【借りものたちのメッセージ】 第3編 「変わるときに」:後編(No.0196)


前編の続き


そしてその話は、これから成虫へと変わっていくこのときになって初めて役に立ったのだ。いや、ようやく理解できるようになってきたのだ。


私は、いつもよりもずっと深いところにまで穴を掘り就寝の準備をした。

なぜだか分からないが不思議とそうしたかったのだ。
土に包まり静かに目を閉じると、これまでとは違う感覚に襲われた。


これまでの私の生活を支えてきた身体に生える沢山の足や産毛の感覚がボンヤリとしたものになってきたのだ。
ここから感じる事が私の全てだったのに、今この感覚がどんどん弱っていくのを感じている。


そして身体も丸まった状態から徐々に動きが取れなくなってきた。
私は恐怖を感じていたが、その恐怖を遥かに凌ぐほどの強烈な眠気が私の藻掻きを封じていた。


やがて私の意識は、その長い身体に沢山生えたものから、全く別のところに移動していった。


不思議な感覚だった。
おかしなことにその感覚が強くなるごとに、私はあれだけ頼りにしていた身体の足や産毛に対するこだわりや関心が薄くなっていったのだ。


私は昨日まで、この足やアゴや産毛に愛情を注いでいた。私の足やアゴは友人のそれよりも長く強かった。穴を掘るのが誰よりも早く上手かったのだ。
それに私はおが屑の味は大好きだった。あの食べごたえは忘れられない。
父から樹液をもらったとき、私は嫌だったのだ。
大人になると、こんなものしか食べられないのか、もうおが屑を噛む感触を味わえないのか、とガッカリしたのだ。


私は密かな夢を抱いていた。
それは、幼虫のままで大人になることだった。
しかし誰に聞いてもそんなものはいなかったし、あまり共感もしてもらえなかった。


それでも頑張ればなれるのではないか、そう考えていた私は人一倍穴掘りを練習して強い足やアゴを手に入れたのだ。


−良い幼虫であれば、きっとそのままで許されるのではないか?


私はそんな勝手な思いを胸に秘めていたのだ。


だがしかし、そんな私が今、それらの大切なものに対するこだわりも愛情も、薄れ始めているのだ。


それは恐怖である。
この私の大切な足やアゴや産毛が失われてしまったら、一体この私はなんなのだろう?
もう何者でもない。
私が行動したり考えたり幸福を感じてきたこれらのものが、今この私から離れようとしてる。


一体これを失って、私は私でいられるのだろうか?
私は思わず恐ろしさに身体をのけ反らせ逃げ出そうとした。
しかしもう身体は殆ど動かなかった。足も産毛もまるで麻痺したかのようになっていた。
今までの私の感覚は松の木の枝のように、外へ細かく広がっていたのだが、今の私の感覚は外への広がりが絶たれ棒状にまとめられたようだった。


だが、こうして無数にあった外への鋭敏な感覚が失われ、かつてない眠気が重なり合うと、私の意識はたった一つのものに集中していくような気分になってきた。
自分をどこか身体から離れたところから見ているような、自分だけど他人を見ているような感じであった。落ち着き払って、とても安心した感じであった。


私が自分の意識の変化に気づいたときには、もう身体の感覚は何も残っていなかった。


私のあの繊細な産毛、柔らかな皮膚、長い足、強いアゴ・・・


もうこれらからは何の感覚も反応も来なかった。あるのはたったひとつの気持ちだけだった。

同時にさっきまでの恐怖も無くなっていた。


今の私には外からの、身体からの感覚は無く、しかしそれ故にその反応への対処も不要になっていた。


そして不要になってみて初めて、実はそれらが私にとって大変な負担であったことがわかったのだ。


何故なら、今この瞬間、私はかつてない安らぎを得ているからである。


さっきまでの強烈な眠気は知らぬ間に安らぎへと変わっていた。
押し付けられるようなさっきまでの眠気は、起きようとして藻掻く事を辞めたときに安らぎへと変わっていったのだ。
それは身体の感覚が失われるのと同時であった。


身体から無数の連絡が常にやってくる生活やこだわりが、実はどれほど大変で不毛であったのかが今の私には分かるようになってきた。


ほんの僅かな足の長さが、一体何だというのだろうか?
穴掘りの速さがどうしたというのか?
小石や砂利が身体に触れるたびに、産毛が外敵からの攻撃ではないのか?と警戒を促し、それに怯えて身体をよじらせる生活・・・


今私にあるこの安らぎの時間は、どんなに心地の良い土の中であっても、幼虫の頃には決して得られないものであった。
ひとつの感覚、ひとつの気持ちにまとめられた私は、変化への恐怖から離れ、感謝への想いに近づいていた。




知らなかったこと 知らなかったから こだわっていたこと

そこで止まっていた そこで終わっていた あきらめていた


別れがきた 辛い別れが 苦しみの別れ 流れる涙は 本物のはず

別れて 離されて 失って気づくのは 心の軽さ 新たな機会


失う勇気は自分には無く 離す痛みはしがみつく力に

一緒に沈んでいく それは柱ではなく 錨


この機会は この勇気は 内からでなく 外からのもの

必要なものは 外からきた 必要なものは 受け入れる素直さ


大切なものが 内から湧いてきた 大切なものへの 感謝の気持ちが
 




【借りものたちのメッセージ】 第3編


「変わるときに」


おわり


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