禍話リライト「ドアスコープの向こう」
A子さんが以前住んでいた部屋での出来事だ。
職場に近い素敵な部屋で新しい生活を始めるはずだったのだが、唯一困ったのが夜中に起きてしまうこと。喉がカラカラに渇いて、全身汗だくの状態で目が覚めるのだそうだ。
怖い夢でも見たのかもしれないと納得したらしい。A子さんはもともと夢の内容をすぐ忘れてしまうタイプだ。
一日二日なら大した影響もないだろう。しかし、まだ暗い部屋で目を覚ます日が続き、早く寝ているはずなのに疲れが溜まるようになった。
引っ越しから二ヶ月ほど経ったころ、とうとうA子さんは体調を崩した。
休暇を取って一日しっかり休み回復したのだが、昼間に睡眠をとったせいか夜になっても寝付けず、眠ったり起きたりを繰り返していたようだ。
コンコン、コンコン。
夢うつつの耳にノックの音が届いた。
早く開けてくれと訴えるような大きな音ではなく、気づいてくれたらいいな、くらいの控えめな音だった。普段なら気にも留めないような音だったけれど、A子さんはベッドから抜け出して、ふわふわとした足取りで玄関に向かったらしい。
ドアスコープを覗いてみると、そこには眼球が見えた。
目だけがそこにある。
何故だろうと疑問に思ったものの、ボーッとしていたA子さんは
「なんですかぁ……?」
とドアの向こうに問いかけた。
問いに答えるような声が聞こえたが、何を言っているのか分からない。
おそらくA子さんと同じくらいの年齢の男性だ。
なんとなく、謝罪の言葉を述べているような雰囲気だったと言う。
ドアに張り付いて不明瞭な声を聞くうちに、A子さんの意識もはっきりしてきた。
どんだけ顔近づけたって、ドアスコープで目だけ見えるなんてことなくない?
そんなに近づいたら真っ暗になって、こっち側からは何も見えないんじゃないの?
ドアを隔てた向こう側にある目は、血走って赤かった。
この状況はなんだかおかしいぞ、とA子さんが気づいたとき、
「もういいから」
と別の男の声が聞こえた。いいから退け、とか何とか。
ドアスコープ越しのまるい視界から謝罪していた眼球が消え、マンションの廊下とそこに立つ一人の男が現れた。A子さんの表現を借りれば「お巡りさんぽい格好をしているけどお巡りさんじゃない人」だった。たとえば劇団の芝居なんかで、ちゃんとした制服を用意できなかったからそれらしく見える服を着た、というような感じだったそうだ。
「あのーほんとにねえ、申し訳ないですねえ」
警官風の男が言った。彼はドアに近づきすぎず程よい距離に立っている。
「はあ……。あのー、何を謝ってるんですか?」
「結局ね、こいつの話をまとめると、」
〝こいつ〟とはさっき退かされた眼球の男だろう。その姿は、A子さんからは見えない。
警官風の男は話し続ける。
「そのー、あなたの二人くらい前にこの部屋に住んでた女性と付き合ってて。こいつが甲斐性ないもんで別れちゃって。で、まあその、彼女のことが忘れられなくってね。毎日毎日来てたんですよ。来て、そしたら寝てたから『オイオイ』とかちょっかい掛けたりしてたんだけど、よくよく考えたら違う人だった、と。これはほんとに申し訳ないことをしたな、と。……こいつはそれを謝りたいんですけどね、ちょっと喋るのが下手なもんで。ほんとすいませんね」
「あ、はい……」
なるほどそういうことだったのか。
A子さんは納得しかけてギョッとした。
「え、えっ、……じゃあ入ってきてたんですか? 部屋の中に?」
「アーはい、まあちょっとね、入ってたみたいなんですよ。いやあ、言っときますんで。ええ」
「あ、はい……」
なるほどそういうことだったのか。
警官風の男が眼球の男に注意してくれるそうだ。
それならいいけれど、まったく、気をつけて欲しいものだ。
「ほら、もう帰るぞ!」
警官風の男が呼びかけて、姿が見えなくなり、——ふ、とA子さんは目を覚ました。布団の中にいる。
変な夢だった、と思ったものの、A子さんは布団を払いのけた状態で寝ていて、玄関に通じる中扉は開いていたそうだ。
あたし寝ぼけて玄関まで行っちゃったのかな。
二人組が来たのって夢じゃなくてほんとのことだったのかな。
A子さんが玄関に行くと、揃えて並べておいた靴が乱れていた。
寝ぼけていたのか本当に来訪者があったのかは置いておいて、A子さんが玄関に行ってドアスコープを覗いたことは事実のようだ。
いったいどこからどこまでが夢だったのだろう。
翌朝、A子さんは回復したので出社する旨を会社に電話したが、声がガラガラに嗄れていたせいでもう一日休むよう説得されてしまった。
A子さんが住むマンションは、住人が勤め人ばかりなのか、昼間はとても静かだった。また寝たり起きたりして過ごし、十四時を回ったころ。
コンコン、コンコン。
夢うつつの耳にノックの音が届いた。
早く開けてくれと訴えるような大きな音ではなく、気づいてくれたらいいな、くらいの控えめな音だった。普段なら気にも留めないような音だったけれど、——夢と同じだ。
A子さんは玄関に向かったらしい。
ドアスコープを覗いてみると、そこには眼球が見えた。
「いるんだろ? ◯◯いるんだろ?」
夢の中では萎縮して謝罪の言葉を述べていた男が、強気な調子で繰り返している。
◯◯は女性の名前だったそうだが、A子さんはそれ以上教えてくれなかった。
「いるんだろ? なあいるんだろ? 悪かったって」
小刻みにドアをノックしながら繰り返している。その声は十分ほど続いたと言う。
男が去ったあとにA子さんも部屋を出て、一階の管理人室を訪ねた。
誰か来なかったかと訊いてみたが、誰も来ていないとのこと。そのマンションはオートロックだ。管理人の目に触れず侵入することは不可能だった。
A子さんは自室に戻り、落ち着こうとお茶を淹れたそうだ。
一口飲んだ、その瞬間。
わかってしまった。A子さんはそう言っていた。決してオカルトに傾倒しているとかスピリチュアルとかそんなんじゃないけれど、ピンときた、わかってしまった、と。
あの夢の中で見たことは未来の出来事なんだ。
これから始まるんだ。
これからしばらく、あいつが来る。
で、人違いだって気づいて謝りに来るんだ。
あの、夢の中みたいに。
何の根拠もない。
深く考えたわけでもない。
頭の中に浮かんだだけだ。
でも、絶対にそうだと思った。
やだな、それ耐えられないな、と思った。
だから、直感に従って引っ越したそうだ。
※「禍話R 第五夜」より
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