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【怪談】アメオトコ

怪談師の鉄筆堂で、一席おつきあいを願います。

私が北関東にあります工場ばかりの町に住まいし始めた時分のことですから、モウ五、六年前になりましょう。

まわりは工場ばっかりなんですが、私自身は学習塾でケチな講師をしておりましてね。

ここらは、私の田舎の北海道とおんなじで、クルマがないとてんで買い物もできないような土地なんですが、都内から越してきたばかりの私は、ツイその歳まで免許なんか取らずに来ちまいました。

マア、後になって免許は県境の辺鄙なところに合宿に行って取る羽目になるんですが、それはまた別なお話。きょうお話致しますのは、クルマの免許を取るまでに、徒歩で通勤してた時分のことです。

塾講師ってのは、みんなから「先生」「先生」なんて云われますが、おんなじ「先生」でも学校の先生とはちがって、夜のお仕事です。毎日仕事が終わる頃にはもうすっかり真夜中で、その日も校舎を出てから寂れた駅前の居酒屋で一杯やっておりました。

その日は、モウすっかり顔馴染みになってた常連の川さんってのがいましてね、白髪混じりの胡麻塩みてえなヒゲいじりながら、顔真っ赤にして焼酎くさい息をしいしい私に話しかけてくるんです。

「おお、先生。ドウ?そろそろ仕事には慣れてきたン?」

「ええ、おかげさまで、マア」

「何か先生、怖い話好きだって?仕事の合間に怖い話読んだり、書いたりしてるって」

「え?エエ、よくご存じですね。だれに聞いたんです?」

川さんはそれには答えずに、

「やっぱり。自分でも怖いの書くン?」

それならサァ、と川さんは続けました。この辺りの面白い話を聞かせてやろう、と。

何でも、ここらにはアメオトコという物の怪の類が出るのだとか。アメオトコと云やあ、ふつう、遠足だのイベントだのがあるときに限って、ソイツがいると雨になってしまう、という男性のことですが、ここいらではドウモそうではないらしい。

アメオトコって奴ァ、見た目はふつうの人間ですが、決まって夕暮れ時から明け方くらいに傘をさして歩いてると申します。

通行人でしょうよ、と私が云ってやりますと、赤ら顔のまま、ヤケに深刻そうな表情で、川さんが言いました。

「イヤ、確かに見た目はふつうだけどナ、雨降ってないときに出るんだよ。からっからに晴れてるのにヨオ、急にぽつぽつと雨の音がするんだ。俺もこの前、トウトウ見ちまった」

「へえ、どんなでしたか?」

「ホラ、そこの裏道あんだろ。ハローワークとか、公園とかに面した。一杯やってイイ気持ちになって、そこ歩いてたんだよ。そしたら向こうから、工場のツナギ着た野郎が歩いてくる。で、なぜか傘をさしてる。雨なんか降ってねえのに」

「…ただの変な人でしょう」

「それがヨォ、急に雨の音が聞こえてきたんだ。さぁーっていう、小雨が降り出したみてえなのが。『お、何だ、降ってきたか』なんて空見上げたんだけど、全然降ってねえ。そうしてるあいだも傘をさした奴はズンズン近づいてくる。そいつの表情が見えるくらいになったときに…」

私が、「なったときに…?」と促しますと、川さんは水割りの残りをぐいっとやりました。氷の音がいやにカラリと響きます。

「気づいたんだ。確かに雨は降ってた。ソイツの、黒っぽい傘の中だけ、雨が降ってるんだ。傘の下で奴は雨に濡れながら歩いていた。何か云いながら。雨の音で聞こえやしなかったけどサ」

「ご冗談でしょう…」

「冗談なもんか。この目で見た。それにここらの工場の連中はみんな知ってるよ。何でも、むかし工場のプレス機につぶされて死んだ奴らしいゾ。梅雨時の事故だったんだってよ」

「へえ…。道路は濡れてましたか?」

「オウ、それがナ、通った跡はからっからなんだ。でもナ、アイツとすれ違うと、雨が降り出したときのあの匂いがした。わかるだろ、雨が降り出したときのあの…」

私は黙って聴いておりましたが、正直なところ、工場務めのお兄ちゃんたちからはついぞ聞かない話なので、ホラ話かと思いました。

次の日も仕事だったので、川さんへの挨拶もそこそこにサッサとお勘定を済ませて帰ることにしました。出入口の引き戸をすうっと開けて、暖簾を手でどけたそのときです。

工場の作業着姿の男性と思しき人物が運転する、シルバーの軽自動車がのろのろと近づいてまいりました。私はすぐに「あれ?」と違和感を覚えたのですが、それがどうしてなのか、一瞬わかりませんでした。そして、ハッと気がついた。

そのクルマは、ワイパーを動かしているのです。お月さんのよく見える、晴れた夜だってのに。フロントガラスには雨水らしきものまで滴って見えます。「え…?」と思うまもなく、

バシャア!

と水を引っかけられまして、「冷たっ!」と思ったんですが、オヤッと思って見てみると、どこも濡れていやしない。

慌てて取って返して、川さんに話してみると、

「オウ、出ただろ、アメオトコ。やっぱあいつはまだこの辺をうろついていやがるんだ」


夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。