見出し画像

ill bone

ふたりを繋ぐ 秘密の光
あの日見つけた 秘密の光
恋の瞬間 時は止まって
時間はスローリーに 恋の光線

二〇ニ三年十二月十五日、私は六日ぶりに七時に起床したにも関わらず、普段と同じようにつくば市立図書館の三つごとに分けられたくすみきった青色のベンチに座って、小説を読んでいた。しかし本来大学生が読んでいるのは何の類の本だろう、今手に持っているこれが観光雑誌であるならそれはウェルベックの小説の主人公のようで、というか雑誌は僕は実際ほとんど読まないのであり、はたまた詩集であるならと考えてそれは日比野コレコの小説に出てくる主人公の女子高生だろうとも考えてページをめくる手が止まる。結局大学生の僕が平日の昼間から人生をリタイアしたご老体に交じってふんぞり返って読んでいられるのは小説だけだと気が付いた。僕はいつもそうで、若々しい肉体で社会的にカモフラージュされているものの、中味は時代の変化に置いて行かれるかそうでないかと言うところで恐怖を感じている中年男性ということになる。そうしてしばらく経つと老人のシミュラクラの前に本物の老人が現れる。老婆はオレンジページを小脇に抱え、白髪の縮れ毛に、深く刻まれていながら悲壮感をまるで感じさせない皺をたたえて目の前の席に座る。再び視線を自分の手元に戻しながら本の続きを読み始めた。

僕達人類には、懺悔がしたいのか自己顕示がしたいのかよくわからない感情が往々にして存在する。コンプレックスとの戦いだった実家の福島への帰省もこれでひと段落付き、明日から自分で生活を立て直さなくてはならない。飲みに出かけて夜1時に中学校に着き話し込んでいると同級生がやって来て、話の流れで学歴の話が出たが本当に僕にとって大事だったのはその内容ではなくて親のような庇護者からの自立した自由だということが分かった。コンプレックスとは無気力と自治への欲望がもたらすアンビバレンスによって存在する。わざわざ郡山まで出かけて行って小説をニ冊しか買わないのは大変にむなしい。帰省する直前、私は一年ぶりに映画館に行って一本のアニメ映画に心を突き動かされた。然るに、時を現在に戻して、この時私はパンフレットを手に入れるために、郡山駅前から商店街大通りを抜けるとたどり着く百貨店の九階にある本屋に居た。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』の書棚のすぐ隣に、ショーンコネリーとかいった名前の人が著者の『失われた者たちの本』があった。帯に「宮崎駿氏推薦」とあり、今回の作品のモデルとなった話が掲載されているようだ。どちらを買うか迷ったが、思い返してみると私はいつも心を動かされた作品について、作者の思考をたどりたくてその背景にあるもののことしか考えていないことが分かったので、表象としてというより記号としての作品を重んじることに決め、感動した作品のタイトルを拝借されている方を購入したわけである。そのあとは何も考えずに駅前のマクドナルドでコーヒーを飲んで過ごし、しばらく経つともう帰ろうと思ったのでコーヒーの残りを捨てて店を出て、十五時三十五分発の電車に乗った。無気力でいる期間が長すぎてその原因を内に求めているのか外に求めているのかわからずにいる。

とりあえずcanonのデジタルカメラを実家から持ってきたので、創作への足掛かりとしたい。このカメラは二〇○七年製の七・一メガピクセルの骨董品で、僕のアパートに持ってくる過程でバッテリー口を閉じておくゴムの栓がバラバラに砕け散ってしまっていた。撮影には問題が無かったので、そのまま電源を入れて夜景を撮ることにした。光が縦の線となって、まるで旧約聖書における塩の柱、新世紀エヴァンゲリオンに登場する使徒の殲滅光景のようであった。平成初期の動画の質感を出したいと考えて何度かシチュエーションを変えて撮ってみた結果、最もうつりが良くノスタルジアも感じさせるのは雲一つない青空の下を散歩しているときだと分かるのだった。

生存の危険や生きるための努力義務から離れすぎると、しばらく感じることが無かった、小学生の頃に感じていた痛みへの恐怖が頭をもたげ始める。膝が逆に曲がる妄想が私の睡眠時間を増加させていき、鋭敏な現実感覚を失わせる。

『闘争領域の拡大』が一般に暗い物語だと解釈されているらしい、ということをインターネットを徘徊している際に知った。全く解せない点は、これが小説的要素としてその顛末が語られていると解釈されている点で、しかしわれわれからすれば真逆で、この小説に書かれているティスランという男の顛末は小説的要素を排した極めて現実的なものとして描写されている。この点において、私はこの作品を暗い作品だとは全く思わない。この小説に書いてあるのは悲嘆などではなく極めて現実と似通っている我々が置かれた状況であり、現実を直視させるだけである。私はこの本を通してウェルベックはなんて誠実なのだろうと思う。悲しきかな現実社会において、弱者男性がなぜよわいかという説明の部分は極めて巧妙に秘匿されている。現在の状況として弱者男性はただ強者への進化を求められるだけで、そのままの自己を肯定されることはない。これは社会がお題目のように推し進めているダイバーシティ政策と真っ向から対立する概念であるにもかかわらず、性的アクセスに乏しい男性に対するさらなる差別だけは正当化されている。黒人がなぜ差別を受けていたかを語れる歴史学者で今はその歴史を愚かしいと断定することができる黒人の歴史学者が一方では平然と黄色人種を差別するのと同じ論理である。

翌日の朝はいつも通り遅い起床だった。起床してすぐ3限に行ったが、目の前の女が教授が喋っているにもかかわらず無駄話ばかりするのでどんな奴だろうと思っていたら開いたPCから成績に加入される小テストの結果がすべて満点であったので、よほど容量が良いかそうでなければ他人の力だろうと考え、打ちひしがれた。

世界が徹底して私がその本質に触れていこうとするのを、薄い膜で妨害する。『ランサローテ島』のような突発的で残忍な性行為など僕の下には決して訪れないだろう。

私は自分の文章に羞恥がある。たとえどんなに高尚なことを書いていても、低俗なことを書いていても、語彙が豊富でも貧弱でも、長くても短くても、そのすべてに羞恥を覚える。例外として「いっぱいセックスしたよ」といった非常に短い文なら恥じずに書ける。書いている途中の恥と書き終わって読み返したときの恥とニ種類ある。書き終わったときに感じる恥はきれいさっぱり消し去ってしまいたい衝動にかられる。書いている途中に感じる恥はさらに厄介で、そのことについて自分が語るのを止めてしまわせる力がある。これが限界まで進行した結果として小説に書くことが無くなってしまう。なので、僕は宮村に言われた手法で小説を記録していこうと思う。

宮村さんは僕の大学の先輩で同じバイト先に属している4年の先輩だった。今現在は何をしているかと言うと、紆余曲折あったが、死んだ。なので新しく僕が書いた小説を読んでもらえないし、指南もしてもらえない。しかし、彼は逝く前に、僕にたった一つ重要なことを教えてくれた。それを語られたのはバイト終わり公園前のベンチで二人で煙草を吸っていた時だった。「まず自分の好きなことがいい。これだったら書けるということを好きなだけ書けばいい、それからそれの内容を細かく裁断する、酷いときは、それが少しでも違う内容なら、一,ニ文ずつちぎるでもいい。そうしたら、適当に裏返してごちゃ混ぜにし、それらを拾い上げた順に構成してそれを小説とすればいい。そうすれば、君のような読者は、さも意味ありげに読んでくれる。」そう言い終えると、彼は僕の方を振り返ることなくそのまま来たバスに乗り込み、僕とはもう二度と会わなかった。彼が過去に小説を書いたことがあったのか、僕には分からなかった。その日の夜に、彼が自殺したという話を聴かされた。次の日、僕は同じ職場の人間ということで警察に取り調べを受けた。僕は全ての質問に対して正確に答えた、と思う。僕はその場では、彼が死んだ日に考えていたことはおくびも口に出さなかった。別に彼の死に対して憤りは抱かなかった。彼は時代が悪かったのか自分が悪かったのか、そうでしかない。ただ、僕が現在も苦しみ、のどをかきむしって悶えているような悲惨な現実があっただけだ。

 金曜日には大学の英語の授業でグループディスカッションを行った。将来の田園都市の展望について英語で話し合い、出た意見を順に発表していく授業だった。グループは一つにつき五人いて僕の班は僕と青シャツの女性はおそらく一人、他三人の男性は知り合いであるらしかった。同じグループの三人の中に吉田がいた。彼は僕の知り合いでこれまであまり会話はなかったが確かダンスサークルに属していた。教授の長ったらしい説明が終わり、十五分の対話の時間になった。開口一番彼女は日本語で話した。他の班員も教授の「英語で行うように」と言っていた指示は無視して、日本語で相槌を合わせた。僕は黒人のTAが会話を聴いて、日本語を使うことをやめさせ英語での会話を促進しようと歩いてくるのが見えたのでとっさに彼女に英語で言った。
 
「別にあなたが生活を構築しているなら僕は干渉しません。ただ、あなたが少しでも日々がうまくいっていないという自負があるのなら、僕はあなたと話をしたい。」
 
彼女は困ったような表情で愛想笑いをし、吉田が話題を切り上げて時間切れとなった。それから授業が終わるまでもう一度も誰も会話をしなかった。班の全員が帰った後、教授が退出しようかというところで僕はすでに理解していることについて質問をした。先生は丁寧に解説してくれた。僕はゴミのようになっても、まだ自分を守りたい気持ちだけは残っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?