禍話リライト「ノックとごあいさつ」


 Aさんが住む家は、何の変哲もないごく普通のマンションの一室だった。事故物件でもない。不吉な謂れもない。おかしなことも起こっていない。
 その夜、コンビニ弁当を手に帰宅したのは二十二時頃だった。二十代男の一人暮らしである。
 食事を済ませたAさんはトイレに入った。水を流してトイレを出ようとしたその瞬間、ドンドン、とトイレの壁を叩かれたそうだ。便器に腰掛けたとき左側に位置する壁だ。その向こうはクローゼットになっている。
 Aさんは驚いたものの、クローゼットの中のハンガーがぶつかったのだろうと考えた。きっと、変なふうに掛かっていたハンガーがずれて壁にぶつかったのだろう。クローゼットが開いていないことは確実だ。Aさんの部屋のクローゼットは、建て付けが悪いのか、扉を開けるたびにギィィと鳴るのだ。その音は聞こえていなかった。
 ハンガーの音だとAさんは納得し——また、壁が叩かれた。

 ゴンゴンゴン。

 まるで、人が拳で叩いたような音だった。
 ぜったいに違う。ハンガーの音なんかじゃない。そう主張するような、Aさんの理由付けに反論するようなタイミングだった。
 不気味に感じつつ部屋に戻ると、クローゼットの扉が開いている。試しに開け閉めしてみると、やはり、いつもの通りギィィと鳴った。この音が鳴ったなら、トイレの中にいれば聞こえるはずだ。
 クローゼットの中の様子はと言うと、叩かれたと思しきあたりの服が左右に分かれて寄っていた。ハンガーに吊るした服を均等に掛けていたはずなのに。
 なんだか気持ち悪くなってきて、クローゼットに背を向けたAさんは近所に住む友人に電話を掛けることにした。まだそれほど遅い時間でもないし、一人で抱え込むのもつらい。

「は〜い」なんて電話に出た友人は、すこし声がふわふわしている。
「あ、寝てた?」
「寝てた〜? って電話してくるのダメだろ〜……いまね、酒飲んでた。彼女と」
「ごめんなぁ、悪いけど聞いてもらっていいか? 怖いことがあってさ……」

 Aさんはついさっき起こった出来事を話したが、友人は「おぉ……?」とか「あぁ……」とか、なんとも歯切れが悪い相槌を打つばかりだった。普段なら、もっと親身になってあれこれ言ってくれるものなのだが。
 彼女が同席しているから気を使っているのかもしれない。たしか怖がりな子だと言っていたから。そう思ったけれど、しまいには「あ?」しか返ってこなくなってしまった。いったいどうしたのだろう。

「あのさ、」と友人が言う。「なんか冗談でやってんの? この電話」
「違うよ怖いから電話してんだよ」
「……だよね。これホント言いたくないんだけど、言わずに電話切るの悪いと思うから言うよ。……お前が話してたあいだもね、いまも、ずっとコンコンコンコンうるさいよ?」

 Aさんは言葉を失った。

「いまもだよ、聞こえてないの? これ床を叩いてる音だよ。指の関節当ててさ、音が出るように叩いてる音だよ。……寝てるとか、床に近いところで電話してる?」
「…………立って、……電話してる…………」
「お前さ、いいよきょう泊まっていいよ。それよくないから。来いよ。まだ鳴ってるから。テキトーに鍵とケータイと財布とかだけ持ってさ、来いよ。待ってるから」
「あ、……あぁ、……ありがとな……」

 ……などと言いながら、Aさんは部屋の出入り口を振り返る。
 女がいた。
 知らない女だ。
 四つん這いになって床を叩いている。
 このマンションは防音設備があるわけでもない。なのに女が床を叩く音は、聞こえない。
 四つん這いの女は全力で床を叩いているようにしか見えないのに。
 そんな叩き方をしたら手を痛めるだろうと思うような叩き方。握り拳で。全力で。
 何なんだこの人、とAさんはパニックに陥った。
 逃げられないのだ。
 女はドアのほうにいて、Aさんはベランダのそばにいる。
 事故物件でもないはずだ何なんだとうろたえていると、女がパッと顔を上げ、Aさんを見て、言った。

「は じ め ま し て」

 そこから、Aさんは記憶が無いそうだ。
 次に気がついたときには友人に声を掛けられていたらしい。先ほど電話を掛けた友人とその彼女がいて、Aさんを揺さぶっていた。

「おい、お前どうしたんだよ!」
「はあ……?」
「どうやって来たんだよ、何かあったんだろ!」

 足元を見れば、Aさんは片方サンダル、片方靴という出で立ちだった。習慣のおかげか、家の鍵とケータイと財布は持っていたようだ。
 翌朝おそるおそる家に帰ってみると、女はいなかった。
 それでもやはり怖いので、Aさんはいわゆる〝見える人〟に相談したのだそうだ。しかし、「何もない」とのことだった。

「うーん……いやー、何もないですねえ」
「無いことないでしょあんなスーパー恐怖体験したのに!」
「それはたぶん、通りすがりじゃないかなあ……」
「通りすがりであんな怖いの!? じゃあ因縁あったら死ぬじゃん!!」

 当然と言うべきか、Aさんは引っ越したそうだ。
 これが因縁の始まりと言えないこともないのではないか——いや、それはまだ分からない。

※「THE 禍話 第31夜」より

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