翼がひらくとき⑨

白昼夢

 佳子が予約した部屋は海に面していた。ベランダにも出られるようだ。慶子は窓側のベッドに腰かけていたが、誘われるように、そのまま寝そべる。部屋も広いし、ベッドは二床ともセミダブルだ。ピシッとアイロンがきいている枕カバーが気持ちよい。小腹も満たされた今、
「ああ、このまま寝ちゃいそう」
と慶子が呟くと、
「寝ちゃえばいいじゃない。別に予定もないんだから」
と佳子は言う。
「えー、まだ五時過ぎよ」
「だから? わたし、この時間、家でよく昼寝してるよ。十分くらいでもすごく楽になる。ああ、あの生活とももうお別れか」
大げさに歎きながら、佳子はさっさと温泉に行く仕度をし、
「じゃ、どうぞご自由にね。わたし、鍵持ってくから大丈夫よ」
と言い残して佳子は部屋を出た。
 慶子は部屋に一人残されると、ベッドに横になった。顔は窓に向いている。空は淡いグレイ、海は少しトーンを落としたブルーグレイ。そこを白いレースのような五月雨が降る。どこで見た景色だろう。考えているうちに浅い眠りに落ちた。
 
「また、いつもの空を飛ぶ夢だ」
 慶子は、夢の中でそう自覚していた。だが今回は空ではなく、海の中にいた。身体が軽く、腕を下に押すだけで、自由に動き回れる。いや、身体は存在せず生命体として浮遊しているようだ。それでも、血が、酸素が、身体の中を巡るのを感じている。ドクン、ドクン、ドクンと、芯の部分から脈が打たれ、神経の先の先まで波動が押し寄せる。ああ、なんと心地良いのだろう。ずっとこうしていたい。だが、どうやらわたしは浮上しているようだ。上を見るとシャンパーニュの泡のような酸素の珠が無数に続く。ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクドク、と段々脈が速くなり、身体中がヒリヒリする。飛び立つ時が来たのだ。わたし、飛べるかしら、ええ、飛べる、飛べるわ!
 慶子は、バーンと足で水面を蹴り、一気に空へ舞い上がった。首から腕に流れるしなやかな筋肉、力強い曲線。ああ、佳子のペンダント、あれはわたしだったのか。慶子は艶笑を浮かべる。が、次の瞬間には真剣なまなざしに戻り、頂点を見つめ、ぐっと首を前に伸ばす。身体の芯が痺れ始める。まもなくエネルギーが放出されるのだ。大気からの揚力を慶子の両翼がしっかり受け止める。身体が熱くなっていく。もっと、もっと。昇るの、もっと昇るの!
 ーーいつの間にか背景のシーンが変わり、見渡す限りピンク色の空となっていた。ああ、何と満ちているのだろう。身体も、心も、魂も。わたしの全てが、今、満ちている。何にも縛られることなく綿のような雲に肢体を委ね、夕陽に溶けこんでいる。なんて美しいのだろう。空も、世界も、そしてわたしも。そう、今、わたしは美しい。艶やかで、自由でーー。
  
 慶子はここで目が覚めた。ベッドがピンク色の光に包まれていた。慶子は横たわったまま、光を頬で感じていた。雨は上がり、窓一杯に夕陽が広がっていて、部屋の中まで陽の色で満たしている。
 慶子は窓を開けてベランダに出た。汗ばんだ身体に、海辺からのひんやりした風が心地よい。雨上がりの空気を胸一杯に吸い込むと潮の匂いがした。雨は急に上がったらしく、雨雲が逃げそびれたように太陽の上に立ち込めている。そこに落ち日が反照し、コンクリート色の雨雲に赤とゴールドが入り混じり、天地創造を描いたような壮大な絵図を繰り広げている。
 カードキーが差し込まれる音がする。佳子が帰ってきた。「いい湯だったよ~」と言いながら部屋に入るが、目の前に広がる、燃えるように紅く染まった空に、「ワーオ!」と歓喜の声を上げてベランダに直行する。
「きっれー」
「ほんとね」
 夕焼け空を満喫しつつ、沖合いへと視線を下げる。海は荒れ模様が続いていて波が高い。そこにも黄金色の陽が当たり、猛々しくも崇高な美しさを創りだしている。一方、空の色はまた変わった。太陽が雲に隠れたのだろうか、先ほどは燃えるような空だったが、今はセピア・ピンクだ。これから日没まで、この光景は刻々と変わっていくのだろう。
「ねえ、風邪引かない?」
 海風が少し冷たい。佳子は湯上がりの上、ホテルの浴衣一枚だ。
「大丈夫よ、少しのぼせちゃったから暑いくらい。ーー何? ジッと見たりして」
 久しぶりに見る化粧っ気ない佳子は、十五年余り前に新卒CAとして一緒に訓練を受けていた、あの頃の面影があった。だが、その身体は出産を経験した三十代後半に入った女のものだ。もう若かった頃のような張りはない。薄い浴衣を通して、そのふわふわした肌のやわらかさを感じる。
「ん? 何でもない。佳子はーー」
 佳子は可愛い、と言おうと思ったのだが少し考え、
「ううん、女はきれいだな、と思って」
 と慶子は言った。
「何、唐突に」
「女って、きれいな生き物だなぁ、って、なんか、しみじみと感じたのよ。そう思わない?」
 慶子の言葉に、佳子は少し考え込み、
「女か。どっちかというと、複雑で、面倒臭いって感じだけど。ーーでも、うん、きれいな生き物だと思う、わたしも」
 と同意した。
「慶子も温泉入ってくる? そしたら湯上がりに泡でアペリティフしよ」
とキャリーバッグから、先ほど駅ビルで買ったクレマンのボトルを出し、冷蔵庫の奥の方に入れようと、庫内に場所を作る。慶子は浴衣やバスタオルを取りにバスルームに向かう。すると、
「こういう何にもしない旅っていうのもいいな」
 と佳子が独り言のように呟く。慶子は背中でその言葉を受け止め、黙って肯く。
 盛りだくさんの旅もいいが、こういう旅もいい。心に残したいものを見つけやすい。雨に覆われた白い窓、ピンク色の空,夢の中で飛び立ったわたしーー。この午後のことは、この先もきっと覚えていることだろう。

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