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日露友好の地、戸田(へだ)

2013年3月、静岡県沼津市の戸田(へだ)に行きました。日本とロシアの交流史の重要な一ページが刻まれた地であり、日本近代造船発祥の場所でもあります。それにまつわるエピソードが『風雲児たち 幕末編』7巻から9巻にかけて紹介されています。

表紙のイラストは工藤稜画伯(みなもと太郎先生が画伯と呼んでいた)

1853年、アメリカのペリーが黒船で日本に来航したのは有名ですが、同じ年にロシアの使節プチャーチンも来ていました。ロシアもアメリカと同じように日本と通商しようと交渉を試みていたのです。しかもロシアと日本の間にはアメリカと違い別の課題もありました。カラフト島と千島列島の国境問題です。

1854年11月3日、下田の福泉寺で日露の交渉がスタートします。プチャーチンに対する幕府代表は川路聖謨、「青天を衝け」にも登場していましたね。

第一回の交渉の翌日、安政の大地震が東海地方を襲い、津波によってプチャーチン一行が乗って来たディアナ号が破損してしまいます。修理に適しているとして戸田湾に移動しようとしますが、途中、さらなる風波のため沈没していしまいます。約500名のロシア人乗組員は、地元漁民の助けがあり全員無事に救出されます。しかしディアナ号は修復不可能となり、建造取締役江川太郎左衛門英龍の差配のもと、新たにロシアへ帰るための船を作ることになりました。

中断していた交渉は続けられ、最終的に日露和親条約が結ばれました。領土問題は、千島列島のエトロフとウルップ両島の間を国境とし、カラフト島は両国人の雑居地として境界を定めませんでした。

ロシア人技術者と日本人船大工が協力し、わずか三ヶ月で100トンの帆船が造り上げられると、プチャーチンによって「ヘダ号」と名付けられました。その後、無事ロシア人は帰国することができました。ヘダ号造船に関わった船大工たちはのちの日本の造船技術普及に貢献していくことになります。

戸田を訪れた後に作ったコラージュ。下の人物が川路聖謨とプチャーチン
天然の良港、落ち着いて造船できたことでしょう
デイアナ号の錨

戸田湾近くにある戸田造船郷土資料博物館にはヘダ号の設計図や大工道具、ヘダ号、ディアナ号の模型、プチャーチンの銅像などがあり、顛末を知っている者には楽しめるものばかりありました。

『風雲児たち』では、地元の漁民が危険を顧みずにロシア人の救助をしたことや、ロシアの技術者が日本の大工道具に感心したりするところ、お互いをリスペクトしながらも双方譲らず交渉する白熱の交渉など、見どころたっぷりに描かれます。帰国前にプチャーチンと川路聖謨が握手するところでは、過労で船の完成を見ずに亡くなった江川英龍に対する感謝を忘れずにいたプチャーチンに胸が熱くなります。
のちの巻ではプチャーチンが日本に戻ったときに川路聖謨と再会し、お互いを侍、騎士と思い尊敬しあっていたことも紹介されていました。

『風雲児たち』は多くのエピソードが絡み合ってできており、登場する人物の数も多いです。そんな中、大黒屋光太夫のロシア漂流譚が歌舞伎になったり、蘭学事始の話がNHKのドラマになったりと、部分的にも紹介されてきました。「ヘダ号」を取り巻く日露友好の話もぜひ映像化してほしいですね。

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