29.ばあちゃん、バイバイ。
最近、家に帰ると泣きそうになる。
仕事のストレス…ではなくて、今現在の家の匂いが、僕にある出来事を思い出させるからだ。
家の匂いと言うのは、お線香の香りである。なぜお線香の香りがするのかというと、先日、渋谷の東急ハンズ裏にあるアジアン雑貨店「仲屋むげん堂」で購入した、インドのお香のせいに他ならない。
「仕事で疲れて帰っても、ドアを開けた瞬間良い匂いがしたら疲れも吹き飛びそう!」との思いで買ったのだが、たしか僕の記憶では石鹸の香りだと書いてあったはずである。しかし、これが見事にお線香の匂いなのだ。思っていたのと違う香りにがっかりするものの、買ってしまったものはしょうがないと思い、毎朝毎晩このお香を焚いていたら、すっかり家がお線香の香りになってしまった。
おかげで先日呼んだオキニのデリヘル嬢には、「えッ?!何??葬式????」と驚かれてしまった。その日のプレイは少し冷めていたような気もするので、おそらく引かれてしまったのだと思う。
話を戻そう。毎晩毎晩、帰宅してお線香の香りを嗅ぐたびに、僕はある出来事を思い出す。
それは、ばあちゃんが亡くなった日のことである。
2012年6月末。梅雨が明けて、ひさびさに清々しい青空が病室の窓から見られるようになった季節に、ばあちゃんは息を引き取った。たくさんの家族や親戚たちに見守られながら、想像もつかないような苦しみに耐え続け、真夜中の3時頃、ふっと目を閉じて、そのままこと切れた。さっきまであれほど苦しそうにしていたにも関わらず、亡くなった時はまるで昼寝でもしているかのように安らかな顔をしていた。
―「ばあちゃんが病院に運ばれた。」
兄からの電話を受け取った場所は、予備校の寮であった。当時僕は浪人生で、実家の伊豆から遠く離れた、横浜の河合塾に通っていた。家から通うのは大変だろうということで、親が年間100万もかかる河合塾の寮に入れてくれた。予備校まで徒歩5分、朝晩ご飯付きという最高の環境で受験勉強に打ち込むことができていた。
模試では志望校のA判定を取るなど、順風満帆な浪人生活を送っていた矢先に突如訪れた、ばあちゃんの危篤の知らせ。電話を切ると、そのまま寮長に伝えた。
「祖母が危篤なので、一旦実家に帰ります。」
そのまま横浜駅へ向かって新幹線に乗り、三島駅まで向かった。三島駅の前のロータリーには、よく見慣れた母の軽ワゴン車が停まっていた。
「ばあちゃん、どう?」
「・・・もうね、苦しそうで、見てられない。でもあんたの顔見たら、きっとおばあちゃん喜ぶよ。」
そのあとは沈黙に包まれたままだった。それでも軽ワゴン車は僕らをばあちゃんのいる国立がんセンターへと運んで行く。小高い丘の上で、夕日を背にしてそびえたつがんセンターのビルは、どこか不気味な様相であった。
車を降り、がんセンターの受付を済ませ、急いで病室に入ると、ばあちゃんがベッドに横たわっていた。
しかしそこにいたのは、もう僕の知っているばあちゃんではなかった。
げっそりとやせ細り、白く濁った瞳はうつろで、時折苦しそうにうめき声を上げる。そんなばあちゃんを前にして、僕の頭の中に蘇ったのは、元気だった頃のばあちゃんの記憶だった―。
―ばあちゃんと最後に顔を合わせて会話を交わしたのは、3か月前。
予備校の寮に入る前日のことだった。僕が「行ってくるよー」とそっけない挨拶をすると、ばあちゃんは「がんばってきなよ。」と声を掛けた。あの時は、この会話が元気なばあちゃんとの最後のやり取りになるとは思わなかった。
―ばあちゃんが癌だと分かったのは、当時から遡ること3年前。
ベッドでぐったりしているばあちゃんを見つけたじいちゃんが、慌てて救急車を呼んだ。その時は「加齢による疲れでしょう」との診断を病院で受けて、夜には家に帰ってきたのだが、その後もばあちゃんの体調は回復しなかった。どうもおかしいと思った母が、別の病院にばあちゃんを連れていった。そこ撮ったレントゲンに、黒い影が見つかり、よく調べた結果、胆管に癌が見つかったのだった。余命は1年とのことだった。
じいちゃんはうなだれ、母は泣いていた。僕も頭をがんと殴られたような、強烈なショックを受けた。それまで身内の死を経験したことがなかった僕にとって、はじめて「死」というものが、リアルに、現実のものとして目の前に立ちはだかった。
その後ばあちゃんは入院し、抗がん剤などの癌治療を行うことになった。髪が抜けてしまうからと、母とじいちゃんがばあちゃんのためにウィッグを買った。幸い、病院でのがん治療が功を奏し、数か月後にはばあちゃんは家に戻って来れるようになるまで回復した。
家に戻ってきたばあちゃんを見て、家族みんなで大喜びした。その夜は久しぶりに家族全員で集まって、行きつけのうなぎ屋でうな重を食べた。僕の家では昔から、何かとごちそうといえばそのうなぎ屋さんだったのだ。
じいちゃんは嬉しさを隠せないようでぐいぐいお酒が進み、みるみるうちに顔を真っ赤にして酔っぱらっていた。その夜は久しぶりに、一家に明るい笑い声が戻ったのであった。
しかしながら、僕はなぜか、以前のようにばあちゃんに接することができなくなっていた。ばあちゃんに声を掛けるにも、どこかぎこちなくて、「元気になって良かったね」のひとことさえ言うことができなかった。今思うと、たとえ元気そうに見えても、近いうちにばあちゃんが死んでしまうということを、自分の中で上手に受け入れることができなかったのだと思う。そのうち、僕はばあちゃんを避けるようになっていった。
当時の僕は高校生で、家に帰ると、居間の掘りごたつでのんびりしているばあちゃんとダラダラ楽しくおしゃべりしていることが多かった。しかしばあちゃんが癌だと分かってからは、家に帰っても「勉強があるから」とすぐに部屋にこもるようになった。休みの日も、部屋で勉強していると、「ひろ、掃除しようか?」とドアを開けて聞いてくるばあちゃんに対し、ちらと一瞥して「いいよ。自分でやるから」とそっけない返事をするだけだった。そう言うときまってばあちゃんは、少しさみしそうな表情を浮かべてドアを閉めた。僕はいつも、そんなばあちゃんの顔を見て見ぬふりをしていた。
その後ばあちゃんは入退院を繰り返しながらも、当初の医師の診断を覆して、1年が経っても元気に生活していた。これには家族はもちろん医師もびっくりした様子で、おばあちゃんは強いですね、こんな人なかなか見たことないですよ、なんて褒められたりもした。
だからだろう。いつしか僕の中には、
「ひょっとしたら、ばあちゃん、死なないんじゃないか。」
というかすかな希望が芽生えはじめていた。その希望が、僕の判断を狂わせた。「今はぎこちないけど、ほとぼりが冷めたら、ちゃんとばあちゃんに優しくしよう。」今言わなくてもいい。後でやればいい。そんな言い訳を心の中で並べ、ちっとも僕のばあちゃんへの接し方は変わらなかった。
そのまま僕は高校3年の大学受験を、すべての志望校に落ちるという最悪の結果で終えた。母から聞いた話では、ばあちゃんはこの結果にすごくショックを受けていたらしい。昔からばあちゃんは、僕が学校のテストや通信簿を見せてくれるのを楽しみにしていた。そんなばあちゃんにとって、あんなによく勉強ができた孫が、大学に受からないなんて信じられなかったようだった。その話を聞いて、僕はとても申し訳ない気持ちになったものの、その後特にばあちゃんに声を掛けるということはなかった。
その1か月後、僕は予備校の寮に入った。全部の志望校に落ちた僕は、悔しさから脇目もふらず、一心不乱に勉強に励んだ。おかげで成績はうなぎのぼりで、予備校のクラスでも1位を取り続けることができた。
自分から実家に電話を掛けることはなかったが、月に一回程度、母から電話がかかってきた。ちゃんとご飯は食べてるか。成績はどうか。そんな会話を交わした後、最後にきまって母は「あ、ちょっと待って。おばあちゃんに替わるから」と言って、ばあちゃんに電話を替わるのだった。
「ひろ、がんばってるかい。」電話の向こうのばあちゃんの声は、いつもとちっとも変わらなかった。小さい頃からずっと聞いてきた、やさしくて、あったかい声。「うん、がんばってるよ。前のテストでも1番だったよ。」そう答えるとばあちゃんは「そうかい。やっぱりひろはすごいねえ。」うれしそうに言った。そこで小っ恥ずかしくなって、僕はそそくさと「うん、これからもがんばるよー。じゃあね!」と言って電話を切ってしまうのだが、電話が終わるといつも、久しぶりにばあちゃんと心を通わせて会話をした気がして、ちょっと嬉しかった。
―そんなばあちゃんが、今、変わり果てた姿で僕の目の前にいた。傍らにいたじいちゃんが、「ほら、ひろが来てくれたぞ。」と言って、ばあちゃんの身体をこちらへと向けた。
うつろだった目が、ゆっくりとみずみずしい生気を帯びて、はっきりと僕の姿を捉えたことが分かった。ばあちゃんはおもむろに、震える腕を僕の方に上げた。急いで僕がその腕を支えると、ばあちゃんが僕になにか声を掛けた。
「なに?ばあちゃん?」
そういうと、ばあちゃんは振り絞るようにして、もう一度声を発した。声は聞き取れなかったが、その口の動きを見て理解した。ばあちゃんが僕の名前を、必死で呼んでいるのだった。
この瞬間、僕はもう、あの頃の元気なばあちゃんには二度と会うことができないことを悟った。みるみるうちに視界はにじんで、ぼろぼろと大粒の涙があふれ出て止まらなかった。
やせ細った手をぐっと握り、「ばあちゃん、俺だよ。」と言うと、ばあちゃんはすこしだけ、表情が和らいだ。その顔には、僕がよく知っている元気なばあちゃんの笑顔の面影が、しっかりと残っていた。
そして僕は、リュックから1枚の紙を取り出した。それは、予備校で受けた模試の成績表であった。ばあちゃんに見せるためにと、予備校に入ってから受けた模試の中で、いちばん成績の良いものを持ってきたのだ。それをばあちゃんの前に広げると、
「ほら、ばあちゃん!見て。めっちゃいい成績取ったよ!これなら一橋受かるよ!」
ばあちゃんはまたしてもやわらかな表情を浮かべると、小さい声で僕に話し掛けた。口の動きから、「すごいねぇ。」と褒めてくれたのだと分かった。
そこでもう限界だった。握っていた手を母に託すと、僕はトイレに駆け込んで、声を上げて泣いた。トイレットペーパーで鼻をすすり、涙を拭いて、人目もはばからず、小学生以来に大泣きをした。
落ちついたところで病室へ戻ると、兄が僕に声を掛けてくれた。
「ひとまず俺とお前は、東京の方に戻ろう。お前は大事な時期だろうし、俺は車ですぐに駆け付けられるから。とりあえず横浜まで、俺が送ってくよ。」
そうして兄の車に乗ると、高速道路で東京方面へと向かった。車内で兄と久しぶりに昔の話などをしていると、また涙がこみ上げてきて、僕はおんおんと泣いた。兄は何も言わず、隣で運転を続けていた。
しばらく泣いた後、ふと顔を上げると、にじんだ視界の先に赤白のタワーが映ったので、「あれ、もう東京タワーか。早いな・・・。」とつぶやくと、兄は「バカ!どう見てもただの鉄塔だろ!まだ相模原だよ!」と大笑いしていた。僕も鼻をすすりながら笑った。兄とこうやって会話を交わすのも数年ぶりのことで、すごく懐かしい気持ちになった。
再び予備校に戻り勉強に励んでいたが、その一週間後、母から電話がかかってきた。
「もうおばあちゃん、長くないみたい。本当に最期になるかもしれないから、帰って来れる?」
寮長に事情を話すと、すべて察してくれているようであった。面倒な外出手続きも一切無しにしてくれて、「早く行ってあげなさい」と僕の背中を押してくれた。
再び新幹線に乗って、ばあちゃんのいるがんセンターへ向かった。
ドアを開けると、この前とは打って変わって、病室はにぎやかな雰囲気に包まれていた。叔父さんや、従妹たち、そしてばあちゃんの妹たちとその家族やらで、病室内はごった返している。あっけにとられていると、従妹のカレンちゃんが、僕を見つけて声を掛けてくれた。
「あー!ひろくん、久しぶりー!」
カレンちゃんたちに会うのも何年ぶりだろう。小学生の頃は、毎年お正月になると、従妹たちみんながばあちゃん家に集まっていた。僕の兄弟で4人、カレンちゃんの兄妹で4人、そしてもう1人しーちゃんという従妹のお姉さんがいて、子どもだけで計9人という大所帯である。遊び相手には全く困ることなく、一緒にゲームをしたり賭けトランプをしたり、外で遊んだりした。だが、そんなお正月の集まりも中学校に上がる頃にはめっきり無くなっており、それ以降従妹たちとは若干疎遠になっていた。
しばらく合わないうちにみんな大きくなったけれど、相変わらず賑やかで、ばあちゃんが人工呼吸器やら点滴やら心電図の機器やらを取り付けて寝ているすぐ横で、病院の売店で買ったお菓子を食べたり、他愛もないおしゃべりをして大笑いしている。不謹慎なよう見えるけれど、僕にとっては小学校の頃のお正月に戻ったような気がして、なんだかとても居心地が良かった。病室を出入りする医師の先生や看護婦さんも、「こんな賑やかな病室、見たことないですよ」とニコニコしていた。
その2日後、明け方4時頃にばあちゃんは、20人近くの身内たちに囲まれながら息を引き取った。速やかに葬儀が執り行われたが、葬儀場でまたしても、親戚一同でお酒を飲みながら一晩中騒ぎ倒していたため、葬儀場のおばさんからは「ご家族が亡くなったとは思えませんね」と苦笑いされてしまった。
葬儀をすべて終えて、ばあちゃん家の仏壇に遺影を飾り、遺品を整理した。最後に仏壇にお線香を立てて、親族一同、両手を合わせ、ばあちゃんへの想いを心の中で念じた。僕は「ぜったい一橋に受かるよ」と伝えた。
それを終えると、従妹と僕らはバイバイした。こうしてまた、みんなそれぞれいつも通りの生活へと戻っていった。
予備校に戻った僕は、これまで以上に受験勉強に励んだ。一橋大学に合格するのは、ばあちゃんと最後に交わした約束だから、絶対に破るわけにはいかなかった。何か吹っ切れたように、わき目もふらずひたすら予備校と寮を往復し、ご飯と寝る時以外は、ずっと勉強をしていた。
そんな努力の甲斐もあって、翌年の3月、ちゃんと一橋大学に受かることができた。合格発表の掲示板で自分の番号を見つけた時は、もちろん嬉しかったけれど、それ以上にホッとした気持ちの方が大きかった。ばあちゃんとの約束を果たせてよかった、と。
そんなわけで、お線香の匂いを嗅ぐと、ばあちゃんが亡くなる前後の数日の、哀しくて、楽しかった記憶が、葬儀場のお線香の香りと共に蘇るのである。
だから僕は、お線香の香りにめっぽう弱いのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?