【グッドプラン・フロム・イメージスペース】 「懐かしいお引越し」 (No.0201)



僕が子供の頃はなかなか大変だったようだ。


僕の生まれた頃に父が逮捕されてしまい、母は小学生の姉と赤子の僕を一人で抱えることになってしまったのだという。


父は心に芯のある人であることは、出所後から去年までの生活で僕にもわかっている。母と姉はこの件に関しては殆ど話題に出さないので、僕は結局詳しい事情は直接聞くことはできなかった。もちろん父も話してはくれなかった。どうやら母と小学生の頃の姉は、赤子だった僕を囲みながら、


ーーこの子には、余計な心配をさせたくない。


と、暗に誓いあったようだった。姉は年頃に相応しい振る舞いは全て我慢して青春を過ごしたようだった。思い出しても姉が小綺麗な服で着飾ったり、母に何かをねだったり、テレビに齧りついてアイドルに熱を上げたりという姿は記憶がなかった。いつだって気を強く持って浮かれた素振りのない、傍目からは細長くて愛嬌のないバカ真面目な学生と受け取られていただろう。人からそう見られていたことは本人も当然知っていたに違いない。


僕が幼稚園の頃には父は出所していたが、年に1,2度しか会えなかった。どうやら出稼ぎに出ているようで家族が4人で暮らせるようになるにはそれから更に4年の時間が必要だった。


姉は中学卒業後、進学はしなかった。一日の半分をアルバイトに、そして残りの時間は家のことに費やしていた。
卒業後も姉は中学時代のジャージを家でも外でも着ていた。

家にいる姉は家事以外を勉強にあてていた。小学生の僕は、姉が学校に行かないのを不思議に思っていたが、なんとなくそのことは聞けなかった。学校に行ってない姉が、学校に行っている僕よりも一生懸命に机に向かって勉強している姿が理解出来なかったのだが、あの真剣な顔つきを見たら弟の僕でも軽口は聞けなくなった。


その後、父が家に帰ってきた。家と言っても狭く日差しの届かないボロアパートだ。だが、一時的な帰宅ではなく父は家族と一緒に暮らせるようになった。
精悍な身体つきで黒く日焼けした父は、会うたびに髪が白くなっていき顔が痩せたが、見た目の厳つさと違い、とても良く家族と話をした。


年に1、2度しか帰宅出来なかった頃も、疲れを癒やしたい筈なのに、母や姉、そして僕に滞在中ずっと話しかけ続けた。
軽薄なおしゃべりではなく、心のこもったまっすぐな言葉を交わしてくれた。聞いたことは何でも答えてくれた。ときにしばらく考えこみ、話の腰が折れたとしても、その場のノリで受け流すことなんて一度もしなかった。


父がいるときは姉の態度も随分違った。
普段の姉はいつも何かに耐えるように気を張った顔をしていたが、父が帰宅している間は年齢に相応しい顔つきと振る舞いになった。


一度、まだ出稼ぎでなかなか会えなかった頃、父の帰宅が姉の誕生日近くだったことがあった。その時は父がケーキを持って帰ってきた。


その日に姉の誕生日会を家族でおこなった。誕生日自体は少し先だったが、急にその日に開くことになったので、母は慌てて買い出しにいった。父は僕も母について行って買い物を手伝うようにと言ったので僕も一緒に出かけた。
近くの商店に着いたとき、母は僕に献立をどうするか尋ねたので僕はすき焼きが良いと答えた。


買い出しが終わりお店を出ると、ちょうど向かいに写真屋さんがあった。僕はそれを見て母にカメラを買っていこうと言った。
母は僕の言葉の意味が一瞬わからず戸惑ったが、その頃よくテレビのCMでやっていた使い捨てカメラのことだと気づき、お店に寄った。


家に帰るとベランダで父と姉は話をしていた。母と僕の帰宅するのを見るなり、姉は何やら抱えて自室へ足早に去った。不自然に思ったが、それよりも夕飯をすき焼きにすることを父に教えたくて、僕はすぐに父へ駆け寄り報告をした。父は喜んでくれた。
食事の間も、僕はみんなが美味しそうにしている姿を見ては、まるで自分の手柄のように思って誇らしかった。


ケーキやすき焼きを囲む僕らの姿を、みんなで代わる代わる使い捨てカメラで撮った。難しかったが父が手を伸ばして四人が収まる写真も撮った。
そのときの写真を見ると、姉は目を赤くしているのがわかる。

次の日、姉が履いていたスニーカーが新しくなっていた。それまでのボロい地味なものでなく、真新しいオシャレなものだった。僕は父からのプレゼントだったのだなぁとすぐに気づいた。
正直僕も羨ましかったが、昨夜の姉の嬉しそうな顔を思い出すとワガママなんて言う気は消え失せた。

そんなこともあったあと、やっと父が家族と一緒に暮らせるようになったのだ。

しかしゆっくりはしなかった。
父が帰ってきてすぐに引っ越しが決まったからだ。

これは父と母が以前から決めていたことらしかった。
引越し先まではまだ決めていなかったが、これまで住んできたこの街やこのアパートからすぐにでも去らねばならないという父の意思は非常に強かった。

その意見には母も姉も、そして僕も同意だった。

僕はそれほどでもなかったものの、母や姉は随分な苦労があったようだった。
特に姉は年頃でありながら、まともな私服もなく友達の付き合いも少なかった。父が収監されたことだって同級生などに知られていたことだろうから、この街から出ることは大きな意味があった。母にも同様に。


でもそれほど強い意志でありながらも引越し先までは決めていないのはなぜなのかわからず、僕は父に聞いてみた。
すると父は、姉や僕の意見も取り入れるためだと言った。父らしかった。

父はとても力強い人だったし、家族はみんな父を尊敬していた。でも当の父はそれを傘に着て自分の意見を押し付けるような事は決してしなかった。

姉は引越し先の意見として、もっと都心に近いところか、図書館が大きく充実していてすぐに通えるところ、もしくは田舎でもいいので部屋の多い庭のある大きな家が良いと言った。
僕は犬が飼いたいと言った。


一ヶ月後に引越し先が決まった。田舎だが海も近くにある一軒家だった。

引っ越しをすぐに始めた。父が借りてきた大きなトラックに荷物を載せた。
あれだけ長く生活をしてきたのに、トラックに乗せた荷物は家具を入れても僅かで、荷台が寂しいくらいだった。
荷物を積み終わり、僕はアパートの方を振り返った。ドアの空いた部屋はがらんどうで、改めてその狭さに気付かされた。


ーーこんなところにずっといたんだ。


僕は、生まれてからずっと生活をしていたその部屋と、アパートの外観をぐるりと見渡した。


ーーなんて小さいんだろう。


引越し先が決まるまでのあいだ、僕はこのアパートから出ることに少し不安があった。
ずっとここでいいじゃないか、と思ったときもあった。

だが、こうしていざ引っ越しが現実になると、こんなところからいち早く抜け出したいという気持ちにしかならなかった。

父と母はたくさんのゴミ袋を部屋から玄関に出して、僕にゴミ捨て場へ持っていくように言った。
荷物は少なく見えたが、ゴミは大変な量があった。ゴミ置き場が我が家のゴミで半分埋まってしまった。


すべての確認を終えた父はトラックに乗りエンジンをかけた。
後部席もあるトラックの後ろは母がすでに座っていた。僕は助手席とどっちがいいか迷っていると、後ろから姉がやってきて助手席を譲ってくれた。

僕は助手席の見晴らしが良いことを喜び、姉に感謝を伝えようと振り返った。すると後部座席の姉はクシャクシャのビニール袋を大事そうに抱えていた。

僕がそれは何かと尋ねると、姉は中身を出して見せてくれた。


それはボロボロのスニーカーだった。


それは昔、父が誕生日プレゼントに買ってくれたスニーカーだった。
履きつぶしたスニーカーだが、姉は大事にとっていたのだ。
姉は嬉しそうにそのことを僕に話してくれたが、運転席で聞いていた父は振り返り姉に言った。


「それはここに捨てていきなさい。」


姉は驚いた。
僕も驚いたが姉はもっと驚き強く首を横に振り、珍しく感情的に拒絶をした。

母は娘のその姿に悲しい表情を見せ、父と姉を交互に見ていた。
しかし、父は意見を変えなかった。


「娘よ、そして息子よ聞きなさい。」


父はエンジンを切って言った。


「これから私達は新しい生活をする。それはこれまでみんながとても苦労してきたことから解放されることを意味するんだ。その新しい家、新しい生活がこれからの私達全員の基準になるんだ。いいか、そこが基準だ。それを心に留めてほしい。理解しなければいけないんだ。娘よ、君はそこがわかっていないんだ。君の心がまだこの古びたアパートにある。まだここでの生活に気持ちが置かれているんだ。君は特に辛い思いをした。だから心がこの街から離れられないんだ。良く分かるよ。君のせいじゃない。でもね、もう終わったんだ。それはもう終わった。これからはこの生活が基準ではなく、もっと素晴らしい生活が君の、私達の人生の基準になるんだよ。だからそのスニーカーは捨てなさい。それがあると君の心は事あるごとにこの街に引き戻されてしまうんだよ。それにそのスニーカーを君にあげたのはこの父さんじゃないか? なら古いスニーカーを大事にするんじゃなくて、父さんを大事にして欲しいな。そうだろ?」


姉は父の言葉を聞きながら、声を殺して泣いていた。眼を固くつぶりながら嗚咽とともに父の言葉ひとつひとつに激しく首を縦に振り続けていた。


母に背や肩を抱かれ撫でられていた姉はやがて涙を拭い、トラックを降りてゴミ捨て場へ向かった。

だだ広いフロントガラス越しに、姉がゴミ捨て場へ向かう姿が見えた。
姉はゴミ捨て場にかかるネットをめくり、山になったゴミ袋としばし向き合ったあと、お供え物をするかのように抱えていたビニール袋を置いてネットを掛け直した。


トラックへ戻った姉はドアを閉じて言った。


「進みましょう、お父さん。」


瞳を赤くした姉の顔に見えるのはこれまでに積み上げたレンガのような労苦ではなく真新しいウールのセーターのような信頼の置ける希望だけだった。


【グッドプラン・フロム・イメージスペース】


「懐かしいお引越し」(No.0201)


おわり


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