30.ひとりじゃ生きて、いけないよ。

過去を振り返らないように生きてきた気がする。

もっと言えば、過去を切り捨てて生きようとしていた気がする。

過去の心地よい思い出に浸かることなく、必死に今を生きること。自分を取り巻く環境がガラリと変わって、着実に未来へと進んでいる。その感覚が好きだったし、それで正しいのだと思っていた。

けれども最近はなんだか、それはちょっと違うんじゃないかと思い始めている。

いま僕は、新卒で入った、知り合いも全くいないベンチャー企業で働いている。ガチガチに志望動機を固めて・・・というわけでも無く、かなり感覚的に「おもしろそう」という理由で入社を決めた。

就活をしていた時、どうしてみな、OBや同期がいると安心だと考えるのか理解できなかった。もしかすると、理解しようとしていなかったのかもしれないけれど。

またそれ以上に、当時は自分に対する過信のようなものがあった。自分のことは自分がいちばん分かっている、と信じていた。裏を返せば、ちゃんと就活をやると、大人たちからあれやこれやと自分の考えを否定されるので、今思えば就活生の僕は、大人たちに自分を否定されるのが怖かったのかもしれない。

だから「敷かれたレールに乗るのではなく、自分で道を切り開いてゆく。」という生き方を、20代前半の若い僕は選んだ。その考え自体は間違っていないのだが、その道を選ぶことによる大変さやつらさまで、ちゃんと想像することができていなかったように思う。

今、なかなか忙しい日々が続いており、心の余裕が無いことが多い。仕事が上手くいかなかったりすると、「これって俺がやりたいこと?」「俺より向いている人、いるんじゃない?」「俺じゃなくてもいいんじゃね?」なんて想いが込み上げてきたりする。

またつらい時に気兼ねなく頼れる知り合いや同期が社内にいないと、寂しいというか、心細い気持ちにもなってくる。遅ればせながら30歳を前にして、僕はようやくコネや同期というもののありがたみを実感した。

よく、「大学時代の友達が、一生の友達だよ」という言葉を耳にする。もちろんすべての人に当てはまるわけではないだろうけれど、この言葉が近ごろ僕の胸に刺さるのだ。

僕の高校時代は、それほど楽しいと言えるものではなかった。その前の中学時代は、モテこそしなかったものの、成績も上位で、野球部のキャッチャーとしても仲間、顧問の先生たちや保護者から信頼され、他校から恐れられるくらいの実力もあった。生徒会長、にはならなかったけれど、生徒会の書記というお気楽なポジションに就き、適当に仕事をこなした後は、やんちゃだけど気の良い友達たちとつるむのであった。「勉強もスポーツもできるけど、気取らない良いヤツ」として、確固たるポジションを築いていた。

ただ、いわゆる優等生タイプではなかったので、一部の先生からは好かれていたが、それ以外の先生からはそれほど評価されていなかった。おかげで内申点はそれほど高くはなかったが、「俺のスタンスは間違っていないし、勉強さえできりゃ高校に受かる」と考え、その通り地元の公立の進学校に進学した。

しかしながら、地元の進学校ともなると、その地域の優秀な生徒がこぞって集まってくる。中には逆立ちしてもまったく敵わないような頭のキレる生徒もいるわけで、僕はここで初めて「自分は天才じゃない」ということを知る。

加えて、中学まで続けていた野球も、中学最後の大会で大活躍したことに満足してしまい、「もう野球はいいかな」と考えた。高校では勉強に専念するために、拘束時間が少なく、かつかねてより憧れのあった空手道部に入部した。野球部の顧問の先生からはラブコールを受けているということは、母や友達から聞いていたけれど、もう野球はやり切ったという想いと、「それに従わない俺かっこいい」というまだ青い反骨心のようなものが、僕を再び野球部の道へと進ませることを許さなかった。

こうして僕の高校生活は幕を開けた。入学したばかりの頃こそ、必死に勉強して食らいついていき、最初のテストでは学校でも上位の成績を取ることができた。この結果に家族たちはすっかり鼻高々で、三者面談の際には担任の先生から「この成績をキープできれば、国立の医学部も狙えますよ。」なんて言われたりして、母はたいそう喜んでいた。

しかしながら僕はと言うと、必死に勉強して食らいついていたので、この先3年間ずっと成績を維持するなんて、考えただけでゲンナリしてしまった。その後も勉強には励んだけれど、しだいに心の中では「他人と競い合って、必死に努力して、蹴落として、さらに上を目指す。ひょっとしてこれ、大学でも、就活でも、社会人もなっても、ずうっと続くんじゃないか・・・」という想いが大きくなっていた。その想いが膨らんでいくのと反比例するように、勉強量は減っていき、それに伴って成績も下降の一途をたどった。2年に上がる頃には、下から数えた方が早いほどにまで落ち込んでいた。

次第に僕は空手部の活動に精を出すようになっていったが、学校の部活の中には、目には見えないスクールカーストがあった。野球部、サッカー部、バスケ部、陸上部がトップに君臨し、それに準ずる形でバレー部、吹奏楽部が位置し、その他の部活にはさほど大きな違いはない。

さしずめ僕のいた空手部は、「ちょっとヤンチャになった卓球部」くらいの立ち位置であった。小さい頃にK-1で見て憧れたアンディ・フグと同じ武道をできていること自体はすごく楽しくて、サンドバッグを蹴ったり殴ったりするのも、絶妙に厨二心をくすぐってくるので、空手自体には何一つ不満はなかった。けれども、中学時代、野球部で何不自由なく過ごし、学校の中でも一目置かれていた僕にとって、「その他大勢」的な高校での立ち位置は、あまり心地の良いものではなかった。

高校3年の夏のこと、僕の代の野球部が、快進撃を続けた。初戦を、二回戦は甲子園出場経験もある私立の強豪校を撃破した。これはもしかすると・・・という皆の予感に応えるように、野球部はあれよあれよと勝ち進み、なんとベスト4まで勝ち残った。久々の野球部の快挙に学校も保護者も大いに沸き、準決勝の会場には、全校生徒と先生、保護者、OBが駆けつけて、大応援団がスタンドを埋め尽くした。僕はスタンドの大勢の観客の中の1人だった。

グラウンドに立っていたスターティングメンバー9人のうち3人は、同じ中学の野球部でプレーした仲間たちであった。その3人は初戦からずっと活躍を続け、一度もスタメンから漏れることはなかった。その日もヒットに好守備に大活躍であった。僕はその姿を見て、すごく誇らしい気持ちになると同時に、なにか、ひとり置いてきぼりにされてしまったような感覚を覚えた。

試合は接戦であったが、あと一歩のところで力及ばず、結果としては僅差で敗北してしまった。だが、相手校はプロ注目選手を抱える強豪校で、それを考えれば大健闘であった。選手たちは負けたけれど、すごく笑顔で、楽しそうで、泥だらけのユニフォームはまぶしく輝いて見えた。

その時、ふと僕の脳裏にある想いがよぎった。

「もし俺があの時、野球部に入っていたら・・・」

しかし、すぐに考えるのをやめた。ぼくが野球部に入っていたとして、レギュラーを勝ち取れていたかは分からないし、それを考えるのは、3年間死に物狂いで辛い練習に耐えてきた野球部に対する冒涜に思えた。

こうして後には、もしも野球部に入っていたら、という想像の世界で生きるもう1人の僕だけが、宙ぶらりんのまま心の奥に取り残されたままとなった。

夏が終わり、秋を迎えた。とっくに部活を引退し、勉強に専念しているにもかかわらず、僕の成績は思うように上昇しなかった。今までサボっていたツケは、想像していたよりもずっと大きく、また理系科目が苦手なのに理系を選択してしまったため、勉強自体もなかなか楽しめず、身が入らなかった。

そのまま受験期を迎えた。実家が薬局を営んでいたこともあり、私立の薬科大学を数校受けたが、手ごたえはなかった。国立は前期に北海道大学、後期に長崎大学の薬学部を受験した。空手部の顧問の先生は「まるで国内旅行だなぁ」と笑っていた。

もちろん国立も手ごたえはなく、後期の長崎大学に至っては、試験時間中に鼻水が止まらなくなり、頭もボーっとしてきて、試験を終えて飛行機に乗る時にはフラフラの状態になっていた。やっとの思い出家に帰り、体温を測ると、41℃。病院に行った結果、インフルエンザを発症していることが分かった。

1か月後、受験した大学の合否が発表されたが、どの大学にも僕の受験番号はなかった。まさかの全落ちである。むしろここまではっきり結果が出ると清々しいものであった。ここで吹っ切れたのか、僕は浪人することと、理系から文系へと転向することを決めた。

東大と京大は、社会科目を地理しかやってこなかった僕にとっては難しく思えた。今から世界史か日本史を勉強したとして、到底追いつける気がしない。そこで選んだのは一橋大学。当時は2次試験の社会科目で「政治・経済」を選択することができ、受験者も対策情報も少なかったため、社会科目のハンディキャップを無効化できると考えた。それに加えて、僕の高校の同級生で一橋に受かった人はいなかったのと、大学名が格好良く感じられたのが決め手となった。

「見返してやろう」

そんなコンプレックスをバネに、河合塾横浜校で1年間の浪人生活が始まった。予備校まで徒歩5分の寮に入り、食事と睡眠以外はずっと勉強。文転というハンデを埋めるには、とにかく誰よりも勉強をするしかなかった。幸いなことに、幼い頃から文系科目が好きだったこともあって、高校3年の時とは違って勉強自体が楽しくなり、長い勉強時間も苦ではなかったから、

僕が通っていたクラスは「上位国公立大学文系コース」というクラスで、旧帝大の文系学科を志望するクラスだった。20人程度の少数精鋭のクラス、という触れ込みで、入学時に受ける河合塾のテストで、基準点に達さないと入ることはできない。僕はテストの前に寮でみっちり勉強をしたおかげで、そのクラスに入ることができた。

思えば変わったクラスで、場所は教室と教室の間にある、人が2人通るのがやっとの細い通路の奥にある、狭い部屋だった。また「落第制度」があり、定期テストで一定の点数を下回ると、一個下のクラスに落ちるという仕組みになっており、代わりに下のクラスから成績の良い人が上がってくるのだ。

僕はそのクラスから落ちないように、常に上位をキープし続けた。浪人期の6月に、祖母が亡くなったことがさらに拍車をかけた。合格と言うただ1つの目標に向かって、脇目も振らずに勉強を続けた。同じ予備校には、高校の同級生も数多くいたが、つるむことはほとんどなかった。

夏期講習も終わりに差し掛かった頃、クラスのチューターに「一橋クラスに入りたい」ということを伝えた。その頃にはもう一橋を狙える実力と自信が付いていた。そのチューターは一橋クラスも担当していたのだが、クラスの変更というのはほとんど前例がないらしく戸惑っていた。けれども、本気で一橋を狙いたいという僕の想いを推し量ってくれて、上層部に掛け合ってみるよ、と言ってくれた。2週間後、僕は一橋クラスへの転入が決まった。

夏期講習が明けると、新しいクラスでの授業が始まった。前のクラスとは違って広い教室に、70人前後の生徒たち。少し緊張したものの、件のチューターが最初に僕のことを軽く紹介してくれたおかげで、近くの席の人たちが話しかけてくれ、自然とクラスにも馴染んでいった。

そのクラスに、変な男がいた。のちに一橋で同じラクロス部に入学することになる、根岸という男である。すらっと背が高く、いつもダボッとしたパーカーに、これまたダボッとした慶應大学のスウェットを履いていて、あまり授業には顔を出さず、ほとんど予備校のラウンジで寝ているか、やかましい仲間たちとワイワイ騒いでる、という男だった。

根岸とは一橋クラスに入る前に、一度言葉を交わしたことがある。

チューターにクラス変更の相談を持ち掛けた際、「講師室に、一橋クラスの古文の授業を担当している先生がいるから、相談してみるといいよ。話は僕が通しておくから」と言われた。後で講師室へ行くと、でっぷりとした体格の、長澤先生という古文の講師が僕を待ってくれていた。その先生と話していた時のことだった。

「長澤先生~。・・・あれ、君、どうしたの?」

見慣れない僕の顔と、深刻な話をしていそうな雰囲気を感じ取ってか、根岸は僕らに尋ねた。長澤先生が「この子がなぁ、一橋クラスに入りたいって言っててよぉ」と言うと、根岸は、

「うん、君なら大丈夫だよォ!いけるいける!」

と軽やかに言って、そのままフラフラどこかへと行ってしまった。変な奴だなぁと思ってその後ろ姿を見つめていると、長澤先生が「アイツなぁ、あんな感じだけど、勉強はできるんだよなぁ。」とつぶやいた。

その印象が強く残っていたのと、噂通り成績は良く、一橋クラスでも上位の方にいたこともあって、根岸のことはちょっと意識していた。

一橋クラスに入った後も根岸は、「お、石川クンじゃーん」とちょくちょく声を掛けてくれた。だが正直言うと僕はこの時、根岸のことを「うわ、苦手なタイプだ・・・」と思っていた。全然勉強しないけど、成績は優秀で、それでいて優等生のようにも見えない、いわゆる要領の良いタイプ。食事と睡眠以外をゴリゴリと勉強に充てている僕とは対照的のその姿は、羨ましいと同時に、疎ましい存在でもあった。

そんなことも知らない根岸は、ラウンジでたまに会うと、気前よくコーラをおごってくれた。僕は休憩しに来たのだが、根岸がラウンジにいる時はたいてい授業をさぼっているか、昼寝しているかのどちらかである。おまけに会ったら会ったで勢いよく話が始まるので、早く自習室に戻りたい僕は、おごってくれたコーラをちびちびと飲みながら、いつ話を切り上げようか、なんてことを考えていた。

春が来た。桜舞う季節、僕は父と母と、末っ子の弟と一緒に一橋大学の合格発表を見に来ていた。結果は合格。嬉しかったと同時にホッとした気持ちになった。

その帰り、横浜の河合塾に立ち寄って予備校のチューターと先生に結果を伝えた。たいそう喜んでくれて、僕もとっても嬉しい気持ちになった。

その後は寮に行き、荷物を車に積むと、寮長さん夫妻に挨拶をした。実は、一か月前、受験直前のストレスに追い込まれた僕は、怒りに任せて赤本を部屋の壁にぶん投げたのだが、その際赤本の角っちょが壁に当たってしまったため、ぽっかりと握りこぶし大の穴を空けてしまっていた。寮を出る直前にそのことを詫び、母が弁償しますので、と言うと寮長さんは笑って、

「いいのいいの!よくあることだし、予備校にも黙っておくから大丈夫!まあめでたい日だし、無礼講だよ!」

とチャラにしてくれた。こうして寮長さんにお礼を言い、1年間狂ったように勉強し続けた部屋を後にした。それ以来、チューターにも寮長さんにも一度も会っていない。

一か月後、夢にまで見た大学生活がスタートした。初めての東京、初めての一人暮らし、初めてのキャンパスライフ。何もかもが初めての新しい生活に、僕は胸を躍らせていた。しかしながら、学校内には知り合いが全くと言っていいほどいなかったので、心細い気持ちは多少なりともあった。

大学と言えばまずはサークルだろうということで、いくつかのテニスサークルを見て回った。けれど、なんだか雰囲気が合わなかった。一見明るいのだけれども、軽薄そうなノリに、居心地の悪さを覚えてしまった。その後、いくつかのテニスサークルと野球サークルを見て回ったが、抱く感想は同じであった。

どのサークルに入るか決められないままズルズルと時間だけが過ぎていく。気づけば新歓期も終わりに差し掛かっていた。おまけに大学の法律の授業も、想像していたほど面白くなさそうだし、何より膨大な量の判例と条文を、数学の公式や定理のように使いこなさなければいけないことが分かると、数学嫌いの僕はとたんに辟易してしまった。華のキャンパスライフに、暗雲が立ち込める予感が漂い始めていた。

トボトボと大学内を歩いていたある日、「お!石川クンじゃーん!」と前から声を掛けられた。顔を上げると、声の主は自転車に乗った根岸であった。

「あのさー、入る団体って決まった?」と根岸が聞いてきたので、「んー、まだ決まってないんだよねー」と答えると、「よしっ、じゃあラクロス部来よーぜ。俺もう入ったし」。そう答える根岸のリュックには、よく見たらラクロスのスティックが刺さっていた。体育会は厳しそうだし、ラクロス部はなんかチャラチャラしてそうでいけ好かないと思っていたけれど、行くあてもない僕は根岸の誘いを二つ返事で承諾した。

翌朝6時。眠い目をこすりながら根岸に言われた通り校門前に向かうと、ラクロス部のウィンドブレーカーを着た先輩数人と、何人かの新入生がすでに集まっていた。

「すみません・・・今日見学に来た、石川っていいます。」

そう告げると、「おお!石川君ね!待ってたよー、じゃあ行こうか」と先輩はグラウンドへと歩き出した。その日は朝9時から一橋対早稲田のラクロスの試合があるのだった。

いざラクロスを見てみると、思った以上に激しくて、カッコよくて、とてもエキサイティングなスポーツだった。隣で解説してくれた、僕と同じ石川という名字の先輩の話も面白く、初めて見たけれどすごく楽しむことができた。

試合が終わった後、そのままラクロス体験会が行われ、新入生にラクロスのスティックとボールが渡された。僕は根岸とキャッチボールをしたのだが、これが想像以上に面白くて、すっかりハマってしまった。その後、昼ごはんを食べようということで、根岸と数人の先輩と一緒に、近くの海鮮丼屋へと連れて行ってもらった。

根岸はすっかり先輩たちに馴染んでいる様子だった。それに先輩たちも陽気で楽しい人たちばかりで、すっかり僕の気持ちはラクロス部に傾いていた。ふと1人の先輩が、「お前、入るっしょ?」と軽い感じで聞いてきたのに即答する形で、

「入ります!」

と答えた結果、たった半日でラクロス部への入部が決まることになった。

とはいえ、入部したのも最後の方だったため、すでに入部者の間では仲の良いグループのようなものが、うっすらではあるができ始めている雰囲気があった。僕は根岸と、それに同じフランス語のクラスで、先にラクロス部に入っていた前田と栗原という友人を頼りに、少しずつラクロス部に馴染んでいこうと考えた。

2回目にグラウンドを訪れた時、「石川君だよね!」と突然声を掛けられた。声の方を見ると、身長は180㎝ほど、体重は90キロはあろうかという巨漢の男がニンマリ笑いながらこちらへ向かって歩いてくる。坊主アタマ、半そで短パンという出で立ちは、小学校のガキ大将がそのまま大きくなったようであった。もしくは、いつしかTVで見た、ドランクドラゴンの塚地演じる「裸の大将」山下清にも見えた。

「俺は関口!一緒にがんばろーぜ!」

ニコニコしながらそう言うと、大きな体に不釣り合いなクロスを握ってズンズンとグラウンドに入っていった。聞けば僕と同じ1年生だというが、すでに風格は3~4年生と同等の雰囲気を漂わせており、まったく1年生には見えなかった。

(もう俺の顔と名前知っているんだ・・・)と呆気に取られると同時に、こんなにもにこやかに、気持ちよく自己紹介ができる人間がいるのだということに驚いた。親しみやすさの塊のような人間であった。

こうして半ばノリと勢いで入ったラクロス部に、4年間と、大学を留年した1年間の計5年間、どっぷりと浸かることになった。特に根岸と関口とはよくつるんでおり、とりわけ関口とは家も近く、ポジションも近かったため、部活の時間はもちろん、食事の時間やプライベートの遊びまで、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた(もう1人、小松という重要なカギを握る人物がいるのだが、小松についてはまたの機会に語ることとする)。

関口とはラクロス以外は家でスマブラなどのゲームをするか、他のラクロス部員を誘って、隣の立川エリアまで自転車を漕ぎ、ペコペコになったお腹をおかわり無料の中華飯店の安定食で満たすのが常であった。たいして大学生らしい遊びは無かったけれども、部活の話からくだらない冗談まで、仲の良いメンバーでダラダラと話すだけで楽しかった。

あっという間に4年間が過ぎ、ラクロス部のみんなもそれぞれの就職先へと飛び立っていった。中には社会人でもチームに入ってラクロスを続けている者もいる。けれども僕は「過去を振り返らない」という自分なりの人生訓のような考えを頼りに、就職を機にスパッとラクロスを辞め、会社もラクロス部のつながりが一切ない、IT系のベンチャー企業を選んだ。

最初の1~2年は付いていくのがやっとで、自分のことで精いっぱいだった。それでも新しいことに挑戦している感覚が好きで、服装もこれまでの体育会系の素朴なものから、どこか小洒落たファッションへと変わっていった。

ラクロス部の同期とは、忘年会やリーグ戦の応援以外ではあまり会わないようにしていた。社会人になっても同期でつるんでいるのは格好悪いと思っていたし、たまに会う度に、社会人として洗練されていくイケてる奴、みたいなポジションに自分を置きたいという企みもあった。

けれども社会人3年目も半分を過ぎる頃、どれだけ時間が経っても「理想の自分」と「現実の自分」の差が一向に埋まらないことに、徐々に気が付き始めた。仕事には多少慣れたが、相変わらず大変さは変わらず、毎日毎日やることは山積みである。

ある日、僕のストレスは限界に達した。仕事の忙しさに加え、新型コロナウイルスによる自粛によってはけ口を失ったストレスは、積もり積もってついに、ドロドロとしたマグマのようにあふれ出た。僕は、母に電話をし「会社辞めるわ!」と言うと、思いのほか母は反対することはなかった。父も「やりたいことがあるんなら、いいんじゃん」と言って反対はしなかった。

こうなると勢いにまかせて誰かに話したくなる。僕は久しぶりに、関口に電話を掛けることにした。

「俺、会社辞めるわ」と伝えると、関口は数刻だまり込んだ後、今僕がすべての事象を辞める理由の正当化に結び付けていること、つまり全く冷静な判断ができる状況では無いことを冷静に指摘した。

そして、転職においては今の業界と同じ業界を選んでスキルアップを図るのがのセオリーであることや、「文章が書きたい」と言うが、そんなことを考えている奴は世の中に山ほどいるし、よっぽど有名になれなきゃライターとして安く買いたたかれるか、ボロアパートで貧乏暮らししながら執筆活動を続けるしかないという現実も告げた。

感情ばかりが先行し、今すぐにでも会社を辞めようと思っていた矢先、チクチクと正論を突かれるのは、正直気持ちの良いものではなかった。けれども、関口と話をしているうちに、自分が全く見ることができていなかった、世の中の常識や現実と向き合うことができた。その後色々考えて、ひとまず僕は、今の会社で働く道を選択した。

ただ、それまでと変わったのは、「会社の先輩から聞く価値観が、すべてではない」ということだ。根が素直な僕は、それまで先輩からいろいろ言われるごとに、すべて真面目に受け取ってそのまま実践しようとしていた。結果、あれもこれも言われてパンクしてしまうのである。

けれど、関口と話したことで、極端に言えば会社なんていつでも辞めてやる、くらいに少し気楽に考えられるようになった。そう思うと、別に先輩の言うことはすべてじゃないな、と考えるようになり、先輩から言われても「でも、こうじゃないっすか?」「僕はこう思うんすよねー」と少しずつだが言えるようになった。

それに、つまらない仕事は正直に「楽しくない」と言うようにした。僕の場合それはWEB広告の運用にあたる。管理画面の数字の羅列を見ていても何の感情も湧かず、それを分析しろだなんて言われたら気が狂いそうになる。それでも今までは我慢して広告運用を行っていたが、まったく成果は出ず先輩には怒られてばかりであった。

だが、関口と話した後、先輩にちゃんと「WEB広告、マジでやりたくないです。いつかできるようにならなきゃとは思ってますが、とりあえず今はホントにやりたくないです。」と伝えた。

案外、素直に伝えれば話は通るもので、ひとまず僕の広告運用の作業は、しばらくの間先輩が引き取ってくれることになった。そうなった途端、一気に今までの大変さが軽減された。そう、僕の近ごろの大変さは、ひとえに広告運用が原因だったのである。

そうなってくると、別に今の会社の労働環境が悪いというわけでも無くなったので、今すぐに退職する理由もなくなってしまった。今でも「これ俺が本当にやりたいことなのかな」と思うことはあるけれど、銭が稼げて飯が食えるのであれば、今の仕事を辞める必要もない。

つまりは、自分の気持ちに素直になることが大事だったのだ。これまでの僕は、仕事に対して違和感を感じながらも、「都心でIT企業で働いてる俺カッコいい」「人とは違う仕事してる仕事してる俺らの会社すごい」という価値観で、その違和感を無理やり押さえつけていた。(こうなったのは先輩がしつこく会社の魅力を何度も何度も語ってきたせいでもあるが、当時の僕は素直に受け入れる以外の選択肢はなかった。)

けれども今は、「別に今の会社で働いててもモテねーしなー」とか、あんまり賛同できないような社内の意見には「うーん、またキモいこと言ってるなー」くらいに捉えている。相手の話に無理にうなずくこともやめて、「ふーん、そういう考えもあるんですねー(俺はそう思わんけど)」と思うことにした。

世間一般ではこれを「スレた」とか「腐った」と言うのかもしれないけれど、今の僕の精神状態を健やかに保つには、この態度がいちばんなのである。それに、この先何かのきっかけで会社や仕事に対する考えが変わることもあるかもしれない。その時はその時で、今の考えをさっと捨ててしまえば良いし、もしいつまで経ってもそう思えないのであれば、会社を去っても良いのだと思う。ただ一つ言えることは、大したスキルも経験も無い僕にとって、転職のタイミングは今じゃない、と言うことだ。

また、仕事においては自分が全く興味の無い事柄についても、知識を深めていかなければならないことが多々ある。クライアントの前ではさも優秀な、頼れる社会人でいなければならない。仕事の出来る先輩は僕に「仕事も私生活も一緒で、相手に自分をどう見てもらうか、つまりブランディングだよ」とさらりと言ってのけた。

これを真に受けた僕は、先ほど言ったように「たまに会う度に、社会人として洗練されていくイケてる奴」という理想像に自分をブランディングしようと、ラクロス部の同期にもそんな態度を見せていた。しかし、3年目にしてとうとう、理想と現実のギャップに耐えられなくなってしまった。

今では、仕事で自分をブランディングして見せるのは結構なことだけれども、プライベートまで自分を偽って大きく見せることはない、という考えに落ち着きつつある。そうとなれば、等身大の自分を見つめ直すほかはない。

別に昔の仲間と会いたければ会っても良いのだし、本当に自分の好きなファッションや趣味があるのなら、そこに時間やお金を費やしても良いのだ。仕事というのはあまりにもプレッシャーも影響力が大きいから、「仕事のために」と思って自分の本当の気持ちを無視して、好きでもないことばかりし続けていると、だんだんと心がカサカサと乾いてくる。それをずっと放置していると、世の中にあふれる「イヤな大人」になってしまうように思う。

乾いた心に潤いを与える「水」となるのは、心から自分が好きだったり、気を許せるものに他ならない。そしてそのヒントは、これまでに自分が見たり聞いたりしてきたもの、幼い頃によく触れ合っていたもの、何か一つのことに没頭した経験に隠されている。つまりは過去。思い出の中にヒントはあるのだ。

だから僕は、過去を切り捨てる、というポリシーを捨てることにした。過去があって今があるのだから、過去と上手に付き合っていくことにした。

こんな言葉を聞いたことがある。

「大人になって大事なのは、自立すること以上に、依存先をいくつも持っておくことだよ。」

人間は、自分が思っているほど強くない。何回もコスられているはずの台詞だが、今の僕にはとっても良く染みるのだ。別に依存したっていい。幸い、生まれてこの方、人には恵まれている方だと思う。今までそれに全く頼ろうとしなかっただけで、自分が心を許せる場所なんて、その気になればいくらでもあふれている。

ひとりじゃ生きていけない。30歳を前にして、ようやくその本当の意味が分かった気がする。

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