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みかのはら特集

3月12日 火曜日
時刻は、16:00に
なろうとしております

月に一度の
「楽しく学ぼう日本の歴史」
今回で、「12回目」を数えます
もうすぐ一周年ですね
早いものです。

「ひろぽんさん、
  ありがとうございました」
「まだまだ、続けたいと思ってますが
よろしいですか?」

(昨日は、MSDの日でしたね?)
(震災の日)

さて、今月のお題ですが
「みかのはら特集!」
ということで

先月の歴コラの中で
3月の歴コラの題材を
みかのはら」にすると宣言いたしました!
「え?みかのはら?」って
初めてお耳にされる方も
多いのではないかと思います

まずは、場所からですが
京都の南部、
京都府木津川市
古くは「みかのはら村」であり
奈良県との県境に位置してます。

ここで、ちょっと、歴史からは
いったん、遠のきます

実は、「みかのはら」って
この「スタンドFM」にも
チャンネルがございまして
みかのはラジオ」として
朝、6時30分から、
パーソナリティーが日替わりで
毎日、配信されております。
実は、ギター部が
存在しておりまして日曜日だけは
朝の10:00から配信されて
おりまして
僕も、配信を聴いたんですが
とても楽しそうに演奏される方ばかりなんです。

音楽が好きなかたも多くて
先日は、自作のライブ会場を作って
ライブを行ったり
そして、40分くらいですが
音楽に関係している映画も
創っておりまして
僕も、今朝、拝見したのですが

撮影方法とか、音響の関係とか
とても一般の方が創ったとは
思えない出来で、
内容も面白くて、あっという間の
40分でした。

僕も、昨日、現地に行ってきました
周りは、山に囲まれて
木津川が流れていて
ちょっとした盆地なんですが
天気が良かったこともあり
とても、のどかで
現地にいるだけで癒されるところです

多分、共感してくださる方も
何人かは、みえるかと思います。

(昨日は、三人、お会いしましたが
まずはひとり目
(みかのはラジオ)火曜日担当の、
マスターズラジオこと
シャカマスさんとお会いしました

この方が、とっても明るい方で
初めて会った瞬間
笑顔で応対してくださって)


まずは、みかのはらのキャッチコピーですが
これがまた、面白いんです

「1300年前の都 どこやねん、みかのはら」
です

とても、ユニークですよね?
ぼくは、奈良の大仏で有名な
東大寺や、二月堂に行ったときに
「みかのはら」に立ち寄らせて
いただきました

「近鉄奈良駅を降りたところに」
東大寺や、二月堂がありましたから」
「そこから、北の方角?へ
 車で約40分くらい?のところです」

ちなみに、1300年前と言いますと
2024年ー1300年
西暦に直すと、720年あたりですか?
ちょうど奈良時代
あたります。

ちなみに、奈良時代って、
よく耳にするんですが
西暦の何年から、何年までを指すんでしょうね?

「はい、ここで、問題です」(第一問
奈良時代とは、一般的に
何年間あったと言われているでしょうか?
ジャジャン♬
①84年間 ②153年間 ③223年間

奈良時代は、710年に元明天皇により
平城京に遷都されてから
桓武天皇により平安京に
遷都されるまでを指します
平安京は、
「鳴くよウグイス 794年」に
遷都されましたから
答えは、①84年間ですね。

別の見方として、784年に
長岡京に遷都されてまして
74年間と見る節(ふし)も
ございますが、
この場では、平安京に遷都されるまで
奈良時代といたします。

奈良時代って、100年なかったんですね

ちなみに、この84年間
何回か都が移動しております
ここで、問題です。(第二問
この奈良時代に、都は何カ所
変わったでしょうか?
①3カ所 ②4カ所 ③5カ所

710年に「平城京」
奈良の大仏で有名な聖武天皇の時代に
740年から、745年にかけて
「恭仁京」(京都府木津川市)
「難波京」(大阪府)
紫香楽宮滋賀県甲賀市信楽
に都を移しました。

そして、再び、平城京に都を戻してから
784年に「長岡京」に移しました
合計、5カ所ですね。
答えは③です

ちなみに、紫香楽宮に関しては
のちに甲賀宮(こうかのみや)に
名前が変わってますが、こちらは
数に入れません

不思議ですよね?
ほんの5年の間に、3カ所ですよ
一体、何があったのでしょうか?

ひとつ考えられるのが
740年に九州の太宰府で勃発した
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱」です。
天平10年(738年
藤原宇合長男・広嗣(藤原式家)は
大養徳(大和から大宰少弐に任じられ、
大宰府に赴任した。
この人事は対新羅強硬論者だった
広嗣を中央から遠ざけ、
新羅使の迎接に当たらせる
思惑があったが、広嗣はこれを
左遷と感じ、強い不満を抱いた。

この乱に恐れを抱いた聖武天皇が、
あらゆる所に都を移動させたと言う見方が
大方の見方らしいですね。


そして、藤原広嗣の乱の途中に
聖武天皇は、突然、行幸(ぎょうこう)を
行います
伊勢の国、美濃の国、などをまわり
そして、平城京へ帰ることなく
この「みかのはら」に訪れたときに
突然、ここで、遷都を宣言します

ここで、
「恭仁京(くにきょう)」が誕生いたします


恭仁京が都だったのは
740年12月から744年2月らしく
約3年と3か月ですね

当時、天然痘という
当時、助かる確率が50%あるか
ないかの疫病が大流行しておりました
都のなかでも、藤原四兄弟など政府高官が
病死してしまうという事態を招いていました

この当時、日本の人口は
何人だったかご存知ですか?
①300万人 ②400万人 ③500万人

そして、約25~35%の方が
病死したということです
数字に直すと、100~150万人
3人~4人にひとり
大きな社会問題となっておりました

(当時は、
「災いが起きるのは、為政者が悪い」
と言われておりました)

この噂を聞いた聖武天皇が
様子を確認するために
行幸を行ったという見方も
あるのではないか?
昨日、聞いたお話や、それから
調べた内容を見ていると
そんな見方も出来るかと思います

そして、天然痘を抑え、
人々の生活を安定させるために
聖武天皇は何かの力を借りようとします

それは、なんだと思いますか?
三択なしです

「仏教」ですね。
当時の「仏教」が人々に与えた影響
というものは、僕たちでは
計り知れないものがあったのかも知れません

そして、、この約3年の間に
聖武天皇は精力的に詔を発しております
さぁ、ここで問題です。
次の三択のうち、ひとつだけ
聖武天皇が発した詔とは違うものが
ございます。
さて、それは何番でしょう?
①十七条の憲法
②墾田永年私財法
③国分寺建立の詔

ちなみに、ひとつひとつの内容を
紹介していきますと

③の「国分寺建立の詔」については
「各国ごとに七重の塔を一基つくらせ、
「金光明最勝王経」と「妙法蓮華経」を
一部ずつ写させよ。
 また国ごとの僧寺には封戸50戸
水田10町を、尼寺には水田10町を与える。
僧寺には必ず20人の僧をおき、
寺の名を金光明四天王護国之寺(国分寺)とする。

②の「墾田永年私財法
(こんでんえいねんしざいのほう)
墾田永年私財法とは、
743年に 聖武天皇 によって
発布された。
土地を開墾した分だけ
自分の土地にできることが出来る法律です

ちなみに、この、墾田永年私財法は、
のちに武士が生まれるもととなった荘園が
生まれるキッカケになったとも
言われております

②も③も、聖武天皇によって
発布された法律です。

と、言うことは、正解は
①十七条の憲法 ですね。

ちなみに、この「十七条の憲法」は
誰が定めたと言われているか
ご存知ですか?

それは、あの聖徳太子です。
日本最古の憲法と言われております
これは、マメ知識として

そして、聖武天皇は
恭仁京に都を置いている間に
もうひとつ、詔(みことのり)を
発しています。

そう、アレです。
大仏建立の詔です
正式名は
「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」
大仏をみなの力を合わせて造ることにより
世の中に平和をもたらそうと
したのですね

いまでこそ、銅の色ですが
当時は、金色に光り輝いていたらしいです

あとは、百人一首の27首目

中納言兼輔が読みました
みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

みかの原から湧き出し、
(その原を)分けて流れる
いづみ川ではないですが、
その「いつみ」という名のように、
(私はあの人を)
いつ見たからといって
こんなにも恋しいのでしょうか、
まだ会ったこともないのに。

という語訳があります

今回は、これで終了です
みなさん、ありがとうございました


#12楽しく学ぼう日本の歴史【みかのはら特集】 - 🐬どるっち🐬の、マイペースラジオ📻 | stand.fm



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