藩剤舎

なんの変哲もないネクタイ。 抜粋。

藩剤舎

なんの変哲もないネクタイ。 抜粋。

最近の記事

茫乎

月が青く、そして高かった。丸く透き通って、黒い布にレンズを落したように見えた。 透き通るように空気が澄んでいた。夜は未だに少し肌寒い。 大きく息を吸い込むと肺の奥が痺れた。潮の匂いがする。 「……海が近いのか」 そう呟いて、白衣の女性はポケットを引っ掻いた。 ポケットの中は、飴玉、チョコレート、ライターの類がぐちゃぐちゃに詰め込まれている。 それを弄びながら、女性は空を仰いだ。 「すこし遠回りになるけど…見に行く?」 少女は細い腕を伸ばして言った。 「……そうしよう」 ライタ

    • 苔むした石段を踏む。小雨が降り始めていた。 フードを被って道を急ぐ。雨は好きじゃない。濡れると寒いから。 山あいの神社は、ここ数年でずいぶんと寂れた様子だった。石段の横には雑草が茂り、木は無遠慮に伸びている。管理人がいないのだから、それも当然のことだった。 昔は雨は嫌いでもなかった気がする。ただ、小さかった頃の記憶はこの景色のように霧がかって思える。 近頃はこの町にもめっきりと人が少なくなった。どこに行ったのかはよく知らない。神隠しか何かだろう。知る術はないが、歴史がゆるやか

      • イグサ

        今はもう博多に移り住んでしまったが、実家のすぐ近くには団地があった。 窓から直接見えはしないけれど、徒歩数分圏内。数十年ほど前に作られたのであろうその団地は、いかにも県営団地といった風情であった。 私は一定の友達以外との交流はあまり無かったのではっきりとは分からないが、同窓の一定数の人々はそこに住んでいたように思う。友達の中でも何人かはそこに居を構えていたと記憶している。 その友達の一人に、短髪の女子がいた。名前を彩夏と言った。 中学三年生の時、彼女は少し大人びたグループに属

        • 襲来

          朝早く、私は電車に乗った。始発から3本目だった。 早朝の窓の外は、まだ暗い。ドアの窓に息を吹きかけて指でなぞった。窓ガラスは氷のように冷たく感じた。なぞった跡は見えなかった。 薄暗い街を見下ろしながら、ふと、昨日見たテレビを思い出した。 空から襲来した宇宙人が、あっという間に地球を征服してしまう。それと人間が戦うという、ありきたりな番組。 もし今、この景色にUFOが飛来してきたらどうだろう。私はたぶん、会社を休めることを喜んで、SNSに面白半分の書き込みを残すと思う。 実際に

          十物語log 2023/12/15

          十物語log 2023/12/15 A 無題 動画サイトの広告の話なんだけど。 ああいうのって大抵、5秒かそこらするとスキップできるようになってるよね。 私は興味なさそうな広告だったら、飛ばせるようになる前からスキップボタン連打しちゃう人なんだけど。 その時は動画の内容がすごく面白そうで、早くしてくれないかな、とか思いながらまた広告をぼーっと見てたんだよね。 そしたら、なんだかその広告はどうやら他の広告とは雰囲気が違って。 古臭い映像で、なんだろう。VHSに3倍モードでダビ

          十物語log 2023/12/15

          アラームが鳴って、5時半の朝を鳴り止ませる。夢を見ていた気がする。雪の結晶が網戸に張り付いていた。 「おはよう、花柳クン」 波多野はコンビニのコーヒーを片手に、丸机に半ば座り掛かるようにしてこちらを見ていた。 「……おはようございます」 半分寝ぼけたまま、窓を軽く開ける。 ひんやりとした風と共に、誰かが手入れする庭の花の香りがした。 「花が好きなんだね」 「ええ、まあ」 曖昧に返事した。花のことなんて意識したことも無いのに、なぜか口から返事が零れていた。 後ろで電気ポットが水

          雪の日

          榎本が微睡みから目覚めると、空はもう藍色に染まっていた。葉の隙間からは星がいくつか覗いている。 腕時計に目をやると、時刻は19時13分だった。 「寒い……」 誰に言うでもなく呟く。パーカーのフードを被り直す。気を抜くと体が震えてしまいそうだった。 ポケットの底からライターを指先で探り当てると、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。残りは3本だった。 箱を振って、1本を口にくわえると箱をポケットに戻す。煙草を人差し指と中指で挟みながら、左手を風よけにしてライターを点火した。指先が

          休憩室

          「私の誕生日?」 坂口はそう言って、8月のカレンダーをまじまじと眺める。それから、月が変わってから20日の間それをめくり忘れていたことに気がついた。 9月20日。 つまらない数字だ。と、彼女は自分のことながらそう思った。 休憩室は静かな様子だった。長谷川は黒いソファの上で膝を丸めて横になっている。白衣の裾が床の上に垂れていた。 坂口は低い机を挟んだ反対側であぐらを組んで、ノートパソコンに何らかを打ち込んでいる。服にはココアをこぼした跡。壁掛け時計の秒針だけが、時間に区切りをつ

          蒸気

          夜間に降り続いた雪がやみ、裾のそれを払った。 このあたりの夜は底冷えがする。十何度であった昼から一転して、気温は1度を下回っていた。 じんと指先に刺さるような感覚。手を擦り合わせて、飲み屋街を遠目に眺めた。 街も白むほどの雪景色の中で、提灯の赤がやけに目立つ。軒先に吊られた無数の燈籠が、雪に濡れて光を反射している。 静かな夜だった。駅前の時計が午前4時半を指した。 どこか遠くに聞こえるクラクション、犬の鳴き声、酔っ払いが上げる声。雪の夜は、どこか別世界の住人になったような感じ

          あの人 2

          斎場のコンクリートの壁に寄りかかって、遠巻きに囲むように広がる木々を見ていた。 昨夜から今朝にかけて降った雨が日を浴びて輝き、蒸し暑い空気の湿度をさらに増している。15時過ぎの空はやけに明るく青い。白い斎場がなんとか日陰を作っている。 がらんとした駐車場にはぽつりぽつりと車が止まっている。風はなく、蝉の声だけがうるさく耳の奥を叩いていた。 「……」 灰色のパーカーの彼女はわたしの隣で黙っていた。喪服は葬儀が終わるなり脱いでしまったらしい。暑そうに髪をかきあげて、湿気に気だるい

          蝋燭で照らされた背の低い石窟の奥。エコーはゆっくりと手を合わせていた。目を閉じて、別人のように静かに黙祷している。シエラは近くの壁に寄りかかってそれを見ていた。 蒸し暑いのには変わりないが、夜は幾分ましだ。それでもじっとしていると汗が滲んでくるので、シエラは足音を立てずに外に出た。 石段に腰掛け、空を見上げる。雲ひとつない空で、月が煌々と輝いている。まるで昼間のような明るさで、そのくせ星は見えない。不思議なものだと思った。 石窟の周りは竹林に囲まれ、小さく狭い石段が本殿へと繋

          小満

          篠突く雨がアスファルトをならす。水溜りに水滴が落ちる。天井を叩く。 雨音はいつしか気にならなくなっていた。意識の外、というのが近いのか。雨は一面に均等に吹き付けるように振り続けている。篠宮はただベンチに座っていた。 雨の他には何も聞こえないように思えた。普段あれほど辟易している、蝉やなにやらの虫の声なども今は聞こえない。あるいは同じように意識の外にやってしまったのか。その正誤さえ意識の外である。 「隣、いいかな」 声がすると、雨の騒音が耳についた。ある程度大きな声でなければ、

          駅の階段は、夜の闇に沈んだ。 人が行き交ったことを示すのは壁のポスターや落書きだけで、踊り場には新聞や雑誌、空き缶やタバコの吸殻が散らばっていた。 階段の手すりは錆びやほこりで汚れている。階段を上り下りする音も、駅のアナウンスも、列車の通過する音も、いずれも聞こえない。風が吹くたびに缶が転がったりポスターがめくれたりする。それがこの場所に時間を感じさせる唯一の動きだった。 階段を下りる。靴がコンクリートに擦れる。足音が響く。空気は冷たく澄んでいる。 時間が歪んでいるように感じ

          雨が降っていた。 青白い蛍光灯が、ホームの白線と点字ブロックを照らす。 緩やかな曲線の藍の椅子に貼り付くようにもたれ掛かった彼女は、フードから髪をこぼれさせている。見ない内に染め直したのか、あるいは単に薄暗いからか、前より深い色に見えた。 「……やあ」 「お久しぶりです」 「そうだね」 短い会話のあと、私は言うべき言葉を探したが、何も見つからず、ただ隣に座った。 彼女はこちらを見なかった。私も前を向いたままでいた。 雨は止む気配がなかった。時折吹く風と雨粒だけが、ホームに止ま

          カメラロール

          ・pic_4294967296 [データ破損] ・pic_4294967288 [魚の骨1尾。魚種は不明。コンクリートの上で夜間に撮影されたように見える。一部が折れている箇所もあるが、全体的には比較的良好な状態を保っている] ・pic_4294967012 [倒壊したビル。鉄骨が露出している。中心には壊れた建物から突き出た壁の断片が見え、その上には窓枠が残っている] ・pic_4294966377 [ビルの谷間に生える花一輪。植物の種類は不明。花の直径は4センチほど、高

          カメラロール

          川底

          資料室は紙の匂い、たまに微かな消毒液の匂いがする。猫塚は足早に障壁を抜けて、ソファの右端、その定位置へと戻った。 木製のテーブルの上には、コーヒーの入ったマグカップが2つ置かれている。 ソファの左端の白柳は、脚を組んだままそれを拾い上げ、砂糖入りの甘い方を差し出した。 「ありがとうございます……」 猫塚はそれを両手で受け取り、そろりと口を付けた。白柳もそれにならうようにして、自分の分のコーヒーを口に含んだ。 コーヒーは夜の闇より暗く、覗き込むと自分が映っていた。 2人はしばら