日記

 どうも、noteで日記を書く人です。
 既に読む気をなくした方もおられることでしょう。さて、忘れないうちに書きたいことを列挙。

①最近、ツイートやめてた
②制作を唯一の価値とする生き方はサスティナブルでない
③感情をアウトプットすることは、訓練という意味では悪くない
④終わった状態や結果を得ることだけに重きを置いてしまって、過程を楽しめないことが根底にある

 このようなテーマでお送りいたします。雑に言えば自分語りなので、「自分語りだなぁ」と思って読んでいただくことになります。
 私は文章を書くのが億劫になるタイプなので、これはリハビリです。起こったこと、考えたことを文字にする、これまで自分語りはリスクでしかないなと思って避けてきたことです。

①最近ツイートやめてた

 震災とか、戦争とかあると、ソーシャルネットワークをやめてしまうのですよ、何かこわいから。それで、自分に落ち込むことがあると、似たようにやめちゃう。

 9月に自作マダミスのテストプレイしまして、それが非常に不評だった。とても落ち込んだ。でも10月には対面でもう一回テスプがあったので、それに向けては準備した。その間も結構つらかった。
 非常にシンプルに、自分の作るものはあまり面白くねーな、と自分で思った。テストプレイでフィードバックされたものが、すべてその通りだと思った。数か月間、一人で孤独に作業していたから、「こんなに頑張ったんだからきっといい作品になったでしょ」と気付かずに思っていた。
 本当に、気付かず思っていた。頑張ればいいものができるなんて、そんな事実に有意性は1ミリもない、多分。そういうこと考えないタイプだと思っていたのに、考えてたことがショックだった。そういうリスク管理は、そういうストレス耐性は強い方だと思ってた。いつも傷つかないように動くのが得意だと思っていたので、そうではないと分かったことがショックだった。
 そして今文字にして思った。自分は何で落ち込んでいたか理解した。あーなるほどね。

 で、10月の対面テスプも、(9月程じゃなかったけど)いまいちだった。でも、いい感想もいただいたので、ちゃんと受け止めて直さないと。

 それから、1か月ちょっと、制作をやめてみた。
 まあ、特に何も変わらなかった。仕事に充てられる時間が増えたので、残業が増えて、給与が増えた、それくらい(単に忙しい月だった)。
 やめれば「制作やりてぇ~」みたいのが戻ってくるのを期待したけど、全く以ってなかったね。やっぱり制作やりたくてやってる人には勝てないとも実感した。

 マダミス自体も、なんか楽しいんだか、楽しくないんだか分からなくなった。というか基本、楽しくはない。ただ、たまに上振れしてめちゃくちゃ楽しい。この前遊んだ『魔笛伝説殺人事件』はめちゃくちゃ楽しかった。休憩入るたびに、おもろ、って言ってた。

 とりあえず、今作っているマダミスは、区切りを付けたいとは思っていて、作業もだいたい終わった。ただ、次どうするか。とにかくつらい。作りたい物語もない。
 僕は多分、あまり人が好きではない。別に嫌いではない。ただ、大して好きでもない。そのことに申し訳なさと劣等感と、狡猾さを感じる。そんな人間には、人間の物語が描けない気がする。多分、興味が持ててない。何というか、人の物語に。

 ここまで、思った以上に言葉がすらすら出てきた。驚きだ。次行きますか。

②制作を唯一の価値とする生き方はサスティナブルでない

 はい。
 いつからか、『死んだ後に残るもの』に価値があるように思い、それ以外に価値がないと考え始めた。極端だ。
 メンヘラ界の巨匠であるゴッホとか、まさに僕の最も憧れる人の一人で、死ぬまでに非常に多くの作品を遺した。憧れる。

 この生き方を、普通のひとが目指すとどうなるか。シンプルにしんどい。人は誰しも才能がない、何を以って才能かは諸説あるのでここでは語らないが、100人に一人の才能を持つ人は1%しかいない。何も述べていないけど、まあこれが当たり前で、才能溢れる人に憧れて、ゴッホちゃんに憧れて、安藤忠雄に憧れて、hideに憧れて、TKに憧れて、Vaundyに憧れて、って生き方はしんどい。
 みんな、何者でもない自分とどう折り合いをつけて生きているのだろう。これも衣食住に不自由なく暮らす人の贅沢な悩みなのかもしれないけど。子どもを持たない選択をしたからだろうか。

 何かを生み出さないと価値がない、と決めつけて生きるのは、持続可能性がない。次行きましょうか。

③感情をアウトプットすることは、訓練という意味では悪くない

 久しぶりにnote書こうかなと思った理由がこれ。冒頭述べました通り、ソーシャルネットワークの自分語りリスクはデカい。ずっと避けてきた。昔はよく死にたいと言っていたが、これも照れ隠しみたいな感じで死にたいと言っていた。今は死ぬのが怖すぎて、よく自分の叫び声で起きる。睡眠外来に行こうと思いつつ、面倒で行けてない。

 気が回らないが故に嫌われる人の記事が、最近は特に気になってしまう。育児とか。他人事ではないと思う。
 感情が分からないことは、感情のアウトプットを怠ってきた、怠けていたことの付けが回ってきたような気もする。感情なんてただの化学反応だろと甘く見ていた。感情は大事よね。

 男性として歳をとると、本当に何の感情も抱かずに生きていけてしまう。これは恵まれているとは思うが、男社会の職場で、皆面倒ごとを避け、適度に従順に、適度に反発していると、本当に機械的に暮らせてしまう。これはこわいことだ。喜怒哀楽の前半の方(喜怒らへん)がマジでない。

 だからこれは訓練、というお話。次。

④終わった状態や結果を得ることだけに重きを置いてしまって、過程を楽しめないことが根底にある

 分かる~自分で書いて、分かる~ってなってる。
 結果だけしか価値ないぜ、みたいな考えがカッコいいと思っちゃうんですよね。
 映画を観てても、早く終わんないかなと思う。マダミス遊んでても、早く解説行かないかなと思う。人生で一番好きなライブの最中でさえ、ふとした瞬間にこの考えが浮かんじゃう。早く終わんないかなって。
 映画観終わった状態、マダミス遊び終わった状態、ライブ体験した状態を得ることをなぜか重視しちゃって、その過程を楽しめない。制作もそうだし、思い返せば、学校とかの行事を楽しめなかったのも、これかな、それはさすがに違うか。

 結果を求め過ぎなんですかね、意味とか。進撃の巨人オタクなので、進撃の巨人の話しちゃいますが、アルミンが最後の方でジークに言った台詞が、大事なんだろうね(進撃アニメ完結、めっちゃよかった)。

 過程を楽しめないと、いつまでも制作はつらいままだろうな。そして、制作楽しい~で作ってる人には絶対に勝てない。過程であったり、イベントごとの間にある生活を楽しめないと。生活はできそう?


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