32.東京は星が見えないから

ここ最近は、帰宅が夜12時近くになる日が続いている。平日はどっぷりと仕事をしているからだ。誰もいないオフィスで黙々と仕事を続け、それが済めば、PCの電源を落とし、ぐっと伸びをした後に、荷物をまとめて施錠して会社を後にする。

独り身であることと、会社から徒歩10分程度の場所に家があるのは、労働時間が長い僕にとっては幸いである。いつ帰宅しようと、パートナーに対して気を遣う必要も無く、くたびれた身体を終電に預けることも無いのだ。ただ、会社から家までの道をテクテクと歩き、家に着いたらシャワーを浴びて、インドのお香を焚いて、つかの間のリラックスタイムを味わったのち、スッと眠りに落ちる。朝が来れば朝食を済ませ、顔を洗って、髭をそり、着替えてまた会社に向かうのだ。

そんな日々が何日も続いたとある夜のこと。いつものように夜遅くに会社を後にして、家に向かっている時だった。ふと空を見上げた瞬間、えも言われぬ寂しさを覚えた。

夜空には星が見えなかった。深い鼠色の空には、燦燦と輝く月だけがぽっかりとただ浮かんでいるだけ。別に東京の夜空で星が見えないのは、今に始まったことではない。それでも、その時の僕にはその夜空がもの悲しく映ったのだった。

都市部の夜空で星が見えない現象を、「Light pollution(光害)」と呼ぶことは、中学校の英語の授業で学んだ。しかしながら、仕事終わりに見上げた夜空に、星が見えなかった時、人はどんな感情になるかまでは、学校では教えてくれない。僕はその時、やり場のない悲しみを胸に抱えたまま、トボトボと家に帰るのであった。

疲れた夜に空を見上げるのは、これが初めてではなかった。これほどまでに感傷的になったのは、少し前に観たアニメが影響しているのかもしれない。

『波よ聞いてくれ』というアニメが、2020年春から放映されていた。札幌のスープカレー屋に勤める、よく弁の立つ女性店員が、とある出来事をきっかけにラジオパーソナリティとして働いていく、というストーリーである。

ここ最近、深夜ラジオを聞いていた僕にとって、ラジオが題材ということで非常にタイムリーな内容だったため、毎週のように楽しみにして観ていた。なかなか破天荒なストーリー展開と、主人公のめちゃくちゃなキャラクターがとっても魅力的なアニメなのだが、とりわけ最終回がジンと染みる。

深夜3時頃、いつものように主人公がラジオ収録をしていた時、とある災害により、北海道全体で停電が起きる事態になってしまった。そんな緊急事態でも、ラジオを止めるわけには行かない。素人に毛が生えた程度の主人公が大奮闘して、リスナーからの便りに対して明るい返事を返してゆく。

そして、主人公が自分の番組の時間をやり切った後、次の番組を担当する先輩ラジオパーソナリティーとバトンタッチする。その時、先輩が流した曲が、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』であった。

停電によって、光を失った北海道。だがそのおかげで、夜空に浮かぶ星たちの輝きは、いつにも増して美しく映る。坂本九の歌声と、美麗な星空の映像が相まって、鳥肌が立つほどに美しい瞬間であった。

このシーンを見て、「あぁ、たまには夜空を見上げてみて、星を眺めるのも良いものだなぁ」としみじみと思ったのだ。が、肝心の星空が、ここ東京ではお目にかかることができない。

忙しい日々でも、毎晩、星を見ながら帰ることができたら、それだけでも僕のくたびれた心に潤いを与えるのは十分である。けれども、それができない。ひとりぼっちの夜なのに、星も無い、涙も出ない。坂本九の『上を向いて歩こう』のようにはいかない。

それでも、『波よ聞いてくれ』で観た、あの星空の美しさと坂本九の歌声の素晴らしさが頭から離れない。それから毎晩、会社から家に帰るまでの間に『上を向いて歩こう』を聞き、家に帰ってシャワーを浴びて、電気を消してベッドに入った後に、『見上げてごらん夜の星を』を聞く日々が続いた。

しみじみと坂本九の歌声に沁み入りながらも、見上げた先にあるのはいつも、星の無い無表情の夜空か、真っ暗な部屋の天井である。曲の終わりにはどうしようもない虚しさが訪れて、日によっては意図しない涙が頬をゆっくりと伝うのであった。

星が無いと、心が持たない。

そう思った僕は、プラネタリウムを買うことにした。家庭用の、天井に星空を映してくれる簡単なタイプのものである。amazonで探してみると、5000円前後で買えるようであった。

なんの迷いもなかった。サッと右スワイプをして購入を決めた。次の日の夜、家に着くと宅配ボックスの中に段ボールが入っている。中身はもちろん例のプラネタリウムである。

早速開封して、電池を入れた。部屋を暗くした後に、電源を入れた。すると、あの無表情だった暗い天井に、満天の星たちが浮かび上がる。本物の星空の輝きとは程遠いものの、今の僕にとっては全く申し分のない星空である。そして、いつものように坂本九の『見上げてごらん夜の星を』を流した。

結論から言うと、ズルズルと鼻水をそそり、何度もしゃくりあげるほどに泣いてしまった。これだ。僕が求めていたのは、これなのだ。満天の星空の中で流れる、坂本九の歌声。『波よ聞いてくれ』のキャラクターたちが、非常事態の中で、ふと、瞳を奪われてしまった星空の美しさ。それがそのまま、僕の目の前に現れたのだ。

プラネタリウムとはいえ、星空はこんなにも美しいものだったのかと、しみじみと感じた。日常の忙しさに追われるあまり、身近にあったの大切なものを見落としていたのだ。こうしてまたひとつ、働き始めてから失ってしまった感性を、僕は取り戻してゆく。

それから1か月ほど経った今も、毎晩のようにプラネタリウムを付けて、星空を眺めながら坂本九の歌声を聴き続けている。

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