三顧の礼は史実か2

②孔明の動機

続いては②孔明の動機である。結論の前に孔明が仕官に際し何を重視していたかを検討する。就職活動に関して孟公威という孔明の友人に対する以下の孔明の発言が『魏略』にある。三顧の礼に関する孔明の動機を示唆する発言である。

孟公威が郷里をなつかしんで、北方へ帰りたいと願ったとき、諸葛亮は彼に向って、「中原には士大夫がたくさんいる。遊楽はなにも故郷にあるとは限らないだろう」と言った。『蜀書』諸葛亮伝引注『魏略』ちくま学芸文庫

魏には智謀の士がすでに多く仕官しても自分の策があまり採用されないであろう点を気にしていると読み取れる。植村清二氏の『諸葛孔明』に次の記述がある。

もし孔明が曹操に仕えることを望んだならば、人を見る明のある曹操は、必ずこれに政治の重要なポストを与えたであろう。もし管仲や楽毅のようにその君に覇業を立てさせることが、孔明の志であったとするならば、おそらくそれがもっとも手近い方法であったに違いない。しかし孔明が曹操の人物とその事業とをどのように評価したか、またどのような好悪の感情を持っていたかということは、しばらく別問題として、曹操はすでにほぼその根拠を固めて、ようやく動揺しないだけの態勢を作ることに成功していた。孔明がこれに参加すれば、もちろんその形勢が確実になることは想像に難くないが、
しかしまたそれは孔明の見識と手腕とをまたないでも、ある程度まで可能な性質のものであった。いうなればそれは孔明の大才を用いるためには小に過ぎ、また安易に過ぎるものであった。そこで孔明は他の道をとった。劉備の勢力は小さくまた不安定であるが、これをたすけて将来の未知の何かを求めることは、さらにいっそう大きい事業である。もちろんそのためには前途に多くの危険と困難が横たわっているに違いない。しかし大きい自信を持つものは大きい艱難を意としない。孔明は実にこの艱難を克服して、自己の大いなる可能性をその限界まで確かめようとしたのである。
植村清二『諸葛孔明』83ページ ちくま文庫

もし孔明が曹操に仕えていたならば、曹操の覇業は成立していたかもしれない。しかし建策してもその策のすべてが用いられるとは限らないし、天下平定の功は曹操と荀彧たちの功業であり、決して孔明の功業ではない。さらに『袁氏』に次の記述がある。

張子布は諸葛亮を孫権に推薦したが、諸葛亮はそのもとに留まることを承知しなかった。ある人がその理由を尋ねると「孫将軍は人主の器といってよいでしょう。しかしその度量のほどを観察してみますと、私の才能を認めることはできましょうが、私の才能を充分発揮させることはできないでしょう。私はだからこそとどまらないのです。
『蜀書』諸葛亮伝引注『袁氏』ちくま学芸文庫

やはり孔明は自分の建策が採用されるかどうかを気にしている。その点劉備は孔明にとって理想的な仕官先であった。劉備には智謀の士がおらず、建策すればほとんどの策が採用されるであろう。さらに一文無しの劉備を三国の一角に押し上げれば、それはほとんど孔明の功であり、しかも植村氏の指摘の通り不可能を可能にするような偉大な功業である。

さらに劉備には孔明にない人徳があり、君主としての素質は当時第一級の人物であった。孔明が曹操、孫権に仕えず劉備に仕えたのは自分の策が採用されるかを何より重視していた証拠であると考える。

以上の考察を基に三顧の礼を検討する。孔明が劉備に三顧の礼をとらせたのは自分を高く売り込むためである。孔明が自分の建策が採用されるかを仕官において最も重視していたと考えるならば、劉備に三顧の礼をとらせたというのは、不自然な事実であるどころか孔明の仕官戦術において必須のステップとして周到に計画されていた可能性すらある。少なくとも三顧の礼をとらせる動機は孔明の側でも十分にあったと結論できるであろう。

③孔明はただ待っていたのか


続いて③の孔明が単に劉備の訪問を待っていたというのはあり得ないという指摘について論じる。確かに前述したように劉備は孔明にとって最適の仕官先であり、劉備が荊州にいたのは孔明にとって千載一遇のチャンスであった。単に待っていたのは不自然だというのは鋭い指摘である。

その点は私も深く同意する。しかし、私は孔明は単に劉備の訪問をまっていたのではないと考える。要は孔明は徐庶を送り込んでいたのである。

確かに前述したように劉備は孔明にとって最適の仕官先であり、劉備が荊州にいたのは孔明にとって千載一遇のチャンスであった。『蜀書』から三顧の礼の個所を引用する。『蜀書』から三顧の礼の個所を引用する。

先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶が先主と会見し、先主は彼を有能な人物だと思った。徐庶は先主に向かって「諸葛孔明という男は臥龍です。将軍は彼と会いたいと思われますか」とたずねた。先主が「君、つれてきてくれ」というと、徐庶は、「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくることはできません。将軍が車をまげて来訪されるのがよろしいでしょう」といった。その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげくやっと会えた。
『蜀書』諸葛亮伝 

徐庶と孔明の関係について諸葛亮伝に次の記載がある。

常に自分を管仲・楽毅に擬していたが、当時の人で、これを認める者はいなかった。ただ博陵の崔州平と潁川の徐庶の二人は、諸葛亮と親交を結んでいて、誠にその通りだと認めていた。
『蜀書』諸葛亮伝 ちくま学芸文庫

徐庶は孔明のよき理解者であったようである。孔明を劉備に推薦するには最適の人物であった。それは彼が孔明のよき理解者であると同時に、徐庶自身が有能な人物であったためである。まず、徐庶自身が有能な人物でないと、最初に劉備に信頼されない。信頼されて初めて劉備は徐庶の言葉に耳を傾けるのである。

さらに徐庶が孔明を推薦する直前に「先主は彼を有能な人物だと思った。」という記述がある。それは徐庶は劉備の信頼をかち得た後に孔明を推薦しているという意味である。徐庶が有能であっても、劉備がその有能さを知り認めていなくてはならないのである。

さらに徐庶が孔明のよき理解者である必要がある。孔明の才をよく理解していない人物が推薦しても、本気で推薦していないことがすぐに劉備に見破られるからである。心から推薦していないと効果はないのである。

もちろん徐庶は孔明の使い走りではないので、徐庶が劉備に接近したのは徐庶自身が仕官するためであって、孔明を推薦するためではない。しかし孔明と徐庶は親友であって、徐庶が劉備に仕官している間も、連絡を取り合っていたはずである。そして孔明が徐庶に自分を推薦するようにと働きかけていたのは想像に難くない。

さらに『襄陽記』にも次の記述がある。

劉備は司馬徳操に世間のことを質問した。司馬徳操は、「儒学者や俗人どもに、いったい時局の要務がわかりましょうか。時局の要務を識る者こそ英傑です。このあたりに臥龍と鳳雛がおります」といった。劉備が誰かとたずねると「諸葛孔明と龐士元です」と答えた。
『蜀書』諸葛亮伝引注『襄陽記』ちくま学芸文庫

孔明は単に劉備の訪問をまっていたのではなく、自分自身を理解する徐庶や司馬徽に自分を推薦させていたと考える。


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