見出し画像

【没作供養】紫陽花

 梅雨時が嫌いだ。じめじめしていて陰気で肌寒いから、というだけではない。学生時代から、梅雨時になると毎年おかしなことが起こるのだ。
 あのころは毎日、井の頭線に乗って大学に通っていた。梅雨時になると沿線に咲いた紫陽花の、紫がかった淡い青色の花がきれいだったのをよく覚えている。北海道から出てきたぼくにとって、梅雨というのはじめじめと不快で、いつまでも慣れないものだったが、紫陽花の色だけは好きになった。
 その日も、車窓から無数の紫陽花が雨に打たれるのが見えた。雨の匂い、じとっとした空気の重さ。ぼくはその日のドイツ語の小テストに備えて、車内で教科書を開いて最後の確認をしていた。
 「まもなくぅ、池ノ上ェ、池ノ上です」
 もうすぐ降りないと。本を鞄にしまおうとしたそのとき。灰色っぽい和服を着たおばあさんの顔が紫陽花になっていた。…紫がかった青い顔に小さな緑色のぷつぷつがいっぱいあるおばあさんが正面の席に座っている。花弁がたくさん集まってできているかのような顔で、どこが目でどこが鼻なのかも判然としない。口許だけはもぐもぐと動いているのがわかる。まっすぐ私の方を向いていたのだが、それがニィッとやけに白い歯を見せて嗤った。
 「え…」
 ぼくが混乱しているうちに、隣の駅に到着した。逃げるように電車を降りる。紫色のおばあさんは窓越しにまだこちらを向いていたが、そのまま電車に運ばれていった。何だったのか。改札を通って、降りしきる雨の中、傘をさそうとしたそのときだった。
 ばしゃっ!
 一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。傘の内側に水が溜まっていたのか、傘を開くと頭上に水が降ってきた。どうやってそんな所に水が溜まったのか。それだけ、と言えばそれだけで、その後あの紫陽花ばあさんに会うことはなかったのだけれども、あれから毎年、梅雨時に出かけようとすると決まって傘の内側に水が溜まっている。傘をさす前に、必ず内側の水分を切る動作をする癖がついてしまった。
 それに、雨が降っている日に出かけようとすると、いつものスニーカーの中が、大雨の中どこかに出かけてきたかのように、なぜかぐっしょりと濡れている。学生時代のうちは雨の日にはサンダルで出かけることにしたが、サラリーマンとなったいま、革靴という革靴が梅雨時になるとぐっしょり湿っているのは出勤前から気分が悪い。
 ぼくは梅雨時が嫌いだ。
 
* * * * *

上記作品は、或る怪談の公募に出品したものの、残念ながら落選となってしまったものです。このまま消えていくのではなく、せめてみなさまに一瞬でも楽しんでいただければと思い、掲載しました。お読みいただきありがとうございます。

夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。