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『司馬江漢「東海道五十三次」の真実』を読んで

對中如雲(たいなかじょうん)氏の著作『司馬江漢「東海道五十三次」の真実』(2020年9月発売)を読みました。

みなもと太郎先生のマンガ『風雲児たち』に登場する司馬江漢に興味があったので購入したのでした。

有名な広重の浮世絵「東海道五十三次」シリーズには元ネタがあるという内容の著作です。以前からその真偽をめぐる論争があったことも今回知りました。果たして広重は司馬江漢の絵を見ていたのでしょうか。

風雲児・司馬江漢

司馬江漢(しばこうかん、1747〜1818)は江戸時代の絵師、蘭学者で、浮世絵、洋風画、日本初の腐食銅版画の作品を数多く残し、当時の最先端の自然科学研究を日本に紹介した人物です。

司馬江漢

『解体新書』を訳した前野良沢や杉田玄白、エレキテルを作った平賀源内のように、鎖国をしている日本で海外から情報を苦心入手し、人の役に立てようとする意欲には頭が下がります。

幕末を描くために関ヶ原の戦いから始められる『風雲児たち』ですが、本格的な物語は前野良沢が長崎から江戸へ帰るところからスタートします。これは蘭学者の知識を追求する姿勢が幕末へ向かう大きな原動力なんだと、みなもと太郎先生が宣言しているためだと思うのです。

そんな多くの蘭学者が登場する『風雲児たち』でも、気難しい人物として描かれている司馬江漢。日本で最初に油絵や銅版画の技法を確立したり、地動説を紹介したり、旅行記を記したりと残した功績は多いながら、まわりの評価は「変人」。まだ生きているのに自分で自分の死亡通知書を出すという有名なエピソードもあります。人とうまくコミュニケーションがとれない、今でいう「隠キャ」だったのでしょう。

でも研究者、ましてやアーティスト、新しいことをやろうとする人は、気まぐれで奇抜な行動をとるのは当然ではと思います。偽造した死亡通知書も後世に名を残すために役立っていると言えます。

「東海道五十三次」の真実

さて、この書籍。まず図版で、司馬江漢が1813年頃、東海道の旅中のスケッチをもとに描いたとされる肉筆画と、広重の1834年完成「東海道五十三次(保永堂版)」を一枚ずつ比較していきます。本文では過去の論争を振り返りつつ、新しい知見も紹介、論旨はしっかりしており、とても興味深いです。

資料を読み解きながら江漢の出自、人物像に迫り、「変人」と呼ばれた事情、死亡通知書を出した要因なども推測しています。

さて、見比べてみると、江漢の肉筆画は点描などの新しい技法を使い、〈頑張って描きました〉という感じが出ています。一見稚拙、最近水彩画を始めた自分が描いたような絵です。

一方、広重の浮世絵シリーズは、プロデューサー(版元)が新進気鋭の画家(絵師)を起用し、複数の職人(彫り師、刷り師)を使い、浮世絵版画という「ヒット商品」を生み出した一大プロジェクトです。その後海外の画家に影響を与えているように、洗練された美があります。

広重が元絵を描く過程で司馬江漢の絵を見ているかもしれません。そもそも「東海道名所図会」という書物が1797年にすでに発行されており、広重がその挿絵を参考にしたこともわかっています。

個人的には「元絵」かどうかなんてどうでもいい。

作品が〈生まれる〉ためには、作家の数えきれないインプットがあり、実生活があり、人生のタイミングがある。

みなもと太郎先生もしばしば書いているように、その後の研究で定説が覆ることはよくあります。後世の我々にとってはありがたいこと、いろんなものの見方ができることは幸せです。

『司馬江漢「東海道五十三次」の真実』を読んで、タイムトラベルを楽しめました。ありがとうございます。

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