそうですね。
そうした客観的に判断できる材料は、動画内で一切提示されません。ですから――動画の言うことを無邪気に鵜呑みにしなければ――スタッフの死は単なる嘘である可能性も考えられます。

そうしたことを総合すると、この取材映像はフェイクドキュメンタリーでもなく、ホンモノの呪いの映像ですらなく、単につまらないからボツになった映像素材だという可能性まで浮上してしまいます。
つまり、「これはフェイクと言われているが、本当にフェイクなのか?」という問いかけ自体がフェイク同然のものに落ちてしまうのです。

とはいえ、これは憶測を超えるものではないため一旦ここまで。
ここまでの考えをより先に進める材料はないでしょうか?ということで、今度は肝心の「見たら死ぬビデオ」について考えてみましょう。

Whodunnit―誰が見るものを殺したか?

もちろん「見たら死ぬビデオ」について最大の問題となるのは、登場する遺影とその数です。ビデオ内で登場する遺影は次のとおり。

  • 遺影A-1(男性1) 

  • 遺影B(女性1) 

  • 遺影C(女性2) 

  • 遺影A-2(男性1。A-1と同一

  • 遺影D(男性2。取材映像内では確認できず)

もちろん問題になるのは、2回登場する遺影A-2と、動画の最後に「公開」されるビデオ内にのみ確認できる遺影Dの2つになります。
やはりビデオは本当に呪われた存在であり、ひとりでに遺影が増えたのだ……!とするのはあまりに早計なので、この遺影がなぜ増えたのかを考えてみます。
ということで、考えるべきは遺影の増えたタイミングと、それが何によって追加されたかです。

取材映像内では遺影Dが確認できず、また取材映像中でビデオが買い取られていることから、遺影Dの映像が追加されるタイミングはテレビ制作スタッフがビデオを買い取った後、このQ1の動画が公開されるまでの間のどこかのタイミングに限定されます。
では、いつどうやって追加されたのでしょうか?考えられる可能性について考えてみましょう。

1-超自然的な要因による追加

これだったら楽しいかも知れませんが、明確な根拠となるものは確認できません。
ここは消去法で、他の可能性が消去されたときのみこの説を取ることとします。シャーロック・ホームズの流儀です。
では次。

2-テレビ制作スタッフによる追加

この可能性はけして低いとは言えないでしょう。
理由は、スタッフがビデオの買取を行っていることです。
まず、この取材の結論自体は「子どものイタズラ」というさして面白くないものに落ち着いてしまいました。ひょっとすると、番組として放送に耐えるものにするには、もっとインパクトが必要になるかもしれないですね。
そこでスタッフはビデオに上書きを行い、「ビデオを後ほど確認したところ遺影が増えていた!」というオチをつけようとした、と考えられます。
この場合、もちろん借り物のビデオを上書きしては問題なので(今まで何度も上書きされているとは言え)、レンタルではなく買取が必須になります。
ディレクターが店長の言い値で12,000円もするレンタル落ちの中古VHSを買い取ったのは、こんな理由があったのです。

……がしかし、この考えには問題があります。
それは取材映像からわかる通り、ビデオの買取が店長から提案されたものであり、当初テレビ制作スタッフは借りると申し出ていることです。つまり、少なくとも借りることを申し出た時点ではまだディレクターは上書きを考えていないと考えられます。
店長にビデオの買取を提案されたことから上書きの実行を思いついた、という可能性はあるかもしれません。ところが、これにも否定材料があります。ディレクターとカメラマンの会話です。

取材終了後と思われる車内での会話(12:35〜)からすると、ディレクターは「イタズラ」という結論でまとめるつもりと判断できます。
車内でこの会話をした後に再度店内に戻りビデオを買い取り、その時に上書きを考えついた……とは時系列上考えづらく、ビデオ買取後の時点でもディレクターには上書きを行う考えがなかった、と判断するのが自然でしょう。

となると、残る可能性としてはどうなるでしょうか。番組が作られる過程も考慮して考えてみます。
取材映像は撮ったらそのまま放送できるものではなく、その前に制作会議にかけられるはずですね。そこで取材映像を放送するかどうかについて検討したが、「イタズラ」という結論では弱いのでボツとなった。そこで改めてビデオ映像が変化したというオチをつけることになった……ということが考えられるでしょうか。
いえいえ、それも考えにくい。この番組の会議でそんなことが決定された可能性は極めて低いのです。
番組として、わざわざそうしたホラーらしい/怖いオチをつけようという考えなかった、極めて単純な、そして最大の根拠となる理由があります。

彼らが作っているのはホラー番組ではないからです。

番組の調査内容の募集ページに記載のお題はホラー系に限っておらず、雰囲気もホラーらしいものではありません(0:43頃)。
こういう番組の視聴者が調査のオチの更にオチとして、不気味な「見たら死ぬビデオ」を見せられて喜ぶかというとそうとは限らないでしょう。どちらかというと苦情が殺到しそうなところです。
だから、番組としても「イタズラ」という結論のほうが都合がいいのです。その線をとったうえでなおウケそうにないと判断したなら――取材映像はボツになるだけなのです。

こうしたことから、番組スタッフにはわざわざビデオを上書きする動機が極めて弱いとわかると思います。また同時に、取材映像はボツになったものであるという可能性は高まります。

ということで、テレビ制作スタッフによる追加があった可能性は極めて低く、考えから除外しても問題ないでしょう。

つまり、

3-動画制作者による追加

この可能性が最も高くなります。

その理由は大きく3つあります。まず、大前提となるこの理由です。
①入手した「取材映像」は既存のものであるため、これ自体を大きく変えることが難しいこと
取材映像の内容、特に結末部分はホラードキュメンタリーとしては食い足りないものになってしまっています。しかし、ありものの取材映像を全くの別物にしてしまうことは困難です。
となると、ここからうまく怖い動画を作ろうとしたら、この取材映像をうまく利用するしかなくなります。

しかし、うまく利用するといってもどうすればいいのでしょう?
では、実際の取材映像の内容を考えてみましょう。そこに、残り2つの理由があります。

②取材映像内にビデオの映像が映っていたこと
店内で上映されたビデオは取材カメラにほぼ撮影されてしまっています。ビデオの映像は動画のラストに満を持して流したいと思いそうなところですが、ビデオの来歴についての店長との会話も並行して行われているため、この部分をカットしてしまうとビデオがどんなものかわからなくなってしまいます。
となるとビデオの方にはモザイクでもかけて、会話だけ見せるようにしてしまおうかと思うところですが、よくよく考えると、これは動画制作者の手の及ばない取材の時点でのビデオ映像がどんな内容だったかがはっきりと残されていたことになります。
つまり、取材映像は「ビデオが変化した」ということの証拠になってくれるのです。これが取材映像内のビデオ映像が残されていた理由だと考えられます。

③「遺影の数」についてディレクターとカメラマンの要領を得ない会話が収録されていたこと
「要領を得ない会話」というのはもちろんこれのことです。

(カメラマン)店長4人って言ってましたけど 3人しか…
【中略】
(ディレクター)4人?
(カメラマン)遺影の…なんか
(ディレクター)あれ4人じゃないの?
(カメラマン)いや…3人ってか3枚?

ディレクターとカメラマンの会話(字幕から抜粋)

これを聞くと、カメラマンとディレクターで違った数の遺影が見えていた(カメラマンが3人、店長とディレクターが4人)という妙な状況にも思えるかも知れません。では、店長はなんと言っていたでしょうか。

最初1つだった遺影が4つになって
面白がって次のやつ次のやつと誰かがダビングしたんじゃないか

店長の発言より

カメラマンの発言に反して、店長は「4人」とは言っていません。これ自体はカメラマンの勘違いと判断して問題ないでしょう。

前記の通り、取材映像内のビデオでは3種類の遺影が計4回出てきます。それは「4つ出てくる」とも「3つ出てくる」とも言えることですので、この微妙な食い違いは単なる言い回しのズレの問題に留まります。
しかし、それは実際の時系列(おそらくディレクターが店長からビデオを買い取った直後)にこの会話を聞いたなら、の話です。
実際にはこの会話は「変化したビデオ」の映像の後に挿入(=編集)されている。それが問題になります。

前述のとおり、取材映像が証拠として機能することで、ビデオの遺影の数が変化したことは強固な印象を持ってくれます。ですが、「遺影が増えた、ビデオが変化した」だけではダメです。なぜならそれは店長の語った中学生のイタズラと同じだからです。スタッフも同じイタズラをしたんだな、あほくさ。それでおしまい。
このため、「ディレクター・カメラマンの会話→ビデオ映像」という順番で編集されていたなら、2人が遺影が「3つ」「4つ」と微妙な事を言っていたために遺影を1枚増やそうと思いついた、という魂胆が見え見えになってしまいます。
それを回避するための方法が、この会話をビデオの映像の後に思わせぶりに編集するという細工なのです。

動画を見る視聴者の目線で考えてみましょう。
動画のラスト、突然現れたビデオ映像を見て「ビデオが変化した、遺影が増えた」と視聴者は印象付けられました。これは不可解なことです。だから、視聴者は説明を欲しがります。
そこに挿入される2人の会話は、その説明として機能するのです。
すなわち、「4人じゃないの」と言ったディレクターはたった今見たばかりの遺影Dが登場するビデオ映像を見ていたのだと仄めかす――つまり、「ビデオが変化した」という印象をこの「説明」によりさらに上書きし、「取材の時点で遺影は3つ見えたり4つ見えたりしていた=ビデオは上書きしなくても変化する」というものに更新する。

かくして、視聴者にはこの「見たら死ぬビデオ」は超常的な存在なのだと印象付けられるのです。
そのように、視聴者の解釈=思考を誘導するという操りの仕掛けを構築するために、この会話はビデオ映像のあとに置かれなければならなかったのです。

ここまで考えれば、突然ナレーションが消失しテロップが「見ると死ぬビデオ」を見せてくる不可解な終盤の編集も納得が行きます。不可解に見せること自体が目的なのです。不可解な見せ方をすれば視聴者は説明を欲しがり、ディレクターとカメラマンの奇妙な会話を説明として受け入れやすくなる。そうした思考の操りの一環として、こうした唐突さ、不可解さが必要だったのです。

こうした工夫をしておけばさまざまな憶測を呼び、「遺影の数が見るものによって異なる」とか「4枚目の遺影が見えた者は死ぬ」といったわけの分からない支離滅裂な想像までしてくれるかもしれませんね。
すなわち、子どものイタズラと同じようにビデオの上書きを行い、取材映像をうまく工夫して編集するだけで、この動画自体を「見ると死ぬビデオ」に仕立て上げることができるのです。

とはいえ、なんでわざわざそんなことをするのか?という疑問が発生します。わざわざそんな迂遠なことをして、見る人を怖がらせるようなことをどうしてするのか。
そこにはもう一つの極めて単純な、そして最大の根拠となる理由があります。

彼らが作っているのはホラー動画だからです。

知られざる呪いのビデオの世界

そう、このフェイクドキュメンタリーQ / Q1はホラー動画なのでした。
ホラー動画の視聴者は怖いものが見たいから動画を見る。見たら死ぬかもしれないと暗示されるものでも、苦情など入れないでしょう。得体のしれない異様なものを見せられているのに、おかしなことに喜んでくれるでしょう。
だから、最後の「遺影が4種類登場する、見たら死ぬビデオ」を視聴者に見せて、怖がらせるため。そのためにこの動画は巧妙な工作の上に作られているのです。

……と、上記はあまりに穿った見方ですね。もっと素直に見ればいいのに。
ただ、こんなふうに動画制作者による作為の存在を疑ってしまうのにはある程度理由があります。
なぜなら、理解を超えた作為を施してわざわざ人を怖がらせるためだけの映像を作り上げるといったホラードキュメンタリー作家(即ち「心霊ディレクターと云うもの」)というある種の歪みを孕んだ存在を鋭く捉えた目線が、寺内監督の「心霊マスターテープ」でもはっきりとテーマとして扱われているからです。

(以下「心霊マスターテープ」の内容を予見させる内容があります。未見の方はご注意ください)
「心霊マスターテープ」で表れる怪物は、心霊映像の制作という行為に取り憑かれた存在の狂気に由来するものです。ですがその狂気は「もっと怖いものを」制作し続ける心霊ディレクターという存在と通底するものでもあり、つまり彼らは本質的にさほど違った存在ではないわけで、だから幕切れでそちら側に取り込まれてしまう者が表れるというのは、ある意味当然の事でもあるわけです。
つまり、「心霊マスターテープ」のバケモノは、いわば心霊ディレクターそのものの延長線上にいる何か、または怖い動画を作りたいという意思そのものとも言えます。
この心霊ディレクター観を、同じく寺内監督の手掛ける本作にも適用するなら――わざわざ異様な動画を作る、姿のほとんど見えない動画制作者、という得体のしれない存在が存在感を持って浮上してくるわけです。

最後に: 今後のスタンスとして

……と、Q1から勝手に推理を暴走させた挙げ句に「心霊マスターテープ」との連関まで勝手に見いだしてしまうという、我ながら驚く開幕となりました。感想を書き出したときはこんなつもりじゃなかったんですけど。
ともかくこのQ1を考えていくに、本シリーズ全体に対しても「動画制作者の作為の介在」といったものの介在を無視することはできないというのが私の雑感です。

以降のシリーズにおいてもこうした観点をひとつの重大な要素として念頭に置いて見ていかざるを得ない、のではないかと思います。なんかややこしいことを始めてしまった気がする_(◜ᴗ◝ )_……

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