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「視点」とは一体何なのか?

以前から、私の周りの人で「視点」という言葉を好んで使う人がいる。「それって視点の問題だよね」「視点を変えてみるといいんじゃない?」「視点ってそもそも何だろうね」などなど。世の中では「視点」について考えるのが流行っているのか、と思い自分でも考えてみた。流行っているならそれなりに需要があり一定の意味があると思ったからだ。

結論から言うと、あるものを見る時の視点というのはそのあるものをどのような文脈に置いて見るかということだと思う。この結論は完璧な結論ではない。当てはまらない場合もあるが、多くの場合に当てはまる。もちろん文脈と言っても色々ありうる。物理的文脈、論理的文脈、文化的文脈、社会的文脈など。我々が対象を見る時、その対象自体を見るということはない。必ずその対象を何らかの文脈に置いて見る。

例えば街中に除菌用のアルコールの入ったボトルが置いてあるとする。我々はそのボトルをそれ自体として見るのではない。色んな知識と関連付けて文脈に置いて見る。例えば「現在コロナが流行っている」という知識や「アルコールでウイルスを除菌できる」という知識を背景にもってアルコールのボトルを見る。だから「コロナの感染拡大防止のためにアルコールのボトルを置いているんだな」と理解できる。しかし例えば戦国時代の人が現代に来て、アルコールのボトルを見たら、そのような知識がないので「何だこれは?」となるだろう。我々とはアルコールのボトルを見る文脈と視点が違うからだ。

文脈とは言ってもいろんな種類の文脈がある。物理的文脈もありうる。富士山は静岡と山梨の県境にあるが、同じ富士山でも静岡から見るのと山梨からみるのでは見え方が違う。視点が違うからだ。この場合は物理的な視点。静岡からは富士山の全景が見える。山梨からは富士山の手前に他の山がいくつも見える。視点が違うと見え方も違うのである。それは物理的な文脈が違うからだ。他の山、他の対象との位置関係が物理的な文脈である。山梨から見ると他の山も見えるが、静岡からだと他の山は近くにない。

人間はひとりひとりその人固有の文脈を持っている。性格、興味、関心、専門分野、経歴など文脈がある。だから同じ対象でも誰がそれを見るかによって、その対象が置かれる文脈は違ってくる。同じ鹿を見るのでも剣道の防具をつくる職人は「あの鹿なら鹿皮でいい防具が作れそうだ」と思う。フランス料理のシェフなら鹿肉をつかってジビエ料理をつくろうと思うかもしれない。整体師なら鹿の体の動かし方に注目するかもしれない。同じ鹿なのに置かれる文脈は誰が見るかによって違ってくる。

見る人を変えるのが視点を変える手っ取り早い方法だ。別の視点が欲しい時は別の分野の人をつれてくるのが一番いい。たとえば私が今書いている文章を読むのでも、科学者が読むのと料理人が読むのと歴史家が読むのでは視点が違うはずだ。

「キャラにないことを言うな」と言われる。キャラクターも個性であり、その人が持つ文脈だ。人によって持っている文脈が違う。「盗みをするな」という言葉でも、真面目な人が言うのと盗人が言うのでは違ってくる。同じ言葉でも誰が言うかによってその言葉が置かれる文脈は違ってくるからだ。

文化的文脈もある。わたしはお屠蘇が好きだ。今年の正月も飲んだ。酒のみではないので酒の味はよく分からないのだが、私が好きなのはその匂い。お屠蘇を飲むとき二つの視点を切り替えながら飲む。

ひとつは日本の平安文化という視点。お屠蘇は平安時代に飲まれており、お屠蘇を飲むことで平安時代の文化に触れることができる。

もうひとつの視点は中国唐時代の文化という視点。私は世界のいろんな国のいろんな時代の文化に興味がある。唐の時代の文化もそのひとつ。唐文化は地上から消えてしまった文化のひとつだが、かろうじて残っている。唐三彩という焼き物は保存状態は悪いが色んな美術館で見かける。日本の雅楽は唐の文化である。伎楽面なども唐文化。正倉院の宝物も日本文化と思っている人もいるかと思うが、あれは唐の時代のシルクロード文化である。唐の時代の壁画も敦煌などに残っているし、中国に旅行に行ったときに博物館などで唐の時代の彫刻などを見ることもある。

唐の時代の音楽も残っていないわけではない。敦煌で唐の時代の楽譜が発見された。中国の人は誰も読めなかったが、読めた人たちがいた。日本の雅楽師たちである。日本の雅楽は唐の時代の音楽をしぶとく守り続けた人たちである。だから彼らには読めた。そして日本の雅楽研究者のひとりがその楽譜から唐の時代の音楽を再現した。わたしはそのCDをもっていて聴いている。
そのようにして自分の中で唐の時代の文化をぼんやりとではあるが再現しているので、お屠蘇を飲むときも「これが唐文化だ」と思いながら飲む。平安文化と唐文化を切り替えながら飲むのでけっこう忙しい。現代日本文化という文化的文脈で飲むとお屠蘇はそんなにおいしくはないかもしれないが、平安文化や唐文化の文化的文脈で飲むと非常においしい。

お屠蘇は日本文化かそれか唐文化のどっちかなんだから、両方の視点では見れないのではないか、という人もいるかもしれないが、そんなことはない。同じ文物が二つの視点、二つの文化的文脈から見られることはしょっちゅうある。

例えば有田焼の壺がある。これを和建築に置けば日本的な文化の文脈に置くことになる。たしかに壺は非常にきれいに見える。しかし日本の磁器は昔、ヨーロッパでも非常に流行した。同じ日本の有田焼の壺をヨーロッパの宮殿に置く。別の文化的文脈に置くことになる。見え方は違ってくるがそれでも壺は非常にきれいである。日本文化とは違う文脈なので見え方は違ってくる。しかし確かに同じ壺なのである。

京都の寺に中国の水墨画が飾られている。和建築と非常に調和している。これは中国の絵画を日本文化という文脈に置いている。見事に調和している。しかしその絵画は元々中国にあったのであり、中国の大商人の家に飾られていたかもしれない。本来中国絵画は中国文化なのである。しかし京都の寺に飾って日本の文化の文脈で見ることもできる。同じものを視点を切り替えてみることができる。

イスラムのテロも西洋社会という文脈から見る場合とイスラム社会から見る場合では文脈と視点が違う。互いの立場を理解しないとそもそも理解し合えない。文脈が違うからである。思想の合成もこの文脈と関係がある。

いろいろ述べてきたが個人的には「視点=文脈」という考えは完璧な回答ではないと思う。「視点=文脈」より「視点=視点」と考えたほうが融通無碍に対象をいろんな視点から見れるような気がする。

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