禍話リライト「洗面器」

 人によって恐怖の対象は様々だ。
 霊が怖い。
 人の狂気が怖い。
 まんじゅう怖い。
 ……洗面器が怖い、という人がいる。


 Aさんは就職を機に上京した女性だ。二か月くらい経った頃の飲み会でたまたま家賃の話になり、自宅の家賃がかなり安いことを知った。地元を基準に考えていたAさんは家賃が高いと感じていたが、都心に近い割には安いようだ。

「おトクだね、Aはいいとこ見つけたね」
「事故物件とかじゃないの~?」
「事故物件だったらもっと安いでしょ」
「でもさ、事故物件の隣でも安いって言うよ。心理的瑕疵物件ってことで」
「それは……」

 あるかもしれない。
 そのマンションはほとんど満室なのに、Aさんの隣の角部屋だけ空いているのだ。入居者を募集している様子もなかった。
 変だなあ。
 一度そう思ってしまうと、ベランダで洗濯物を干す時にも隣が気になって仕方ない。火事になったりしたら仕切り板を蹴破って逃げなければいけないのかと考えてしまう。
 隣の部屋にかあ。怖いなあ。
 同僚に話してみると「ほんとにそういうとこなんじゃないの?」なんて言われてしまった。O島てるのサイトには載っていなかったが、新聞に載らないような死だってある。事件性が無い事故や自殺であれば他のニュースが優先的に報道されるだろう。その地域で育った知り合いもいないので、気にはなるものの詳細を確かめることはできなかった。


 そんなある夜、Aさんは夢を見た。
 ドンドンと玄関のドアを叩かれている夢だ。だが外廊下に出ても誰もいない。迷惑だなあイタズラかなあとAさんは腹を立てる。住んでいるマンションはオートロックなのだが、そんなことは夢の中では思い出さない。ふと見ると、隣の部屋のドアが全開になっている。隣人がやったのかと察したAさんは、隣の部屋に乗り込んで行く。空き部屋だということは、やはり思い出さない。やめてくださいよ! と入ってみれば、中扉も開いていて部屋の奥まで見渡せる状態だった。部屋には大きい洗面器が二つ置いてある。それだけだ。テーブルとか椅子とか、キッチンの冷蔵庫とか、そういった家具や家電らしきものは何もない。なんだろうと突っ立っていると、玄関のドアが勝手に閉まった。そのバーンという音に驚いて、Aさんは目を覚ました。
 変な夢見たなあ、くらいに思っていたのだが。
 その翌日、Aさんはよく当たると評判の霊感占い師のところに行ったそうだ。職場の先輩が、婚期がいつになるか気になる、どうしても行きたい、と言うのでお供することになったのだ。
 占い師はサバサバした印象のお姉さんで、婚期の心配など要らないようなモテる先輩は「近くにいるでしょ〜?」なんて言われて満更でもない様子だった。その占い師が、ふとAさんに視線をとめた。

「えっ……いやー、私はまだそういうのは……」
「あんた……あれでしょ、いま住んでる部屋安いんじゃないの」
「え、なんでですか……?」
「なんかね……すごいヤバいわけじゃないんだけど、なんか……あー、どうだろ……なんかボンヤリ見える…………違ったら申し訳ないんだけどね、あんたの隣の部屋で――うわ怖い、……………………いや違う、そんなことはないか。ごめん、余計なもの混ざっちゃったみたい」

 勘違いのように済まされたが、帰りがけに「何かあったら『そういうの』もやってるから」と割引券を渡されたそうだ。気持ち悪いなあ嫌だなあと思いながら帰宅したその日は、金曜日だった。
 洗濯物を取り込む間も隣の部屋が気になって仕方ない。無意識に全神経を集中してしまっていたら、カタッ、と物音が聞こえたりしてもう怖くてたまらない。
 金曜の夜、眠りに就いたAさんはうなされて目を覚ました。
 不思議なもので、どうしても隣の部屋を確認したくなったそうだ。今すぐに。どうしても。
 ベランダに出たAさんは身を乗り出し、隣の部屋を見たい一心でJッキーチェンのごとく仕切り板を越えて隣のベランダに侵入した。それなりに高い階なのだが、そんなことはどうでもよかった。
 当然ながらカーテンなどは無いけれど、暗くて部屋の中がよく見えない。
 ベランダに通じる窓に手を掛けると、あっさりと開いてしまった。
 部屋の中には洗面器が二つある。夢の中の通りだ。
 ……気持ち悪い。
 Aさんは一瞬目を逸らし、また部屋の中に視線を戻した。
 人がいる。
 二人。
 洗面器の前に立っている。
 母と娘だ。
 並んで立って、母親が娘の肩を撫でている。

「よく見とくのよ」

 言うが早いか、母親は床に倒れた。
 ちょうど倒れた顔の位置に洗面器があって。
 洗面器の中には水が入っていて。
 ゴボゴボと空気を吐き出す音が聞こえる。
 バタバタと母親が暴れる。
 娘は、それをじーっと見ている。
 Aさんは逃げ出したかったが、横には仕切り板がそびえ立っていた。自分がどうやってJッキーチェンになれたか覚えていない。
 そのうち、苦しそうに暴れていた母親はパタリと動かなくなった。
 すると、今度は娘が床に倒れた。
 やはり水が入っている洗面器に、顔をつけて。

 ゴボゴボ。

 バタバタ。

 恐怖のあまり動けないAさんは見ていることしかできない。
 やがて、娘も動かなくなった。
 何これ、何これ。
 震えるAさんが見つめる先で、親子はガバッと顔を上げた。
 そして、Aさんに向かってニッッコリ笑いかけた。

 恐怖が限界に達したAさんは、叫びながら仕切り板をぶち破って自室に逃げたそうだ。


 火災発生などの緊急避難以外の理由で破損したからとお金を取られたが、Aさんはそのマンションから引っ越した。隣の部屋で心中事件があったことを後から知った。
 余談だが、職場の先輩の婚期についての占いは当たったそうだ。

※「真・禍話/激闘編 第4夜」より

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