放課後に練習する話

 二学期の一週目の放課後。高校の教室に西日が差し込み、窓側の一列に並ぶ机に光が当たる。黒板を背にしてその光が当たる最後列の隣の席に一人の男子学生、志温厚しおんあつしは椅子に座り、目の前のひたすらに演奏する彼女を見つめる。

 

 奏でる彼女のメロディーからは、心地良い優しさが伝わってくるのが分かる。いつまでもこの教室に居たいと思わせるような音色が心を揺さぶる。

 何度も聞きなれたそのメロディーは彼女にとっての努力の結晶の結果なのだと思うとなんだか感慨深いものが込み上がってきた。その演奏する曲を聴き終わるまで口を挟まずに静かに聞く。
 

 初めて出会った時はまだ意識していなかった。確か、たまたま職員室に行く途中に廊下の右手側の教室から今となっては懐かしさを覚えるくらいのぎこちない音が聞こえていた。そのことは今でも印象に残っていた。
 そう、あれは―――。
 

 部室の鍵を閉め終わり、職員室に鍵を返す廊下を歩いていた時だった。
その音の鳴る方向になんとなく興味が湧いて教室の引き戸の窓を覗いた。そこには一つの人影がゆらゆらと動いていた。

 よく目を凝らしてみると、髪型は肩辺りまで伸びている。女の子。その女の子は楽譜とにらめっこしながら、片手にヴァイオリンの弓を持ち、本体を首に挟み込んで腕を揺らしていた。


 思わず彼女の一生懸命に練習する光景に見惚れてしまった。人が何かに向けて努力するところを見ているのは好きだ。しかし、それは音楽の知識がない俺でも分かるほどまだ楽器に慣れていないことに気付いた。


 彼女は顔立ちが良く、着ている制服からはあまり分からないが、長袖から見える手首は細いことから華奢な体格をしているのだろうと考える。
 

 周りを見ると、その教室にはだれもおらず、どうやら人がいる気配もない。廊下の窓を見ると赤いグラデーションだった一棟も暗くなり始めている。廊下を通る前に他の部活動から下校する人を見た。この高校はどの部活も厳守下校時間が決まっている。


 しかし、彼女はまだ楽器を鳴らしている。
 

 声を掛けようか、しかしそれもおせっかいなのではないか、と考えているうちに彼女の方から俺が見ていることに気が付きこちらに向かって歩いて来ていた。どうする、何を話せばいい。

 もしかして変に思われたのだろうか・・・。色々と思考がフル回転してもそのとっさの反応に上手く対応することもできずその場を立ち尽くしてしまった。すると、教室の扉のドアが開き、彼女は質問した。
 

「こんにちは。どうしたの?」
「あぁ、いえ・・・その、こんにちは。」
 

 その場にいる自分がどのように彼女に映っているか考えると不安で溜まらなくなり、その不安が今まで考えていたことを遮り煮え切らない返答をしてしまった。

 

 もうどこかに逃げ出してしまいたくなる気持ちを抑える。返答を待っている彼女にも申し訳なく、とりあえず思い切って言うことにする。

「あの、まだ帰らなくていいんですか。もう他の部活の人も帰っていますよ。」
「心配してくれてありがとう。まだもうちょっとだけ練習していくんだ。ちゃんと許可も取ってあるよ。」
「・・・そうですか。」

  首を突っ込んでしまったことの後ろめたさと背後から後悔と不安が押し寄せる。許可を取ってあったなんて、そんなシステムは知らなかった。そもそも自分で判断して帰るだろうし、余計なことを言ってしまった。うああ、もう記憶を消してなかったことにしたい。

「・・・そうだ。あの、良かったら演奏を聞いてほしいです。まだ私の演奏は下手なんですけど。誰か人に聞いてもらった方が直すところも分かりやすいから。」
その場を後にしようとすると後ろから呼び止められた。

 思考を一生懸命に巡らせる。もしかしたら先ほどの自分の不安は杞憂だったのかもしれない。あまり返答に困っていると彼女にも気を遣わせてしまうし、家に帰っても今日は特に用事もないし・・・。
わかった、と答える。

「それじゃ、どうぞ。」
案内を成すまま、教室へ入っていった。

・・・
「どうだった、私の演奏」
 伺う視線でじっと見つめられて思わず回想に浸っていた思考を強制的に意識を戻し、彼女に視線を送る。あの頃に比べるとようやく他の人に聞かせても誰も彼女の事をヘタと言う人もいないはずだ。

 毎日放課後一人で教室に残り、ずっと練習に励んでいたのを間近に見ていたから分かる。それに早朝学校の門が開いたのと同時に中に入り、いち早く練習する彼女の話を先生からも聞いたことがある。

・・・彼女の努力がどうか報われてほしい。
「良かったよ。」

 その言葉に表情が少し緩んでいる彼女を見ると嬉しくなる。
「ありがとう。頑張るよ、コンクール。」
彼女はニカッと笑って見せた。
                           END

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