友達の概念。ーことねぇ編ー

  私の友達の概念ですが、これを見てくれる人がいるのか読んでくれるひとがいるのか、賭けになります。


   配信者の『推し』と『配信者友達』は、違います。『友達』は、『対等』であり、自分の話を聴くだけではなく、相手の話も聞いてもらったぶん自分も聴いているだろうか、とおもう。



   私が友達と思う人達は、話したぶんと同じかそれ以上私の話も聞いてくれるし、私の話をよく覚えている。




  アラフォーになって気づくのは『自分の話しかしない人は興味が自分にしかないから、相手が困っていたり、傷ついていることがわからない』



   私もなかなかこれで傷つくんだと、伝えないからボロボロになって、もうこれ以上聴けない、受け止められないというところで心が遮断されて、逃げてしまうから



   相手は私がなぜ逃げたのかわからない。


  そのひとは自分は平気だから、どんどん自分の言いたいことを投げる。相手が困っていようがお構い無しで。話を聞いてもらう、聴く、私も聞いて貰っている、その相手の時間を奪っていることも。






  私は以前、新人教育係のようなポジションで推し活したり、私の企画で声劇につかう配信者がいたりするけど、


  いつか巣立つ、とわかっていて、それが寂しくなることも分かっている。なぜならもう、それはなんども過去に経験して巣立つ元彼をみたり、友達をみたり、大好きな亡き祖父は、死に逝くのを見送ってきた。それは、仕方ないのだと。



   さみしくても噛み締める。泣いてもいいの

ああ、楽しかったって
   ずっと傍にいれなくてもね   

 心はそばに居るよ

   ずっとずっとねそれが 
ことねぇだよ。

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