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リア充でない自分を想い続けることが僕のリア充であるらしい

正月に実家で甥っ子、姪っ子に会いました。甥っ子の一人は、元旦の朝まで友達とカラオケ。別の甥っ子は、2日の夜に友達との飲み会があるとかで、翌日の夕方に帰って行きました。もう社会人ですが、大学卒業後もよく同期と会って遊んでいるそうです。

前から感じていましたが、悔しいし羨ましい。きっと楽しい青春を送ってきたんでしょう(知らないだけで色々あるのかもしれないけど)。

姪っ子はスマホの写真を見せてくれました。そこには友達の写真しかない、というくらい友達の姿で溢れている。僕のスマホにはニャンの写真ばかり。それしかない。

文化祭の写真はあるかと聞いたら見せてくれました。クラスのリーダーになってラーメンを売ったと。審査で自分のクラスの出し物が1番に表彰されたそうで。超リア充じゃんか。

クラスメイトの集合写真を見せてもらい、この中に斜に構えてオレやんねー、とかいうのいないのか聞いたんですけど、そんな奴いないって。そうなんかと正直驚きました。みんな仲良しなんだそう。写ってる男子達を指差して、この子らの中に浮いたのいないか聞くと、いないという。

複雑なんですよ。何が違うんだろうか。遠い昔のことなんですけどね。

僕はそうではなかった。が、後から思えばそれでいいこともあったと、ある程度までは消化できています。ネクラ生活の裏側を思い出して見ていく。そこにあった利益を探す…

望んだ静かな時間は多く得られた、ツマラナイ交友は少なく済んだ、沈んだ気分にたっぷり浸れた。今の自分の深み (闇?)にも繋がっている、少数派の側に立てている、希少な体験の持ち主かも、etc.

ないものねだりなのか、無意識に刻まれている現代の価値観で裁いているからなのか、本心からネアカな生活を求めてたのか。リア充な青春だったら、そのことに苦しみを覚えたりはしなかったのでないか。なんかの機会にリア充な彼らに聞いてみよう。リア充な青春に苦しみはあったかどうか。かなりおかしな質問ですね。

こんな歳になっても、モヤモヤしていて自分の青春を肯定することはできないんです。どんなこともバランスしているとか、分かっているつもりでも駄目です。

ただそういう自分が、なんか好きというか、相変わらずそんな心境である自分に安心するというか。ネアカになれない自分にがっかりして鬱々としてますけど、あいも変わらずそんな自分であることに安心しているという訳の分からなさ。


内向的ってこういうことなんでしょうね。こんなことばかり、何度も繰り返し考えてます。

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