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禍話リライト「隣室のカップル」

 男子大学生A君から聞いた話だ。
 当時住んでいたアパートは壁が薄く、隣人が見ているテレビ番組が分かるほど。
 ある時期から女性の声が聞こえるようになった、と彼は言った。夜、ふとした拍子に気づくのだそうだ。隣の部屋で女性が何か喋っている。
 リア充かよちくしょう、とA君は毒づいた。
 ここは男性限定のアパートなのだ。隣の部屋に住んでいるのも男性だ。恋人の女性を連れ込んだのだろう。壁が薄いせいで何もかも分かってしまったそうだ。
 カップルはいつも死ぬほどどうでもいいことを話していちゃついていた。イヌとネコどっちが好きかとか、和食と洋食どっちが好きかとか。いつもちょっとした討論みたいになっていて、いつも彼氏のほうが勝っている。ときどき、あーこいつら今キスしてるわ……という雰囲気まで伝わってくる。A君はイヤホンで音楽を聴いたり耳栓を着けたりして耐えていたらしい。


 すこし経って、季節は夏の終わり頃。学部が違う友達と久しぶりに会い、一緒に学食に行ったそうだ。
 近況を報告し合うなか、

「そう言えば、お前◯◯アパートに住んでるんだって?」

と、A君が住むアパートが話題にのぼった。

「あそこヤベー奴いるだろ。◯◯号室。ウチの学部の奴なんだけどさ」
「え?」

 ヤベー奴が住む部屋番号は隣室だった。交流がないのでリア充という印象しかない。それ俺の隣の部屋だよと言うこともできず、A君はただ聞いていた。

「なんかさー、あそこって事故物件らしいんだよ。でももう誰か住んだから、そういうの教えなくていいとかでさ。ボロいアパートなのに不自然に新しいところがあって、もうヤベーじゃん。ぜったいそこじゃん? 家賃もちょっと安くて」
「えー……」
「な。まわりもやめとけって言ったんだけどそいつ住んじゃって、どんどん変になっていったんだよね。言葉がときどき何言ってるのかわからないし、服も洗ってないのかなーみたいな、ちょっと汚い感じになってて。みんな心配してるんだよ」

 隣人について思わぬところから情報を得てしまった。
 そんな状態で彼女は何も言わないのかな、と思ったが口に出さなかったそうだ。

「お前もさ、何号室か知らんけど事故物件なんてやめとけよ」
「ああ、そっか……」

 親切な忠告に生返事をして、それ以来、なんとなく隣室の物音を気にするようになった。集合ポストを見れば、隣人宛ての郵便物がずいぶん溜まってあふれている。何の気なしに一通抜き取ってみると、電力会社からの送電停止予告のハガキだった。だいぶ前の日付だ。ポストに入ったままということは電気代を支払っていないのだろう。
 あのカップルは、真っ暗な部屋で過ごしていたのか?
 気味が悪くなったA君はハガキをポストに戻したが、適当な位置に突っ込んでしまったようだ。だから、位置が変わったから、ハガキを見たことがバレたのかもしれない、と言っていた。
 ある時、アパートの外廊下に面している窓の外に男性が立っている気配を感じたらしい。それからガチャガチャと鍵を開ける音がして、ああ隣人だったのかと思って、ぞっとした。まさか監視されているのだろうか。そこまでではないにしても、隣人がこちらの様子を窺っているとしたら、怖い。
 その後もA君は耳栓を着けて過ごし、ときどき外してみると相変わらずカップルの会話が聞こえていたそうだ。
 事態が大きく動いたのは、隣人のことを友人たちに相談した日のことだった。
 声色を変えて一人二役で会話してる説。パソコンで音声ソフトに喋らせてる説。いろいろ憶測したけれど、結論としては「ヤベー奴」だ。A君が友人と別れて帰宅すると、自宅のドアポストに便箋が入っていたそうだ。封筒なしで、便箋だけ。
 鉛筆書きの文面は「◯◯ごうしつのものですが」で始まっている。隣室だ。隣人からの手紙だ。


 あなたには あのおんなのすがたが みえているでしょうか
 あなたには あのおんなのこえが きこえているでしょうか
 もし あなたが みたりきいたりしているのであれば
 ぼくがおかしいんじゃなくて
 このへやがおかしいという しょうめいになるとおもうのです


 ぜったい引っ越そうと決意を固めた瞬間だった。
 もう夕方になっていて、その日の夜を自宅で過ごすのも嫌だ。A君は友人の家に避難しようとしたが、みんなに断られてしまったらしい。飲み会があるとか彼女が家に来るとか理由は様々だったが、明日以降なら泊められる、今夜は無理、とのことだった。
 野宿はキツい。ネットカフェに行くにも金が掛かる。
 A君は今晩だけ頑張ろうと決意して夜を迎えた。
 しかし、どうにも寝付けない。
 二時頃に耳栓を外してみれば、やはりカップルの話し声が聞こえたそうだ。
 イヌとネコどっちが好きか。
 ……またやってるのか。
 普段ならまた耳栓を着けて眠るのだが、その夜は違った。
 どうせ引っ越すのだから、聞いてみよう。
 一番隣室に近く壁が薄いのは押入れだ。
 真っ暗い部屋の中を這って行って、押入れに入って、右耳をベニヤ板に押し当てた。
 先ほどと話題が変わり、海と山どちらに遊びに行きたいか、二人は意見を交わしている。
 やっぱ山っしょ、とヘラヘラした男の声。
 えー海がいいよお、と反論する女の声は——声色を変えているとは思えない。ゲームの音声でもない。自然な受け答えで会話が続いていく。
 聞いているうちに、A君は妙なことに気がついた。
 二人の声の距離感が違う。
 おそらく、彼氏は押入れから遠い位置、向こう側の壁際にいる。彼女のほうは押入れに近いようだ。襖を開けて中に入っていそうなくらい。
 真っ暗な部屋でカップルが過ごすなら身を寄せ合うものじゃないだろうか?
 彼女が押入れに入って彼氏が離れたところから声を掛けてるって、おかしくないか?


 あ、これ押入れでやったのか。


 そう思ったそうだ。
 海か山かの討論は彼氏が優勢だった。山を推す彼氏が冗談を言って、彼女が笑う。
 その笑い声がグッとA君に近づき、ゴン、と壁が鳴った。
 耳をつけているすぐそばの壁が。
 彼氏の冗談に笑い過ぎた彼女がのけぞり、壁に頭をぶつけたのだ。
 そこだけ切り取れば微笑ましいカップルの一コマだが、時刻と位置関係と部屋の曰くが揃えばおぞましさしかない。
 だめだ、逃げよう。
 A君の頭に、習慣的に部屋の片隅にまとめている貴重品のことがよぎる。携帯電話と財布、鍵、保険証。あれを持って飛び出そう。
 しかし、薄い壁一枚向こうにカップルがいるのだ。物音を立てて気づかれたくはない。
 A君はゆっくりゆっくり後ずさった。
 押入れから出ようとした背中に、やわらかいものが当たった。
 暗い部屋のなかに誰かいる。


「えー、でもやっぱ海のほうがいいと思いませんかあ?」


 女の声が言って、そこからA君は記憶がないそうだ。
 気がついた時には、自宅から徒歩数分の距離にある公園のトイレでめちゃくちゃに顔を洗っていた。まとめておいた貴重品はしっかり持ち出していたらしい。
 A君は引っ越して、しばらく経ってからアパートは取り壊されたとのことだ。その後隣人がどうなったのかは、わからない。

※「真・禍話激闘編 第一夜」より

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